秋月氏

戦国末期、足利幕府の力は地に落ちていましたが、田舎大名にとっては、その権威は捨てがたく、大友宗麟(そうりん)は幕府に莫大な献金をして、九州六国(豊前、豊後、肥前、肥後、筑前、筑後)の守護職と九州探題職を獲得します(1559年)。
唯一気がかりだった毛利との消耗戦も、幕府に仲介を頼んで講和を結びましたので(1564年)、この時期宗麟は平穏な絶頂期を迎えていました。

 

一方元就(もとなり)はといえばそんな呑気なことは考えていません。
前門の虎・大友と和睦したことで、後門の狼・山陰の尼子に全力であたり、遂には尼子を滅ぼすと(1566年)、とって返して、再び九州への触手を動かします。

 

元就はまず宝満城城主・高橋鑑種(あきたね)が宗麟に不満をもっていることを察知し、反大友を持ちかけます。
鑑種といえば宗麟の最も信頼している家臣の一人で、大友家のためによく働き、秋月文種攻めにも十分な働きをした人物です。
しかし、この時鑑種は宗麟を非常に恨んでいたのです。
その一因は、宗麟が鑑種の兄・一万田親実を殺害し、その美貌の妻を妾にしたことだと言われています(異説あり)。

 

1557年、秋月文種が大友に攻められて古処山城で敗死したとき、周防の毛利に逃れた3人の息子達は、1560年頃に毛利の支援を受けて、旧臣と共に秋月の山城・古処山城を攻めとり、秋月の地盤を固めていきます。このとき嫡男秋月種実(たねざね)は17、8歳の若武者になっていたといい、嘗て父文種を討った高橋鑑種は種実の帰還を大いに喜び、親子の契りを結んだといいます。

同じく筑紫惟門(これかど)も毛利の支援を受けて、五ケ山に帰還します。

元就の誘いを受けた鑑種は種実や惟門と同盟し、鑑種は太宰府に近い宝満、岩屋で、種実は古処山で、惟門は五ケ山で反大友の狼煙を上げます(1565年、1567年説あり)。

これに呼応し大友に不満を持つ豊筑の豪族たち(麻生、宗像、城井、長野、千寿、後藤寺)、更には大友一族の立花城主・立花鑑載(たちばな あきとし)も毛利に味方します。

当時宗麟は多くの守護職を独占していたので、さぞかし絶大な権力を誇っていたのだろうと思っていましたが、九州で覇権を競う竜造寺や島津が大友に敵対するのは当然としても、関門海峡の向こうから手出しする毛利に、地元の武将がいとも簡単に味方するのを見るにつけ、宗麟がいかに人望がなかったかの証明ではないのかと思います(歴史を知らない私の偏見でしょうか)。

反大友の旗揚げに対して、大友軍が大軍を組織して敵の城を攻めます。大友家には沢山の猛将がいました。立花道雪(どうせつ)、高橋紹運(しょううん)、立花宗茂(むねしげ)等の勇猛ぶりは語り草になっています。

これから数年間、北九州、特に福岡県全域は大友対反大友の戦乱に明け暮れ、結局反乱は大友に鎮圧されます。

毛利・秋月側が破れた一番大きな原因は、毛利が予想外に十分な戦力を投入できなかったことだと思います。すなわち策士宗麟は、尼子、大内の残党を刺激して毛利の背後をつかせ毛利の動きを封じたのです。

戦闘の詳細は、諸説あってよく分からないところがありますが、おおよそ次のようなものかと理解します。

1567年6月、宝満城・高橋鑑種、五ケ山・筑紫惟門蜂起、惟門は同年陣中で死亡(死因は諸説あり)し、筑紫軍は大友に投降。
1568年4月、立花鑑載蜂起、立花城で敗死。
1569年5月、毛利軍が多々良浜の戦いで大友軍に敗北、同年11月毛利軍九州から撤退。
同年高橋鑑種、秋月種実投降(時期は異説あり)。

立花城、宝満城、岩屋城:吉永正春「筑前戦国史」より

高橋鑑種も秋月種実も辛くも助命され、鑑種は高橋家の家督を奪われ小倉城に移され、鑑種で断絶した高橋家の家督は吉弘鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)が高橋紹運と改名して継ぎます。また種実は拡張した領地を没収され、父文種の時代の領地に封じられます。

反大友の居城であった立花城には立花道雪(後の名前)が、宝満城、岩屋城には高橋紹運が入り大友は博多および太宰府の守りを固めます。のち道雪に熱望され、紹運の嫡男統虎が道雪の養子となり、宗茂と改名して立花城を守ります。

 

それから約10年後の1578年、宗麟が耳川の戦いで島津に敗れると、佐賀の竜造寺が大友領を侵食し、続いて、1584年竜造寺が沖田畷(おきたなわて)の戦いで島津に敗れると、今度は島津が竜造寺の領地と大友の領地を侵食します。秋月も時に応じて竜造寺、島津に味方して、大友の領土を侵食し、一時は36万石の領地を支配します。

島津・秋月は太宰府・博多に迫り、1586年高橋紹運(立花宗茂の実父)が岩屋城で玉砕。立花城主・立花宗茂は懸命に持ちこたえます(立花道雪は1585年病没)。
この間、宗麟は上阪、秀吉に謁見し、秀吉の家臣になることを申し出、同時に九州出征を要請します。

 

これを受けて、秀吉は大軍を従えて九州に押し寄せ、島津に降伏を迫りますが、拒絶。
同様に秋月の重臣が秀吉にまみえ秀吉の力を認識し、降伏の条件を聞き出し種実に伝えますが、種実はこれを拒否、重臣は切腹(重臣が切腹したと伝えられる「切腹岩」が秋月城址近くにあります)。

秀吉が、じきじきに兵を従え古処山攻めを開始、種実は秀吉と戦火を交えで初めて、秀吉の強大さに驚き投降します。戦前に示された降伏の条件はすべて反故にされ、約400年間住み続けた秋月の地は没収され、僅か3万石の日向高鍋に領地替えさせられます。種実が秋月を去るとき、「たとえ10石でもいいから、秋月に残りたい」と言ったということです。

秋月種実は結局時代を読み切れなかった、井の中の蛙だったのでしょうか。

 

 

私は北九州戦国史を勉強していて、とても興味を持ったのは、秋月家にまつわる人々の生き様、ものの考え方が実際はどうだったのかということです。もちろんインタビューできるわけではないので、推測するしかありません。

最初、高橋家についてです。
高橋は大蔵系の家柄ですが、跡取りがなくなったとき、その存続のために大友系一万田左馬之助が高橋鑑種と名前を変えてが家督を継ぎ、高橋鑑種が宗麟に反旗を翻したことで、家督を没収され、今度は吉弘鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)が高橋紹運を名乗り高橋の家督を継ぎます。優秀な大友一族がどうして2度までも大蔵系の家系を継いだのか。高橋家は特別の家柄だったのでしょうか。

第二に、高橋鑑種は宗麟の命で秋月文種を討ちますが、のち文種の嫡男・種実と同盟し宗麟に反功します。
高橋鑑種は結局敗れ、小倉城主になりますが、ここでも秋月種冬を養子に迎え小倉城を任せませます。鑑種の秋月に対する思いはどのようなものだったのか興味がわきます。

第三に、どうしてこれほど秋月は大友に反抗したのか。
秋月は一時期大友の家臣だった時期もあったようですが、ほぼ一貫して反大友を貫きます。なにがそうさせたのでしょうか。

第四に、秋月種実の兄弟、子供は各地の城主の養子になっています。
筑後秋月には黒田家が入り、黒田と秋月は婚姻関係を持ちます。黒田家も秋月家に敬意を払ったようです。また高鍋藩6代藩主秋月種美の次男・治憲(はるのり)は、米沢藩に養子に出て、上杉鷹山(うえすぎようざん)を名乗り江戸時代屈指の名君として知られています。

秋月家について今回勉強した以上のことを私は知りませんが、秋月家は小粒ながら優秀な子孫を残しているように推測します。秋月家の家風はどのようなものだったのか興味が尽きません。

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