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現住所

現在家内の実家で生活しています。広い敷地に大きな家が建っています。

住宅はもう25年以上前に私の友人が設計した和風の建物で、親たちは気に入っているので、それはそれでいいのですが、友人の事務所が遠方で十分に施工管理ができていなくて、最近あちこち傷んだところを修理する段になって、なんと当時の施工がいい加減であったか驚き憤っています。

広い敷地は一応日本風庭園ですが、あまり手入れもよくなくて、木ばかり多いので手間がかかります。

日本庭園の手入れは、私には手に負えないのでこれは諦めて、空いたスペースは雑草の温床になりますので、そこら中花だらけにしようと、鍬で耕しますが、一鍬ごとに小石にぶつかり、酷い庭土にこれまた腹を立てています。

思い立ったら待ち遠しくて、寒いうちにサカタのタネで数種類のタネを購入し、発芽用の容器や底の浅い容器に発芽用砂をしいてタネをまきました。 カンパニュラ、金魚草、アスター、インパチエンス、ミックスフラワーガーデン等 です。

私は、種から育てるのは初めての経験です。

これらのタネはとても小さいのですが、今4月が近づいてきて、温室の容器の表面に小さな芽を沢山出しはじめました。種が小さいので撒くのが難しく、結構密集してしまいました。せっかくですから発芽した芽を可能な限り生かすために、もう少し大きくなったら、 一度苗として育てる容器に移そうと思います。

小さな種が小さな芽を出し始めました。

庭にたくさん花が咲き始めました。寒い時期に植えたチューリップも

九州の歴史 2

そもそも少弐はなぜ、尊氏を応援したのか。

少弐一族の祖先は平安時代・藤原家の傍流が武藤を名乗って中央政権に従う武家だったようです。Wikipediaによると以下のように紹介されています。

武藤資頼は平知盛に仕えた平家の武将であったが、一ノ谷の戦いの時に源氏方に投降し、その後、許されて源頼朝の家人となる。平家滅亡後、大宰少弐に任じられ、平家方であった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして、鎮西奉行をはじめ、北九州諸国の守護となる。この頼朝による抜擢が、その後の少弐氏の興隆のきっかけである。

少弐は頼朝に恩義があり、足利尊氏は源氏の流れを汲む頼朝の再来と考えたし、また当時太宰府・少弐は鎮西探題・北条から圧力を受け、北条への恨みがあったと思われます。

一方、尊氏上陸を阻止しようとした菊池氏はどのような家系だったか。

菊池は少弐と同じく藤原に祖先をもつようですが、少弐以上に出自ははっきりしません。少弐同様武家として成長しますが、九州への土着性が強く、源平とは距離をおき、その分宮家への忠誠心が強かったようです。私本太平記では次のように書いています。

肥後の菊池郡隈府町がその本拠だった。元々、上古の久米部の兵士の裔でもある。中頃、後鳥羽院の武者所に勤番し、承久ノ乱にも宮方、元寇の乱にも、率先、国難にあたってきた。 要するに、筑紫のくさわけでもあり徹底した防人精神のうえにその家風も弓矢も伝承してきた菊池家だった。

1336年2月末京を追われた尊氏は芦屋ノ浦にたどり着き、3月尊氏・少弐の連合軍は菊池の防戦を破り太宰府を奪還、尊氏は休む間もなく兵を整え東進を開始。尊氏は海路、幼い時から生死を共にした弟直義は陸路から京を目指します。
同年5月、尊氏軍は神戸・湊川で新田義貞を撃破、楠正成を敗死に追いやり、更に京に駆け上って京を奪還、後醍醐は吉野に逃れます。

尊氏が光明天皇をいただき京都で幕府を設立すると、後醍醐は吉野に朝廷を設立します。南北朝(1336年~1392年)の始まりです。

ところで、尊氏が太宰府で兵をととのえ京に上っていったとき、腹心の二木、一色を九州にとどめ九州掃討の任につけます。 一色はよく働き、太宰府で九州探題としての任を果たします。
こうなると小弐は一族の命運を懸けて尊氏を支援したのは何だったのか、不満がくすぶり、小弐はその後複雑な動きをすることになります。

尊氏が北朝を開いた後も、九州では南朝寄りの菊池をはじめとする武将が力を蓄え、また尊氏と一時袂を分かった直義が南朝につき、1348年には後醍醐の皇子・護良が菊池の城下に入ると小弐はこれに加わり、太宰府に九州・南朝を開き十数年にわたって安定した政治を執行します。

この事態を憂慮した北朝・足利義満は1370年、切り札として当代一流の知識人今川了俊を九州探題として送り、了俊は義満の期待に応え、南朝側諸勢力を平定していきます。

1375年了俊は菊池の本城陥落を目前にして祝宴を開くと称して九州三人衆の来陣を求めます。島津氏久 と大友親世は応じますが、小弐冬資 ははなかなか姿をみせません。氏久は了俊の求めに応じて冬資を説得、冬資も氏久の仲介を断れず、祝宴に参加しますが、酒宴の最中に了俊の弟仲秋らが躍り出て、冬資を刺殺します。 氏久は怒りただちの兵を引き上げ、以後反今川の行動を繰り返していきます。

それから約20年後(1395年)、了俊は突然九州探題の職を解かれ、それを機に配下の大内が九州進出を図ります。少弐は探題に加えて大内と度々戦いますが、1400年代になると劣勢を立て直せず、豊前、筑前から追い出されていきます。

1467年応仁の乱が勃発して、大内は西軍山名に、少弐は東軍細川につきます。大内が畿内の戦乱に注力している機に乗じて、少弐は一時九州での勢力を挽回しますが、乱が収束し大内が態勢を整えると、少弐は大内の戦力に抗しきれず、やがて戦乱の表舞台から姿を消していきます。当初は少弐が敵対する当事者であった九州探題も存在感を亡くし役割を終えます。

菊池もまた大きな流れに翻弄され、やがて没落していきました。

九州の歴史

これまで九州について、特に歴史についてはほんの一握りのエピソードしか知りませんでした。

太平記で、後醍醐に京を追われた尊氏が九州に上陸、太宰府に本拠を置く少弐を頼りますが、尊氏が太宰府に到着する前、迎え撃つ宮方の菊池によって太宰府が陥落、尊氏は宗像大社に戦勝を祈願し、 僅か2千の兵を率いて、太宰府に向けて北から進撃、多々良浜で宮方の兵2万と激闘。これに勝利した尊氏は太宰府で兵を整える間もなく、再度京に上ります。

歴史に「もし」はない、といいますが、もし尊氏が九州で勝利しなければ、室町時代はなかったのでしょう。

私の記憶に残るもう一つのエピソードは、以前このブログで紹介しました秦新二著[文政11年のスパイ合戦]で展開したシーボルト事件の顛末です。

徳川第11代将軍家斉は義父の島津重豪(しげひで)に日頃からの憤懣が鬱積していて、シーボルトと重豪との怪しい行動を利用して、「事件」に仕立て上げたというとても面白い話です。

九州に住むことになったのだから、これを機会に少し九州の歴史を勉強しようと、アマゾンで「九州の歴史」を検索しましたら、戦国時代の戦闘の歴史本ばかりで、それ以前の鎌倉、平安あたりのまとまった本は見つかりませんでした。将門等「歴史のビッグネームがいた」のように特別なことがない限り、他の地方でもあまり歴史は残っていないのでしょうか。

今回数冊読みました。主なところはムック「戦国 九州軍記」(学研)、「歴史街道 戦国九州三国志」(2018、PHP)、吉永正春「九州戦国の武将たち」(2000、海鳥社 )、吉永正春「筑前戦国史」(2009、海鳥社)、山本博文「江戸300藩物語藩史」(2015、洋泉社)、童門冬二「立花宗茂」(2006、集英社)です。

これらの本は基本チャンチャンバラバラ で、それ以前の歴史がどうだったのかはつぶさにはわかりませんが、中世の歴史は次のように概観できます。

西暦930年代、東では平将門、西では藤原純友が騒乱(承平・天慶の乱)を起こし、これを討伐したのが武士団の発生で、これらの武士団の多くは、国・郡の官人あるいは荘園の名主・荘官が組織したものと言われています。
但し、九州では太宰府が古代から地域を管轄していて、その退官者が武士団を形成した例も多々見られるといいます。
これに属するのは、秋月・原田・高橋・江上、菊池、松浦党、宗像大宮司家、阿蘇大宮司家等です。

平家の時代には、平家一門が皇室領大荘園の管理を担当し、一定の力を持ちますが、鎌倉時代にはこれらの土地は没収され、鎌倉幕府の武将が地頭職をもらい、次々に鎮西の荘園に下ってきます。この中で、九州三人衆と呼ばれる筑前の武藤(小弐)、豊後の大友、薩摩の島津が最も有力な守護職になります。

鎌倉前期、小弐は太宰府に居し、古代からの太宰府の権限を掌握すると同時に、承久の乱で公家に対して武家が圧倒的に優位な立場になると、当地での公家の権限もすべて掌握し、そのほかに三前二島(筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬)を差配します。
大友は豊後・筑後・肥後の三国を、島津は薩摩・大隅・日向の奥三国を支配下におきます。

鎌倉時代中期(1274年、1281年)降ってわいた元寇に死闘を繰り広げたのは、少弐・大友を中心とする九州武士団でしたが、終わってみればその恩賞はなく、それのみか鎌倉・北条は一門の多くを守護職として九州に送り込み、裁判の強化の名目で設置した博多・鎮西探題が太宰府の権限を奪っていきます。

当然の結果として、中央の武官官僚である探題と九州三人衆の守護職・特に少弐との対立は深まります。

鎌倉幕府に対する不満を背景に、1333年後醍醐天皇は各地の武将に号令。足利尊氏、新田義貞、楠正成等は結束して鎌倉幕府を倒します。 後醍醐は建武の新政を開始しますが、矛盾や不満が噴出、尊氏は後醍醐から離反します。 対して後醍醐は義貞や正成に命じて尊氏を排斥、尊氏は少弐を頼りに九州に逃れます。