石平「朝鮮通信使の真実」

下関だったか、「朝鮮通信使まつり」を開催したとかするとか、何かで読みました。

このようなイベントでよく言われるのは:

現在日韓関係は冷え込んでいるが、
江戸時代には朝鮮から使節が来て、仲良く交友を温めていたではないか。
また、昔のように仲良くしよう。

のようなもので、善隣友好、文化交流を必ず強調しますが、私は常々「何か嘘くさい」と思っていました。

江戸時代、通信使が通る沿道には、沢山の人々がでて大騒ぎだったらしいですが、反面通信使は色々事件を起こしていたようです。「本当に友好的だったのだろうか」とずっと疑問に思っていました。

 

石平著「朝鮮通信使の真実」(WAC、2019年)がアマゾンで高評価だったので読んみました。

最初にいいたいことですが、この本は編集が悪い。
著者は中国人だから、日本語が多少おかしいところがあっても、それは編集者がカバーすべきだし、それ以上に日本語として読み難いだけでなく、論述が何か所も冗長(これは言語に関係ない)で編集者の力不足に苛立ちます。

この本を読んだついでに朝鮮通信使について少し調べてみました。
最初に「百科事典マイペディア」の「朝鮮通信使」の解説を転記しておきます。

(朝鮮通信使は)朝鮮来聘使(らいへいし)ともいう。江戸時代に将軍の代替りやその他の慶事に際し,李氏(りし)朝鮮(李朝)の国王から派遣された使節。豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)後,徳川家康は対馬の宗(そう)氏を通じて国交回復につとめ,1605年の日韓和約で国交が回復。この結果1607年から1811年まで計12回にわたって使節が来日。最初の3回は朝鮮侵略の際に日本へ拉致(らち)された朝鮮人の送還を兼ね,回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)と呼ぶ。総勢400名前後の大使節団で,沿道の大名が盛大に饗応。国内に将軍の国際的地位を示す上でも来日は重視されたが,1711年新井白石は使節の待遇を簡素化した。

さて本書は3章からなっています。

第一章 朝鮮通信使は事実上の朝貢使節だった
第二章 朝鮮知識人の哀れな「精神的勝利法」
第三章 「日本コンプレックス」の塊だった通信使たち

全200ページ足らずですから、大したボリュームではありません。

■ まず、本書では通信使は朝鮮から日本側への朝貢だったと次のような理由を挙げています。

  • 通信使は朝鮮から日本への一方通行で、日本から彼の国へは一度もいっていない。
  • 通信使が来たのは、徳川将軍が新しく就任したとき祝賀の挨拶としてきている。
  • 通信使の将軍への接見も「朝貢の拝礼」を行っている。
  • 将軍家光は家臣に求めるように、通信使に対して家康が安置されている日光東照宮の参拝を強要。通信使はしぶしぶそれに従っている。

Wikipediaその他を調べてみても、日本側(幕府)は使節団を朝貢として遇していたようです。

■ 一方朝鮮側はこの使節をどのように考えていたのか。

通信使は報告書や日記を沢山残しています。
これらを書いたのは李朝のトップクラスの官僚・教養人で、彼らはすべての行動規範を朱子学・性理学に置いていますので、これに反することはすべて非難・批判、侮蔑の対象です。

彼らが日本に対していかに酷いことをいっているか、本書の巻頭で第11回通信使であった金仁謙の言葉を引用しています。

「(日本人は)穢れた愚かな血を持つ獣人間だ」。

通信使の日本および日本人に対する記述は悪意に満ちた極端な罵詈雑言のオンパレードです。
道中の日本の風景や繁栄する街並みは淡々と、が日本の民度には激しく攻撃。
詩を書けば最低、礼儀は無礼、習慣や衣服は野蛮、食べ物は不味い。
自然にしても、日光の二荒山は朝鮮の○○山と形は似ているが大したものはないし、東照宮の配置が間違っている。富士山も言われるほどのものではない。とすべて自分の国のものを一番にしてケチをつけています。

 

私も比較的安価で入手しやすい第九回(1719年)使節団・申維翰著『海游録』(1983年、平凡社)を買って拾い読みしました。本書はソウルから対馬、下関、瀬戸内海、大阪、京都、東海道、江戸の往復の日記と、日本の風物の報告からなっています。

道中のでき事、風景については、ことさら抑揚もなく記述していますが、日本の風俗、日本人の行動については一々上から目線でイチャモンを付けています。

以前ご紹介しました、やはり江戸時代長崎の出島から江戸に参府したオランダ人医師(シュンペリーケンペルシーボルト)が淡々の書いた紀行文に比べると、いかに偏狭なものの見方をしているか、寒々しい気持ちになります。

 

こうまでして、またいったいどうして、朝鮮通信使は来日したのでしょうか。

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