司馬遼太郎 「箱根の坂」2

応仁の乱は通常、室町幕府の将軍家および重臣のお家騒動が発端のように思われますが、
実は関東の騒乱が応仁の乱の遠因になったと言われています。

 

鎌倉公方、古河公方、堀越公方

足利尊氏は関東統治のために、鎌倉府を設置し、その子・基氏に関東10か国の統治を任せ、
以来、鎌倉府の長官=鎌倉公方は基氏の子孫が引継ぎ、上杉氏が補佐役=関東管領として世襲していきます。

ところが、やがて鎌倉公方は室町幕府および関東管領と対立するようになり(上杉禅宗の乱、1415年)、足利持氏(もちうじ)が室町幕府内の不満分子と組んで、幕府に反抗的態度を続たことで、
足利将軍義政は関東管領・上杉憲実と与して持氏を敗死させます(1439年)。

その後持氏の遺児・足利成氏(しげうじ)が許されて鎌倉公方になりますが、1455年成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、
幕府・将軍義政と上杉家が、成氏と争いをはじめ関東地方一円に騒乱が拡大します(享徳の乱、きょうとくのらん)。

幕府方が鎌倉を占領すると、鎌倉公方=成氏は下総・古河城に逃れ、以降古河公方と言われます。
義政は新たな鎌倉公方として弟・政知を関東に送りますが、政知は成氏側の抵抗にあい鎌倉に入れず、
伊豆の堀越御所に根拠を定めたので、堀越公方と呼ばれます。

延々28年間続いた騒乱も、1483年成氏が幕府に和議を申し和解し、成氏が引き続き関東を統治する一方で、
伊豆の支配権は政知に譲ることになりました。
すなわち、堀越公方=政知は関東統治ではなく伊豆一国に勢力を限定されることになりました。

 

新説・北条早雲

北条早雲

さて、北条早雲=伊勢新九郎の話に戻します。

現在北条早雲の研究では黒田基樹氏が第一人者と言われていますので、
以下黒田著「戦国大名・伊勢宗瑞」とWikipediaを参考にしながら早雲の生涯を整理します。

黒田説によると…

早雲は1456年生まれ享年64歳。
伊勢新九郎を名乗り、若くして足利将軍の申次衆(秘書役)になり、幕府で高級官僚の職を得ていた。
早雲の駿府における初期の軍事行動はすべて足利政権の指示あるいは了解を得ていたと考えらる。

また、北川殿は妹ではなく姉であり、当時の伊勢家は今川家に対して遜色ない家柄であり、正室として今川家に入った。
北川殿の夫・今川義忠が戦死すると、北川殿は将軍義政に積極的に働きかけて、嫡男龍王丸を今川家の当主にするお墨付きを得た。
実際に動いたのは伊勢新九郎であったといいます。

ですから、伊勢新九郎が義忠の従兄弟・小鹿範満を追い落とした軍事行動も将軍の了解を得ていたといいます。

 

伊豆討入り

堀越公方=政知は正室の円満院との間に清晃(のちの義澄)と潤童子をもうけていました。
政知は清晃を出家させていましたが、後々は清晃を将軍に、潤童子を鎌倉公方にする野心を持っていたといいます。
実は、政知には長男・茶々丸がいたのですが、政知はこれを嫌っていました(茶々丸の生母が不明、粗暴であったとも)。

延徳3年(1491年)に政知が没すると、茶々丸は円満院と潤童子を殺害して強引に跡目を継ぎます。

このとき清晃は父・政知の希望通り将軍義澄になっていて、義澄としてみれば母と弟の仇・茶々丸を誅殺する正当な理由を持ち、その任を隣接する今川家当主・氏親および叔父・伊勢新九郎に命じたと黒田は言います。

1493年新九郎は伊豆に討ち入りします。
しかし、茶々丸を取り巻く近隣武将とりわけ上杉家の分裂と和合、
それに対する幕府側の複雑な事情と相まって茶々丸討伐は簡単ではなかったといいます。

この間、伊勢新九郎は出家し、名前を早雲庵宗瑞に変えています。
これは早雲が将軍家の高級官僚の道を捨てて、駿河で戦国大名の道に進む決意であったと考えられています。

早雲が実際にどのように茶々丸を討ったかその経緯ははっきりしないようですが、
ともかく早雲は茶々丸を討って伊豆一国を支配することになり、すべては将軍・義澄が了解していたということです。

この早雲による伊豆討ち入りこそが、東国戦国時代の始まりといわれています。

 

その後早雲は、箱根の坂を超えて小田原を攻め、更に三浦氏を滅ぼして三浦半島を制圧し、
名実ともに戦国大名になっていきます。

 

早雲がなぜ強かったのか。それこそ戦国大名といわれる所以です。

すなわち、これまでの守護大名が、実際の統治は守護代や国人に任せて、上前だけを受け取っていたのとは違って、
早雲は領国に住み、領国内のすべてを自分自身で、くまなく目配りし、自分の考えでしっかりと統治する、
いわば民政を自分自身の力量で統治して、国全体をしっかりをグリップし、国力を上げていったのが大きな要因であったと言います。

この点は司馬遼太郎も何度も強調しています。

 

司馬遼太郎 「箱根の坂」

「箱根の坂」第一版は、1984年(昭和59年)司馬遼太郎61歳の時に上梓されています。
私は講談社文庫・新装版全3巻(2004年)で読みました。

前回ご紹介しました永原慶二「下剋上の時代」が描いた次の時代、
すなわち、戦国時代が切って落とされた時代に、
駿河(現静岡市)の東部に拠点を置いて、伊豆、小田原、三浦半島を制圧し、
後北条家の礎を築いた戦国風雲児・北条早雲の一代記です。

早雲の伝記・軍記物は江戸時代から種々あるようですが、史料としては不正確で、
最近の研究では、多くの修正がなされています。

司馬遼太郎が本書を書いたころ、新説が出始めていたのだと思いますが、
本書は従来の伝記に近い内容だと思います。

 

小説では、
出自を明言していませんが、備中伊勢家に生まれ、1432年生まれ享年88歳説を取っていて、
大器晩成の典型という風説に従っています。

早雲が生まれた伊勢家は平家であり、行儀作法の家元であり弓馬に秀でた名門家系とはいうものの、
伊勢家の末流で、源氏の足利幕府にあっては、
歴史から置き去りにされ落ちぶれた家柄、という設定です。

 

足利義視の家で申次衆(秘書官のようなものか)をしていた新九郎(早雲の通称)が、
義視の夫人の侍女として田舎から連れてきた妹・千萱(ちがや)のところに、
駿府当主・今川義忠が夜這に来て、その後駿河に呼び寄せ側室(正室?北川殿)にします。

1476年、応仁の乱の余波で今川義忠が若くして戦死しすると、北川殿と幼い龍王丸が残され、今川家の家督が問題になります。
龍王丸は嫡男であり跡を継ぐのが筋ですが、幼いため多くの家臣および近隣の武将は義忠の従兄弟・小鹿範満(のりみつ)を推します。
この時早雲が駿河に下向し、「龍王丸が成人するまで範満を家督代行とする」ことで決着させます。
早雲88歳没説ではこの時早雲45歳になっています(早雲の年齢については以下同じ)。

月日が経って、龍王丸がが15歳になっても、範満は龍王丸に家督を譲りません。
早雲は再度駿河に乗り込み、範満を討って、龍王丸を今川の当主(今川氏親)に据え、
これを期に駿河の東・興国寺城に館を構えます(早雲56歳)。

WEBから借用

室町幕府と鎌倉府の間に長い間確執が続いていて、
1458年室町将軍義政は鎌倉公方・成氏を古河に追い、弟・政知を鎌倉公方として送りますが、
成氏一派の抵抗にあい、鎌倉に入れず、伊豆半島の付け根、堀越に居を構え以後堀越公方と言われます。

WEBから借用

堀越公方足利政知には息子茶々丸、清晃、潤童子がいました。長男・茶々丸の母親は早くなくなり、茶々丸自身が粗暴であったので、父・政知は茶々丸を嫌い、他方、円満院との間の子清晃、潤童子を寵愛し、後々清晃を室町将軍に、潤童子を鎌倉公方に据えようと工作します。
ところが、1491年茶々丸は父・政知、円満院、潤童子を殺害、長男清晃は生き伸び京に逃れます。

この事件を間近に接した早雲は、今川氏親に兵を借り今川家代官として茶々丸を襲いますが、茶々丸は三浦に逃れます(早雲62歳)。
伊豆半島を一掃した早雲は以来伊豆一国を勢力下に置きます。

WEBから借用

その後早雲は堀越御所の近くに住み着きますが、当所はかつて鎌倉幕府執権北条氏が居住し、地名が北条であったことから、
早雲は「北条殿」と呼ばれるようになり、2代氏綱が正式に北条を名乗ります。
鎌倉幕府の北条氏と区別するために、後北条ということがあります。

早雲はこの間一貫して、甥・今川氏親の後見人としての立場を守り、氏親のために三河等各地に出陣していますが、
一方、東へは独自の行動を続けます。
すなわち、伊豆を制圧した早雲は、その延長として、箱根の坂を超えて、小田原を制圧し、
敵対した三浦家を三浦半島に討伐、相模を制圧します(早雲85歳)。

WEBから借用

早雲の嫡男氏綱(うじつな)は、小田原城を拠点に戦国大名として領国をよく治め、北条家5代の基礎を固めますが、
下って秀吉の天下統一に最後まで抵抗したため、戦国大名としての北条家は滅亡します。

WEBから借用

なお、早雲自身は伊豆韮山に在住し続けました。

小説では、早雲が勢力を拡大していった理由について、
早雲は善政をしき民衆からも慕われていたが、領土が狭いため経営が難しく、領土を拡張する必要があった。
拡張した領土は早雲自身がくまなく目配りをし、常に領民から慕われ、周辺の農民も早雲の領土に移住してきたほどであった。

と領土拡張の正当性の根拠にしているようですが、私には不自然に思えます。

 

永原慶二「下剋上の時代」 2

足利義政
足利義政

前回も書きましたように、この時期農業の生産性が向上し、バラバラに生活していた農民は集結し郷村=地縁的結びつきを重視するようになりました。
また貨幣経済が発展し、京や各拠点の商業が繁栄し、更に朝鮮や明との貿易が盛んになって港町が繁栄し、商人や寺社、幕府も利益を上げます。
文化面でも東山文化と総称される日本らしい、絵画や芸能が発達しました。

こう見てくると、この時代はいかにも平和で平穏な日々であったかに見えますが、実際には真反対の混乱の時代でした。

 

日本は、古来天災や疫病に悩まされ続けていますが、この時代も例外ではありません。
大きな飢饉が1420年、21年、1428年と続き、それから30年後の1459年には深刻な天候不順が続き、大飢饉が発生します。
1460年の記録では京の餓死者が約9万人、京の河原は死体で埋まったといいます。
全国ではどれほど沢山の餓死者をだしたのでしょうか。
最下層の民衆は生活できなくなり、本人あるいは身内を身売りしたり、農地を離れて、浮浪・乞食になり卑賎の民に落ちたりします。

民衆は各地で一揆をおこし、金融業を営む土倉や酒蔵、寺院を襲います。
交易の拠点に在住し慢性的に困窮していた馬借は、真っ先に一揆の先頭に立ち、これに農民が加わり土一揆は頻発します。
1400年代の主な土一揆として、正長の土一揆(1428年)、播磨の土一揆(1429)、嘉吉の徳政一揆(1441年)、享徳の土一揆(1454)、長禄の土一揆(1457)、山城の国一揆(1485~93)、加賀の一向一揆(1488)等があります。

京に詰める守護大名や荘園領主から荘園の管理を任されていた中小武士は、土地に根付き国人や地侍といわれましたが、当然農民からの突き上げを直接受ける苦しい立場にありました。
しかしこの下からの突き上げは彼らにとってチャンスでもありました。
下からの憤懣を自分たちでなく、荘園領主に向けていき、荘園領主からの権利の切り離しに向けます。彼らは時には一揆を取り締まるのではなく一揆を扇動し、最終的には自分たち自身が荘園を支配する当事者になろうとします。
これら国人は自身で力を持たなければいけません。近隣の豪族が語らって国人一揆を結び横の連結を強め、いざという時には連携して行動します。
国人一揆もまた政情不安を助長します。

 

中央の幕府はどのような状態であったか。室町幕府の政権基盤は虚弱でした。本書では次のように説明しています。

関東八か国に甲斐・伊豆をくわえた十か国が関東公方の管轄地域と定められ、
中央政府の直接の支配対象外とおされており、さらに義満時代には奥羽二国も関東府の管轄にいくわえられていた。
他方、九州は九州探題の管轄に属し、これも室町幕府の直接管理の外におかれた。
だから逆にいえば、幕府政治のしいくみでは、九州と甲斐・伊豆以東の国々とを除いた中央地帯だけが幕府の直接管理の国々なのである。(本書より)

そして、「このことが幕政をにぎる有力大名の目を中央地帯にばかりそそがせることとなった」といいます。

中央から遠く離れた九州や東北の守護大名は、もともと鎌倉時代に任命された外様であり、
中央の政権や社会情勢に左右されることが少なかったので独自の発展・闘争を繰り広げていましたが、
中央の幕府の重臣は、京への関心を強く持たざるを得ず、また大抵は自身京に住んでいましたので、
領国での統治は守護代や在地の豪族に依存せざるをえず、
彼らは幕府の混乱と領国の混乱をまともに受ける構造になっていました。

当初室町幕府は守護の強大化を警戒して守護の力をそぐ方針でいましたが、守護領域での地侍の強大化に対抗して守護の権力強化を許す方針が取られ、守護は守護大名として権力強化に努めます。

 

強い権力を持たない足利将軍は、時に言わば虚勢をはって強権的な行動をとります。
6代将軍義教は、関東公方の混乱にこれを鎮圧し滅亡させますし、
力を蓄え始めてきた守護大名を挑発しては討伐します。

義教の行動に危機感を持った赤松満祐は遂に1441年将軍義教を暗殺し(嘉吉の乱-かきつのらん)、
これ以降室町幕府の混乱は決定的に悪化していきます。

銀閣寺
義政に東山山荘・銀閣寺

幼くして将軍職を継いだ8第将軍義政は、政治に興味を持たず、長じても民の苦しみには知らんぷり。金を使い趣味三昧です。
大飢饉の最中、邸宅・花の御所の造営に熱を上げ、能楽・猿楽にうつつを抜かし、巨費を投じて東山山荘を建設します。
仏門に入っていた弟・義視(よしみ)を還俗(世俗に戻すこと)させて、早々に将軍の座を譲ろうとしますが、
幸か不幸かその直後、日野富子との間に義尚(よしひさ)が生まれ、日野富子は義尚を次期将軍にしようとします。
当然跡継ぎ問題は大問題になります。
義視には管領細川勝元がつき、義尚には嘉吉の乱で功績のあった山名宗全がついて、一触即発の事態になります。これに畠山、斯波両家の内紛が絡み、更に各地の武将が入り乱れて大騒乱に突入します(1466年)。応仁の乱です。

山名宗全が西軍、山名宗全が東軍を率い(但し、多くの各武将は節操もなく時に西軍、時に東軍につきます)、大勢は東軍有利でしたが、山口の大内が西軍についたことで、西軍が力を盛り返します。

京都で起こったこの騒乱はやがて地方にも、更には興福寺等大寺社にも飛び火します。
約10年に及んだ乱は決着がつかないまま、守護大名は京より自分の領国の混乱が心配になり、それぞれの国元に帰還し、京の戦乱は京の荒廃を残して一応の終結をみます。

山名宗全も細川勝元も相次いて逝去し、京の大乱は一応鎮火しますが、
混乱の火種は地方でくすぶり続け、やがて嘗てない大規模な騒乱の時代=戦国時代に突入します。

 

この時代は混乱した不毛の時代だったのか。
いやそうではない。
日本中を巻き込んだ下剋上は、従来の京を中心にした特権階級の文化や価値観を粉砕し、
それを民衆に、地方に拡散した。そして次の時代はそれらを吸収し新たな時代を形成した。
この時代はいわば革命の時代であったと見るべきだ、と著者は主張します。
私も「そうだろうな」と同感です。

永原慶二「下剋上の時代」

下剋上のマグマ

室町時代、南北朝の動乱の終結(1392年)から戦国時代が始まるまでの約100年間に何があったのか、歴史知らずにしてみれば、せいぜい足利義政の東山文化と応仁の乱くらいしか知らなくて、印象の薄い時代です。

しかし、永原慶二著「下剋上の時代」(1965年、中央公論「日本の歴史」)は「そうではない」と真向から反対します。
すなわち、「あの民衆の激情的であり、破壊的でさえある行動と、幽玄の極致といわれる東山文化とはきわめて緊密な関連をもっていると思うのである」と。
著者は、「この時代こそ、日本の大変革をもたらすマグマが煮えたぎった時代なのだ」と、その主張をわかりやすく丁寧に説いてくれます。
但し、馬耳東風、馬の耳に念仏で、私はどれほど理解したのでしょうか。

本書は昭和40年中央公論社の「日本の歴史」の一冊として出版され、私が読んだのは2005年改訂文庫本です(この文庫本にはいくつかの誤植があります)。

この本のクライマックスは応仁の乱ですが、この話は後回しにして、時代風景を眺めてみましょう。
著者が力を入れたかったことは、むしろこのことだと思いますから。

荘園

「中世期の日本は『農業国』だったのではない。沢山の職業があったのだ」と、網野義彦氏は強調しますが、
それにしても、農村がどのような状態であったのかを知ることは、日本の社会を認識するうえでは最も重要なことの一つだと思います。

そこで、農民が基盤としていた荘園はどのようなものだったのか。
この話からしたいのですが、専門的にはこれがなかなか難しい話で一言では言えないようですが、
取り敢えず次のように解釈しておきます。

中央の公家、寺社が所有した荘園には、通常在地の豪族を荘官として実務にあたらせていましたが、
鎌倉時代、幕府は義経追討とか平氏残党掃討とかの名目で、地頭を送り地方の警察監督をさせます。
時代を下るに従って、土着したこれらの荘官や地頭は、実質的に荘園を支配しはじめ荘園領主の力はどんどん削がれていきました。

荘園の詳細は理解していません。興味がありますので、更に、勉強してみたいと思います。
既に、以下の本を購入しました。永原慶二著「荘園」(2009年、吉川弘文館)、関幸彦「武士の誕生」(1999年、日本放送協会)、服部英雄「武士と荘園支配」(2004年、山川出版社)、石川進「中世武士団」(2011年、講談社)(既読)

 

農村の萌芽

一方、荘園で生活する民百姓はどのような状態であったか

当時の農地は、荒れ地に交じって農地が点在していたのが実情で、
しかも、特定の荘園領主が一帯の農耕地を面的に所有したというより、色々な荘園がモザイク状に農地を所有したようです。

それまでの農業は生産性が悪く、農民は荘園に出かけて協同で作業する状態でしたが、
この時代は農業の生産性が向上して、農民はそれぞれに自分の土地を耕作する形になってきました。

農業の生産性は、土地の有効利用、水の有効利用が欠かせませんので、農民は近隣の農民との協同が必要となります。
すなわち、荘園の垣根を越えてまた血縁関係よりも地縁関係が重要になってきます。
隣接する農民は数戸が集まって濠をめぐらし外敵に備えます(この構えを垣内(かいと)といい街道に通じるそうです)。
更に農民達は更に大きく村=惣を結成していき、
村によっては長い血みどろの争いの末に、守護不入自検断=すなわち守護に立ち入らせず自らが警察、裁判権と行使する権利を勝ち取る土地も現れます。

農村のリーダー

これらの村はいわゆる水飲み百姓だけではなく、武力をもっとリーダーがいました。
それは、在地のいわゆる国人と言われる人々で、本来中央の権力者の指示を受けて、農村を管理支配している人たちでした。
さらに、農民のなかにはこれらの在地武士に従事して、勝手に侍名字を使うものが現れます。

 

様々な産業の発達

この時代農村以外の発達も目覚ましいものがありました。
貨幣経済の発達と共に、商業が発達し、京都上京では、薬・唐物・白布・綿・酒・味噌・そうめん・襖・材木・炭等々、
下京でも綿・小袖・絹・袴腰・材木、今宮魚座・麹座等々があったそうです。
地方にもそれぞれに特産品の生産が活発になっています。

大商人特に土倉や酒屋は、幕府や戦国大名を支える大きな柱にさえなります。

当時、京都への海の交通路は、瀬戸内海から淀川を北上するルートと日本海小浜から陸路琵琶湖の北岸今津、木津に至り、琵琶湖を南下するルートが使われました。
朝鮮、明との貿易が盛んで、堺や博多や瀬戸内海の港は相当に繁栄したようです。

「中世ヨーロッパの騎士」 4

乱暴者の集団だった中世騎士は、
ローマ教会から「神聖な神の戦士」の称号を与えられ、聖なる十字架を紋章に十字軍に従事、名声を高めます。
12世紀になると、吟遊詩人が騎士の英雄譚と宮廷ロマンスを歌い上げ、
また頻繁に行われた騎乗槍試合はあらゆる階級の人々を熱狂させます。
やがて騎士は貴族の末端に列せられ、更には国を救う英雄まで出現しますが、
15世紀になると鉄砲の出現に居場所をなくしていき、やがて騎士道は「ドン・キホーテ」で揶揄されるようになります。

十字軍の遠征

十字軍の遠征は、1096年の第1回から1270年の第7回まで決行されています。
それを呼びかけたローマ教皇、運動に参加した国王、諸侯、商人、一般民衆はそれぞれ違った思惑をもっていましたが、
少なくとも当初は皆共通して宗教的情熱をもって十字軍を応援したのは間違いありません。

十字軍は聖地を奪還しイェルサレム王国を建設。
東方貿易の活発化に寄与し、イスラーム文化の流入など、中世ヨーロッパ社会を大きく変動させる一因となりましたが、
結果的にはイスラーム側の反撃によって、騎士たちが描いたかの地での祝福された国の経営は果たせぬ夢に終わります。
すなわち、十字軍は期待ほどの成果は挙げられませんでした。

ただはっきり言えるのは、この過程で騎士の地位が社会的に認知されたことです。
荒くれ戦士の一団は、キリスト教によって「高貴な戦士」になり、貴族の末端の地位を占めるようになります。
十字軍の遠征には貴族の子弟も参加すると、騎士は階級として世襲されるようになり、ますます存在価値を高めていきます。

吟遊詩人

一種憧れの対象になった騎士をさらに鼓舞したのは、戦争とは対極の文芸的な流れです。
12世紀になるとトルバドゥールと言われる吟遊詩人が各地の宮殿を巡り歩いて、騎士の英雄譚や騎士のロマンスを表現豊かに歌い上げます。
演者も騎士自身だったり、高貴で教養豊な人々であったりしたので、文芸に限らす広く社会の文化全般に影響をあたえたようです。

ヨーロッパ各地にはもともと英雄伝説があり、英雄の功績をたたえる叙事詩がたくさんあったようですが、
イギリスも例外でなく、
12世紀聖職者ジェフリー・オブ・モンナスは幾つかの叙事詩をベースに中世騎士道の味付けをした「ブリタニア列王史」なる著書を出し人気を博し、その後も様々な人々の改編を経て「アーサー王の物語」が出来上がります。

馬上槍試合

もう一つ騎士の人気を助長したものに、馬上槍試合があります(これはトーナメントといわれ、現在の野球等のゲーム形式の語源なのでしょう)。
これは疑似戦争で、実際負傷したり、命を落とすことがあったようですが、大変盛んで、
数日間にわたって、競技場や街中で団体戦、個人戦を行い、
勝った騎士は相手を捕虜にし、高価な武器・武装を没収、高額な身代金を稼ぎます。腕に自信のある騎士にとっては貴重は収入源になります。

おそらく現在の、プロスポーツのようなもので、優勝者は高く栄誉を称えられます。

このように騎士を盛り上げる動きが、騎士の人間的質の向上に寄与したのは、間違いないでしょうが、
しからば当時の騎士たちがすべて聖人君子だったかといえば、
そんなことはなく、やはり粗暴な暴力集団が日常だったようです。

騎士が騎士であるためには、武装品は鎧兜や良質な馬や数人の従者等を自前しなければいけないので、
結構お金がかかります。戦場や試合での身代金や略奪が大きな収入源であったのは変わりなかったようです。

騎士の十戒

教会はそのような粗暴な騎士をなだめなければ、教会の制御下に置くことはできません。
以下のようなキーワードを使って、騎士のあるべき姿を熱心に説きます。

PROWESS:優れた戦闘能力
COURAGE:勇気、武勇
DEFENSE:教会、弱者の守護
HONESTY:正直さ、高潔さ
LOYALTY:誠実、忠誠心
CHARITY:寛大さ、気前よさ、博愛精神
FAITH:信念、信仰
COURTESY:礼節正しさ

1275年頃、騎士にして神学者であるラモン・リュイが著した「騎士道の書」は「騎士道の法典」とも呼ばれ、
中世を通し騎士の必読書であったのみならず、聖職者にも教本として親しまれたということです。
この中で下に示す騎士の十戒を説いていますが、
教会への服従、弱者への敬愛を説いくものの、
目上の人(日本でいえば、天皇や貴族や将軍や戦国大名や親)への服従=「忠」や「孝」について説いていません。
武士道の精神的基盤になった儒教と根本的に異なるところだと思います。

第一の戒律 不動の信仰と教会の教えへの服従
第二の戒律 社会正義の精神的支柱であるべき“腐敗無き”教会擁護の気構え
第三の戒律 社会的、経済的弱者への敬意と慈愛。また、彼らと共に生き、彼らを手助けし、擁護する気構え
第四の戒律 自らの生活の場、糧である故国への愛国心
第五の戒律 共同体の皆と共に生き、苦楽を分かち合うため、敵前からの退却の拒否
第六の戒律 我らの信仰心と良心を抑圧・滅失しようとする異教徒に対する不屈の戦い
第七の戒律 封主に対する厳格な服従。ただし、封主に対して負う義務が神に対する義務と争わない限り
第八の戒律 真実と誓言に忠実であること
第九の戒律 惜しみなく与えること
第十の戒律 悪の力に対抗して、いついかなる時も、どんな場所でも、正義を守ること

社会的地位を得た騎士は契約によって領主に仕えるようになり、更には自身が領主になるケースもあったようです。
初期の騎士は名前を残していませんが、吟遊詩人としての騎士は名前を残していますし、
その後は更に「成功し」後の世に名前を残した騎士も少数ですがいたようです。

ウィリアム・マーシャル、テンプル騎士団、ゲグラン、ドン・キホーテ

12世紀、イングランドで小地主の次男として生まれたウィリアム・マーシャルは、
放浪の騎士生活の末に、イングランド国王に仕え上流貴族に列せられ、
広大な領地とイングランドの摂政の地位を手に入れ、ヨーロッパで最も有力な人物の一人になります。

教会はイスラムから奪ったイェルサレムに巡礼する人々を守る目的で騎士団を経営します。最も有名な騎士団はテンプル騎士団です。
テンプル騎士団は莫大な資産を持つことになり、12世紀から13世紀に亘って人々の利便性から金融に力をいれ、後のヨーロッパの金融市場に大きな役割を果たします。
この強力な権力を奪おうとフランス王とローマ教会は、テンプル騎士団に無実の罪を着せて滅亡させます(1307年10月13日金曜日)。
所謂呪われた「13日の金曜日」です。

14世紀の最も有名な騎士は、フランスのベルトラン・デュ・ゲクランです。
後に100年戦争といわれるイングランド(フランス系王朝)と争ったフランスが当初完敗しそうな状況で、
ゲクランはフランスのために奮戦、フランスを救った英雄として語り継がれています。

15世紀になると、鉄砲・大砲が戦争の主要武器になり、戦争も個人戦よりも組織戦になります。
かつて騎士が主役であった戦争は一種の競技あるいは競技の延長でしたが、今や戦争は仕事であり、騎士の役割が減少していきます。

1605年セルバンテスは「ドン・キホーテ」を著わし、大ベストセラーになります。
ドン・キホーテの解釈は色々あるようですが、当時は騎士道を茶化したものと受け止められたようです。

小説「ドン・キホーテ」と共に、騎士道も遠い昔のよき時代のお話になったのでしょうか。