ケンペル「江戸参府旅行日記」

エンゲルベルト・ケンペルは、
第五代将軍綱吉治世の1691年と92年2度江戸参府を果たし、
その旅行記を書いています。
前回紹介したツュンペリーの江戸参府に遡ること約80年です。

彼はドイツ人ですが、やはり「オランダ」人医師として参府しています。

「江戸参府旅行日記」(1977年、平凡社東洋文庫)は、ツュンペリーとは大分記述内容が異なり、
ツュンペリーのように日本の草木や、工芸品等への関心はあまりなく、
旅行した知見の忠実な記述に終始する旅日記です。

何月何日にどこそこを通り、何戸くらいの村で、
どのような風景であったかを淡々と(言い換えれば延々と)書いていますので、
真面目に読むには辛いものがあります。
多くの記述はすっ飛ばして読みました。

ツュンペリーの本での「どうして?」という疑問がいくつか分かりました。

オランダ商館の参府は大名の参勤交代と同じ意味合いで、
(多分毎年)将軍に謁見しなければいけない規則であったようです。

また、彼らが丁重に扱われたのは、彼らに敬意を表してのことではなく、
彼らが日本人に接することで、特にキリスト教を持ちこむことを警戒し、
道中は厳しい監視下に置かれていたというのが主な理由であったようです。

道程はツュンペリーとほぼ同じです。
以前は長崎から玄界灘、瀬戸内海と船で航海していたようですが、
海が荒れると日程の予定が立たないことから、
極力陸路の旅になったようです。

東海道に入ると、「こんなにも旅する人がいるのだ」と、
とんでもない人の多さに驚いています。
当然江戸の人口の多さ、更には商店の多さにもびっくりしています。
(江戸は元禄の時代です)

ツュンペリーは旅の途中、糞尿の悪臭について語っていますが、
ケンペルはそのようなことは書いていません。

ただ、街道にはたくさんの乞食がいたと書いています。

ただし、その内容は良くわかりません。
僧侶の托鉢や大道芸人も物貰いと思ったようで、
彼の感覚からすればこれらはすべて乞食だったということかもしれません。

江戸の町では頻繁に火事があったようです。
また、日本滞在中では数度の地震を経験しています。

正式な将軍謁見は商館長一人だったようですが、
そのあとでオランダ人3人(今回も商館長、医師、書記です)が、
別室に呼ばれ夫人たち(将軍も簾の奥にいた)の前で、
歌を歌わされたり、踊りを踊らされたりしています。

二回目の参内では、寸劇までやらされ、
綱吉から直々に外国の生活や政治について質問を受けています。

綱吉も二回目で大分親しみをもったようで、
後日、暇乞いの挨拶にいったときも近くに呼ばれて、
またしても姫たちに歌を披露したり、
ごちそうになったりしています。

長崎奉行からは、
「オランダ人がこれほど厚遇されとことは初めてです」と告げられています。

参府には将軍はじめ主要な役職の侍に、それ相応の贈り物をしますが、
必ずまたそれ相応のお返しの品を送られます。

 

また犯罪に対する厳罰の記述が何か所かにあります。
江戸に入る前の鈴ヶ森では、
幾つかの死体がカラスや犬に食い荒らされていたと書いています。

また、長崎では密貿易が厳重に処分され、
中国船、オランダ船との密貿易に多数の処分があったといっています。

オランダから僅かの樟脳を手に入れたものが死罪を申し渡され、
「オランダ人は今回はおおめにみるが、次回は日本人と同じ刑を課す」として、
関与した日本人を出島で斬首。かかわったオランダ人は追放となります。

ケンペルが出島に滞在した数ヶ月の間に、
密貿易で100人以上の人間が処刑されています。

犯罪を犯したものの多くは、処刑を恐れ、
割腹したり、首をつったり、舌をかんで自殺を図っています。

侍の時代は、今の時代からするとやはり残忍な所業がたくさんあったのだと思います。

 

その他のエピソードとして次のようなことを記しています。

街道は左側通行と決まっていたので、上り下りの行列がぶつかることはなかった。

コウノトリがあちこちにいた。

九州の今の筑豊あたりで石炭が掘られていた。

ヨーロッパでは絶滅した銀杏の木をみたといっているようですが、
読み落しました。

江戸参府のとき、お付きのものが犬に噛まれて、ケンペルがその治療をしたが、
「犬をやっつけてしまわなかったのか」と聞いたところ、
「とんでもない」という返事。
当時の「生類憐みの令」をいかにも奇妙な規則だと思った。

瀬戸内海では西の風が吹いていたので行きは良かったが、
最初の参府の帰りは風に恵まれず難儀した。
当時の船には何対かの日本式の櫓が備え付けられていて、
船頭が掛け声をあげて漕ぐと結構速かった。

それから、
前回紹介ししたツュンペリーが「天皇の統治は紀元前660年天照大神に遡る」と書いていますが、
天皇についての知識は、そもそもケンペルから受け継いだようです。

 

ケンペルの死後発行された[日本誌](本書はその一部です)がヨーロッパで評判になり、
多くの西欧人が日本に関心をもつきっかけになったようです。

江戸時代の外国人といえば、シーボルトです。
江戸後期1826年に出版された[江戸参府紀行]を読みたいと思います。

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