下向井龍彦「武士の成長と院政」2

一方の、律令制下での国内治安はどのように確保したのか。

地方(国衙)は基本的には常備軍を持ちません。

国衙での事件は、規模や性質によって異なる形で対処します。

非武装で処理できる軽微な事件は、国司の判断で人夫を雇って逮捕に向かいますが、武力を必要とする場合は必ず中央政府にお伺いを立てねばなりません。それを怠ると後で罰せられます。

武装を必要とするときは、謀反(天皇に対する反逆罪)に相当するときは天皇に、謀叛(国家に対する反逆罪)に相当するときは太政大臣に、事件の内容を報告して、逮捕状(捕亡令)と動員許可証(発兵勅符)を頂いて、臨時兵士をそろえて逮捕に向かいます。

これらの兵士は国軍ではなく、あらかじめ登録しておいた在地の武芸に秀でた豪族、百姓です。

大化の改新(646年)から100年以上経過した奈良朝末期になると、社会構造に変化が起きます。まず、人口や財政需要の増加に伴い、国家収入を増やす必要から大規模開墾を始めますが、開墾を効果的に進めるために、やがて743年には開墾した土地の私有を認めます。

土地の私的所有を認めると、資本を持つ中央貴族・大寺社・地方の富豪は活発に開墾を行い、大規模な土地私有(初期荘園)が出現するこになります。

780年の徴兵制廃止に伴って、律令制の基盤となっていた戸籍を通じた個別人身支配が急速に形骸化し、平安朝9世紀になると、重い人頭税に耐えかねた農民は農地を離れ浪人になりますが、国はこれを看過する一方、彼らを吸収する地方の豪族が肥大していきます。

その結果、個人に課税する人頭税方式は不具合が生じ、これまでの人頭税は土地に対する税に変わっていきます。

中央と地方の関係にも変化が起きます。すなわち中央政府は地方の管理権限を地方の長官・国司(受領)に移譲するようになり、国司はさらに納税については郡や里の長(有力豪農)に管理を任せるようになります。

これは国司の力を弱めることを意味しません。逆に、フリーハンドを得た受領は、自分の権限で群や里を締め付け蓄財し、また中央への貢献に実績を上げようとします。

受領は通常4年任期で、成績が悪ければ次の着任地を得ることができません。特に退官年には、厳しく郡や里を取り立てます。

これは地方の治安を不安定にし、富豪同士、富豪と受領との間で、紛争が頻発します。

これを鎮圧したのは誰か。先に説明したように、これは国軍ではなく百姓のうち弓馬に通じた者、郡司・富豪層であり、帰順して全国各地に移住させられた蝦夷の後裔たる俘囚でした。

802年征夷大将軍坂上田村麻呂は東北に侵攻し、鎮守府を多賀城から北の胆沢城に移し、蝦夷と政治決着しました。すなわち、胆沢城の北には蝦夷の社会体制を温存し、ただし鎮守府を通して北方の監視をするものです。

一方、朝廷に帰順した蝦夷の人々が、結束して反乱を起こすことを恐れ、政府は彼らを日本全国に分散移住させます。また、政府は彼らに生活の保障をしたので、彼らは狩猟や武術を鍛錬しながら生活し、反乱が勃発したときには、兵士として国司の指示に従って戦います。869年新羅の海賊が博多を襲った時、俘囚は戦っています。

しかし、彼らは公民との間に問題を起こし、蔑視され、決して公民から歓迎されていなかったので、国は897年彼らを東北の地に送還します。

895年以後7年にわたって坂東群盗の蜂起が続きます。この時すでに俘囚は東北に帰還させていましたので、新たな鎮圧手段が必要になりました。

この辺りの史料が少なく、著者の推測が入っているということですが、これらの鎮圧にあたってのが、中央から派遣された新たな兵士たちだったといいます。

政府は新たな軍令を発布、その内容は次のようなものでした。

  • 大幅に国司に権限を移譲する
  • 専門の軍事顧問・押領使を派遣する
  • 武勇に優れたものはだれでも、国司の動員に従わなければいけない

この軍令によって坂東に駆けつけたのが、将門の祖父平高望、藤原利仁、藤原秀郷であったと筆者は推測しています。

 

下って西暦930年代、将門・純友の乱が発生しますが、この時の討伐隊は先の坂東群盗で使ったと同じ手法をとったといわれています。

ここで一つ注意点があります。国が先の坂東盗賊平定にあたった兵たちに十分な褒賞を与えなかった。その時の東国武将の不満が将門・純友の乱の遠因になったとの反省から、将門・純友の乱の平定にあたった武将に十分な褒賞が与えられました。

そしてもう一つ重要なことは、これを契機に武芸を家業とする武家が登場したということです。

武家は国家を守るという自覚のもとに武芸に励んだと著者はいっています。

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