秋月

福岡県のほぼ中央・朝倉市の山間部に秋月という城下町があります。
私が現在住んでいる町からさほど遠くなく、
城下町にしてはロマンティックな地名に、どういう由来があるのか前々から気になっていたので、昨年紅葉の季節にちょっとだけ行ってみました。

萩や姫路のように大きな町ではないし、何度も戦乱に荒らされたのでしょう、
往時の史跡も余り残っていませんが、それでも観光地特有の雰囲気があり、お土産さんが数軒並んでいました。

秋月城の城主秋月氏の祖先は中国・漢王朝の血統をひく帰化人で、
平安時代大蔵性を名乗り、藤原純友の乱(940年頃)で武功をあげたことで、
平安朝から九州の所領を与えられ、大宰府の官人となって北部九州に土着したと言われています。

時代が下り、源平の合戦(1185年頃)では源氏に味方したのですが、
鎌倉幕府から重視されず、幕府から送られてきた生え抜きの東国御家人=少弐、大友、島津より一段下の立場に置かれ、
戦国の世では在地武将は何れも同じでしょうが、大蔵党も少弐、大友、島津等の大大名の家臣になることで自家の存亡をかけることになります。

 

大蔵党には沢山の分流=分家があります。
原田(筑前国御笠郡)、高橋(筑後国御原郡)、秋月(筑後国朝倉郡)、田尻(筑後国山門郡)、江上(筑後国三潴郡)は同族です。

1200年頃、秋月種雄は秋月の地に築城、以来中小領主としての精いっぱいの戦いを重ね、
反大友、最後は島津の一翼として秀吉軍と戦い、降伏、日向高鍋に配置換えになるまでの約400年間、当地を根拠地にして、戦い続けます。

秋月家と同族の高橋家では、
宗麟の家臣だった高橋長種に嗣子(しし、跡継ぎ)がなかったことから、
宗麟は大友一族の一万田左馬之助に高橋の後を継がせます。左馬之助は高橋鑑種(あきたね)を名乗り、若くして武勇に優れ、
宗麟から大いに信頼され太宰府の宝満山、岩屋の城主に任じられますが、
後日鑑種は秋月と組んで激しく宗麟を攻撃します。

余談ですが、豊前・筑前の歴史を読んでいて誰が誰だか分からなくなります。
第一の理由は、大友・大蔵共に分流が多く、当主に実子がいないときは、他家から養子をもらう習慣があったので、
途中から本人の名前が変わって、同じ人物の複数の名前を繋合わせる作業が必要になります。
第二の理由は、武家では通字(大友けでは鑑-あき、鎮-しげ、秋月家では種)を使うので、
似たような名前の人物が沢山登場します。よくよく見ないと違う人物のことがあります。
第三の理由は、大蔵の支流の家名であったはずの「高橋」氏が、大友流の重要な家名になります。
しかも、大友の重鎮の高橋家と反大友の高橋家があり、敵だが味方だか分からなくなります。

 

さて、前回もご説明しましたが、九州北部特に博多は戦国武将の争奪戦の場になります。
博多への進出に熱心だった大内が毛利に敗れる(1555年)と、
その隙をついて大友は、大内が支配していた門司城を奪取(1557年)。しかし直ちに毛利は反撃し、1558年にはこれを奪いかえします。
これを契機に毛利と大友の攻防戦は長きに亘って続くことになります。

基本的に毛利の侵入・大友の防戦の構図です。
1557年毛利元就は大友配下の不満分子=秋月文種や筑紫惟門(これかど)の調略に動きます。
いち早くこれを察知した大友宗麟は大軍を動員して、秋月文種を古処山城(秋月)に、筑紫惟門を五ケ山に攻め壊滅します。
このとき上記の高橋鑑種は大友軍の大将の一人として古処山城を攻め、秋月文種を敗死させます。

秋山城主・文種は落城直前、家臣に3人の子供達を託し、山口の毛利家に逃します。
この時筑紫惟門も敗れ毛利に逃れます。

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