「カラマーゾフの兄弟」

8月3日遅く、妻が九州から駆けつけてくれました。

近くに住む次男は朝の早い仕事なので余り頼み事ができません。
長男は会社の帰りに遠回りして、
我が家によって頼んだ荷物を病院に持ってきてくれますが、
退社してからの作業なので、十分こちらの頼みたいことが通じません。

妻が来てくれたのでやっと安心しました。
(ただし、妻は実家の病院で代わる人がいないので、8日にはまた九州に帰りました)

病院にコンピュータを持ち込んで、AndroidとJoomlaの勉強をしようと思っていたのですが、
インターネットにつなぐことができなくて作業が進みません。

「ダ・ヴィンチ・コード」を読み終えたので、妻に私の魔法の本箱から、本を持ってきてもらいました。
妻が持ってきたのは、なんと「カラマーゾフの兄弟」です。
確か2年近く前に読もうとしたですが、ドストエフスキーのカッタルさに閉口して、
2冊目で投げ出していました。

話は、1代で財をなした、少々柄の悪い父フョードルとその3人の息子と下男、
それに彼らを取り巻く女たちの愛憎劇です。

長男ミーチャ - 退役軍人で父親と仲が悪い
次男イワン - 学生でクールな無神論者
三男アリョーシャ - 見習い(?)修道僧
下男スメルジャコフ - 癲癇(てんかん)もち、出生不詳、父はフョードルといわれる

3兄弟それぞれに恋人が絡み、父と長男が一人の女グルーシェンカを取り合う。
そんな中で父フョードルが殺害され、長男が逮捕され裁判にかけられる。

イワンは彼につきまとうスメルジャコフから、
「あなたが父親を殺したい」と思っていたから、私が代わりに実行したのだと告白される。
スメルジャコフは裁判の前日自殺し、イワンも精神に異常をきたす。

裁判では人々の予想を覆し、陪審員はミーチャに有罪判決をいいわたす。
ミーチャが流刑地に送られようとしている一方、
ミーチャの無実を信じ、
しかし自分がこの結果に追い込んだと、
負い目を感じる人たちが脱走計画を画策するところで小説は終わる。

実は小説はもう少しおまけが続きます。
ドストエフスキーは続編を構想していて、この部分は続編への序章と思われます。
しかし、本編完結直後彼は突然病を得て他界します。

この小説はおよそ明治10年(1879年から1880年)に雑誌の連載として発表されたものです。
時はロシア帝政末期、身分制度があり、人々は正式には貴族、僧侶、農民のいずれかに属していました。
当時のロシア人の階級意識も私たちからすると、想像するしかありません。
カラマーゾフ一族は貴族に属し、陪審員の何人かは農民であったという設定は暗示的です。

もう一つ私たち日本人に分かりにくいのは神の問題です。
「ダ・ヴィンチ・コード」とは異なる次元の話ですが、
「神は存在するのか」という西洋思想の根源的な問題意識があります。
ゲーテの「ファースト」は神に逆らい悪魔メフィストフェレスに魂を売り、
その代わりに地上の快楽を得ます。
イワンは苦悩します。
私たちはイワンとスメルジャコフの関係を、
ファーストとメフィストフェレスの関係に重ね合わせてしまいます。

更に読んでいてイラつくのは、話がアリョーシャの行動にそって語られるのですが、
語る「『わたし』がいったい誰なのか」ということです。
この小説の最も重要な問題「父親を殺したのは、誰だ」ということを、ぼやけさせています
(ドストエフスキーにとっては重要ではないのでしょう)。

「ドストエフスキーはとてもカッタルイ」と私は思っています。
真面目に文章を追って読んでいてはなかなか完読できません。
ゴチャゴチャしたところは読み飛ばさなければ、うんざりします。
今回退院や雑用の合間をみて、1週間あまりで2巻から5巻まで読みましたが、
これでちょうどいいと思います。

これくらいのスピードで読むと、小説の全体像が分かってきます。
勿論詳細は分かっていませんが、「後は気になるところを読み返すのがいいのかな」と思います。
すっ飛ばして読んでみて、「様々なテーマを取り上げ、構成のしっかりした、面白い小説だ」という感想を持ちました。

イギリスの哲学者ウィトゲンシュタインは「50回以上読んでそらんじている」ということです。

評判になった亀山訳は誤訳が多いと批判があるようですが、
私たちには、そのような議論はどうでもよいことで、
それより、アリョーシャが子供と話す部分もすべて丁寧語で、その方が気になりました。

入院中一番心配したのは、孫に見せようと植えたベランダの朝顔です。

水遣りは妻がいる間はいいのですが、
いないときは長男に頼んだり次男に頼んだり、スケジュールに気を使いました。

おかげで毎朝大輪の青い朝顔をみることができるのは少し幸せな気分です。

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