司馬遼太郎 「箱根の坂」

「箱根の坂」第一版は、1984年(昭和59年)司馬遼太郎61歳の時に上梓されています。
私は講談社文庫・新装版全3巻(2004年)で読みました。

前回ご紹介しました永原慶二「下剋上の時代」が描いた次の時代、
すなわち、戦国時代が切って落とされた時代に、
駿河(現静岡市)の東部に拠点を置いて、伊豆、小田原、三浦半島を制圧し、
後北条家の礎を築いた戦国風雲児・北条早雲の一代記です。

早雲の伝記・軍記物は江戸時代から種々あるようですが、史料としては不正確で、
最近の研究では、多くの修正がなされています。

司馬遼太郎が本書を書いたころ、新説が出始めていたのだと思いますが、
本書は従来の伝記に近い内容だと思います。

 

小説では、
出自を明言していませんが、備中伊勢家に生まれ、1432年生まれ享年88歳説を取っていて、
大器晩成の典型という風説に従っています。

早雲が生まれた伊勢家は平家であり、行儀作法の家元であり弓馬に秀でた名門家系とはいうものの、
伊勢家の末流で、源氏の足利幕府にあっては、
歴史から置き去りにされ落ちぶれた家柄、という設定です。

 

足利義視の家で申次衆(秘書官のようなものか)をしていた新九郎(早雲の通称)が、
義視の夫人の侍女として田舎から連れてきた妹・千萱(ちがや)のところに、
駿府当主・今川義忠が夜這に来て、その後駿河に呼び寄せ側室(正室?北川殿)にします。

1476年、応仁の乱の余波で今川義忠が若くして戦死しすると、北川殿と幼い龍王丸が残され、今川家の家督が問題になります。
龍王丸は嫡男であり跡を継ぐのが筋ですが、幼いため多くの家臣および近隣の武将は義忠の従兄弟・小鹿範満(のりみつ)を推します。
この時早雲が駿河に下向し、「龍王丸が成人するまで範満を家督代行とする」ことで決着させます。
早雲88歳没説ではこの時早雲45歳になっています(早雲の年齢については以下同じ)。

月日が経って、龍王丸がが15歳になっても、範満は龍王丸に家督を譲りません。
早雲は再度駿河に乗り込み、範満を討って、龍王丸を今川の当主(今川氏親)に据え、
これを期に駿河の東・興国寺城に館を構えます(早雲56歳)。

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室町幕府と鎌倉府の間に長い間確執が続いていて、
1458年室町将軍義政は鎌倉公方・成氏を古河に追い、弟・政知を鎌倉公方として送りますが、
成氏一派の抵抗にあい、鎌倉に入れず、伊豆半島の付け根、堀越に居を構え以後堀越公方と言われます。

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堀越公方足利政知には息子茶々丸、清晃、潤童子がいました。長男・茶々丸の母親は早くなくなり、茶々丸自身が粗暴であったので、父・政知は茶々丸を嫌い、他方、円満院との間の子清晃、潤童子を寵愛し、後々清晃を室町将軍に、潤童子を鎌倉公方に据えようと工作します。
ところが、1491年茶々丸は父・政知、円満院、潤童子を殺害、長男清晃は生き伸び京に逃れます。

この事件を間近に接した早雲は、今川氏親に兵を借り今川家代官として茶々丸を襲いますが、茶々丸は三浦に逃れます(早雲62歳)。
伊豆半島を一掃した早雲は以来伊豆一国を勢力下に置きます。

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その後早雲は堀越御所の近くに住み着きますが、当所はかつて鎌倉幕府執権北条氏が居住し、地名が北条であったことから、
早雲は「北条殿」と呼ばれるようになり、2代氏綱が正式に北条を名乗ります。
鎌倉幕府の北条氏と区別するために、後北条ということがあります。

早雲はこの間一貫して、甥・今川氏親の後見人としての立場を守り、氏親のために三河等各地に出陣していますが、
一方、東へは独自の行動を続けます。
すなわち、伊豆を制圧した早雲は、その延長として、箱根の坂を超えて、小田原を制圧し、
敵対した三浦家を三浦半島に討伐、相模を制圧します(早雲85歳)。

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早雲の嫡男氏綱(うじつな)は、小田原城を拠点に戦国大名として領国をよく治め、北条家5代の基礎を固めますが、
下って秀吉の天下統一に最後まで抵抗したため、戦国大名としての北条家は滅亡します。

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なお、早雲自身は伊豆韮山に在住し続けました。

小説では、早雲が勢力を拡大していった理由について、
早雲は善政をしき民衆からも慕われていたが、領土が狭いため経営が難しく、領土を拡張する必要があった。
拡張した領土は早雲自身がくまなく目配りをし、常に領民から慕われ、周辺の農民も早雲の領土に移住してきたほどであった。

と領土拡張の正当性の根拠にしているようですが、私には不自然に思えます。

 

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