集団的自衛権と国際正義

実は、集団的自衛権そのものについて議論するのではなく、日本人が身近な紛争や国際紛争に対して、どのように行動するかについて議論したいと思います。

集団的自衛権に反対する人は次のように言います。

「戦争は悲惨で、一番の犠牲者は女子供だ」。
「集団的自衛権を行使すれば、日本は戦争に巻きこまれる危険性が増大する」。

しかし、私は何かおかしいと思う。

卑近な話から始めましょう。

目の前で子供がいじめられている。あるいは、女性や老人が暴力にあっている。

このような事件に接して、私たちはどのような行動をとるか。

子供の喧嘩ならともかく、加害者が中学生以上の悪ガキだったら、自分で事件に直接立ち向かう人は殆どいないで、大半の日本人は尻込みして知らん顔をするか、せいぜい警察に通報するのが、いいところです。

最近イジメや弱者への暴力が頻繁にニュースになります。
ワイドショーではコメンテーターが、「行政が悪い」とか「警察がしっかりしないからだ」と行政や警察を批判します。

コメンテーターが、私たちと大して変わらないいわゆるタレントだということが、大きな問題です。
私たちは自分と等身大のどうでもいい人のどうでもいいコメントに違和感を待たず、
「そうだね。私もそう思う」と安心します。
私と同じような人が代わりに考えている。
自分で考えることも、反省することも、後ろめたさを感じることもない。
要は「みんなで渡れば怖くない」、いや「みんなで渡らなければ一層怖くない」です。

これでいいのだろうか。いい筈がない。

今問題になっている集団的自衛権の議論はどうだろう。

「戦争は悲惨で、一番の犠牲者に弱い立場の女子供だ」
ということに誰も反論しないが、「少しでも危険に近寄りたくない」、「面倒なことに関係したくない」、「みんなで渡らないのが一番だ」といっているのではないか。

ここで重要な概念=正義や正義感や社会性の考察が欠落している。

国内では警察機構が私たちを守ってくれるのでそれでもいいが、国際問題は違う(国連は機能していない)。

日本人は国際問題に一層無関心です。
殆どの日本人は、中東やアフリカやチベットの問題に関心がありません。
それは「自分さえよけらばいい」という考えの裏返しだと思う。

嘗て、イラクがクエートに侵攻したとき、国際社会は協力して武力でイラクを排除しました。

日本は、自衛隊を派遣をせず、大金をもって支援しましたが、戦後クエートは日本への感謝のメッセージを出しませんでした。

日本では、「大金を払ったのに…」とクエートのやり方に不満を述べ、人々は政府の広報の不手際を非難しましたが、 日本人の反応と西欧人の反応は全く異なります。
一連の戦闘で死者を出した西欧諸国の人々は、「日本は金で済ますのか」と日本に不信感を持っています。

いま日本で議論している集団的自衛権では、日本が危険に陥ったときはアメリカは日本を支援するが、アメリカが攻撃を受けそれが日本に危険が及ぶときだけ、
日本はアメリカを支援すると首相が説明しています。

この片務的契約を本当にアメリカは納得しているのだろうか。万一の場合アメリカ政府は契約に従って動いてくれるだろうが、アメリカ国民は認めないでしょう。

ところがこの程度のことも、野党は日本の危険が増えると反対します。

アメリカ国民はそれを理解できないでしょう。
「国際正義」の観点からみて、「日本はおかしい」とみられるだろうし、これは危険です。

この感情の延長上で、全然別の話でも日本は嫌われる。

韓国が世界でディスカウント・ジャパンを展開していますが、結構多くの西欧人が韓国の言い分に同調し、日本に批判的な態度を示しています。

どの程度日本人の国際感覚が影響しているかは分からないが、影響しているのは間違いないことです。

私がいいたいのは、日本人は「戦争は悲惨だ」ともっともらしい主張をしているが、本当は自分さえよければいいというのが内実で、これは国際社会では許されないということです。

こういうとすぐ右翼だとか、「積極的に戦場に出かけるべき」だ決めつける人がいる。

なぜこうなるのか。

だんまりを決め込むのと、カーボーイよろしく正義の味方をきどるとの間には、沢山の段階があり、この中に回答を見つけなければいけないのです。
広い見識と明快な論理が必要です。

また、論理と政治は違います。
本当はアメリカが嫌いだが、同盟を結び友好的に行動するとことは当然ありです。

国際社会で孤立することは、避けなければいけません。
先の戦争で、日本が戦争に突き進んだ一因は国際的孤立だったのです。

孤立しないように常にアンテナをめぐらし、行動しなければいけません。

私たちは議論することを避けてはいけません。

日本人は議論=喧嘩と考える人がとても多くて、喧嘩が嫌いだから議論も嫌い、結局ことを穏便に済ませようとします。
「議論が嫌い」の最悪の状態が戦前にも、いや戦後にもありました。
言論・新聞は戦争中には軍に協力し、戦後GHQに脅されるとすぐにGHQに擦り寄り、
日本批判にまわった象徴が朝日新聞です。

日本では右も左も幼稚で碌に考えないで、極端に走ります。

先日問題になった、自民党の勉強会で、
百田何某の発言、自民党議員の発言、沖縄批判、ジャーナリスト批判は、論理の欠乏です。

思考停止した人たちの行動は危険です。
早いうちにつぶさなければいけません。
その意味で先の国会銀員に対する対応はよかったと思います。
ただし、特にTVの愚劣さも批判されなければいけません。

さて、私たちになにができるか。

私たちは一国民にできることは微々たるものですが、それでもできることはあります。このようにブログで自分の意見を発信することも、WEBの様々な場で意見を述べることも、新聞社や公共機関、政党やホワイトハウスにでも意見を伝えることができます。

要するに、私たちは国内・国外を問わず、無関心ではいけない。
そして何が正しいかいつも考えて、できるだけの行動をすべきだ。

私は、今あるサイトで、韓国人や西欧人と議論しています。

私ができるのはその程度です。
逆にいえば、その程度はいつでもできます。

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