ゴロウニン「日本俘虜実記」

ゴロウニン「日本俘虜実記」(1984年 講談社学術文庫)を読みました。

原著は1816年に出版されています。シーボルトが来日する、7年前のことです。

当時日本は第11代将軍家斉の治世で、長崎だけ開港し中国とオランダのみと貿易していました。

西欧に目を向ければ、18世紀末にはアンシャン・レジーム(旧体制)は疲弊し、フランス革命が勃発、ヨーロッパ全体を巻き込んだ、血で血を洗う変革のあらしの中、フランスにナポレオンが現れ、一大帝国を築こうとしていました。

オランダも16世紀末にスペインから独立しますが、その後ナポレオンに占領され、国王がナポレオンの弟であったために、イギリスと戦争になり、日蘭貿易の拠点バダビアもイギリスに奪われていました。

 

そんな中、ロシア・カムチャッカを拠点にしたスループ艦ディアナ号の艦長ゴロウニンは、
海軍大臣から南千島の測量を命じられます。

当時ロシアはカムチャッカ半島から南下をはかり、クリル諸島(北千島)を植民地化していました。一方日本は択捉、国後等の南千島を古くから実効支配していて、
すでに択捉島の北端には、国(松前藩)の警備隊が国境の警備にあたっていました。

 

これより30年前、日本の商船がアリューシャン列島で遭難しロシア人に救助されます。
エカテリーナ女帝の命を受けて、1792年ラクスマン中尉は日本人を引き渡すために、日本と接触します。

当時日本は厳しい鎖国を布いていましたので、簡単に引き渡すことはできません。

道南の松前で、引き渡し交渉が始まります。日本側の主張は次のようなものです。

日本は鎖国しており、長崎以外に渡来した外国人は捕え、終身監禁する。今回、ロシア人はそのことを知らなかったのでその法は適用しないが、今後はそのように承知してほしい。

日本は、日本人が日本を離れたら、救助された国に属すると考え、日本人とはみなさない。従って、今回救助されたものについて、帰国させようがどうしようが、貴国の自由である。

通商の交渉は長崎以外では受け付けない。長崎入港の許可証を一通交付する。

結局日本は遭難日本人を引き取り、ロシア交渉団を丁重にもてなしたということです。

 

下って、1803年ロシア皇帝は侍従レザノフを長崎に派遣します。レザノフは日本に通商を迫りますが、全くらちが開きません。ここでも、日本政府は先の日本の方針を厳しく伝え、今後は日本人の遭難者もオランダを通じて送還してほしいと伝えます。

レザノフは「日本は武力で開国を迫るしかない」と考え、部下のフヴォストフに命じ、1806および1807年樺太と択捉の日本人を襲撃します。

この事件は日本に大きな衝撃を与え、幕府はこれまで松前藩に任せていた北方警備を直接行使、「ロシア、許さず」と敵愾心に燃えていました。

 

1811年4月、3本マストを掲げたディアナ号は、艦長ゴロウニン以下60人の乗組員とともにカムチャッカを出航します。

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