中国論

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益井康一「日本はなぜ戦争を始めたか」

益井康一[日本はなぜ戦争を始めたか](光人社 2002年)を読みました。
氏は以前ご紹介した[なぜ日本と中国は戦ったのか]の著者です。

前回も述べましたが、著者は毎日新聞の従軍記者として、
満州事変、日支事変で日本軍と行動を共にしていますので、
例え誤認があったとしても、作為的なねつ造はないと安心して読むことができます。

本書は以下の3部からなっています。

第一部 満州事変の真相
第二部 盧溝橋事件の真相
第三部 日米開戦の真相

何れも、日本の政府・軍の動きを細かく追っていますが、
逆にいえば相手国・中国や英米やロシアの記述は希薄です。

満州事変と盧溝橋事件は、日本が主導的にかかわったので、
ほぼここで書かれていることは真実なのだろうと思いますが、
日米開戦については、アメリカ・イギリス・ソ連が主導したにも関わらず、
これについても日本の動きばかりを追っていますので、
これでは「日米開戦の真相」はわからないと思います。

 

この本を読んで強く思うのは、
明治の昔から、もしかしたら江戸時代から、
ロシアあるいはソ連が、いかに深く日本の外交政策にかかわってきたかということです。

ソ連は大きな国土を有していますが不凍港が少ないので、
どうしても大海に接する温暖な領土が欲しかった。
それは今日でも変わることのない悲願だと痛感します。

ロシアは日露戦争の結果、満州・朝鮮の権益を日本が譲渡しましたが、
その後も、革命ソ連はしつこく満州への進出の機を伺っていました。

そんな中、日本は満州にたくさんの日本人を送り込み、
同時に南からたくさんの漢人も流入してきました。

おそらく満州では、当時ゴロツキが跋扈し利権や勢力拡大に明け暮れていたのでしょう。

そのような中、張作霖は貧しい家庭から満州の最大勢力になり、
遂には1926年12月、北京で自らが中華民国の主権者であると大元帥を名乗りました。

時あたかも、蒋介石の南軍は張作霖の北軍の討伐の攻勢をかけてきます。

当時日本は、山東半島青島の権益をドイツから受け継ぎ、
この地に多くの日本人を居住させていましたが、
ここは南軍の北京への進軍の通過点になるため、
この地が戦場になることを恐れた日本は、
張作霖に満州へ引き上げることを強く要望します。

張作霖は当初拒んでいましたが日本の説得に応じて、
1928年厳重な警護のもとに奉天に向けて出発します。

ところが、奉天に到着する直前、
列車は爆破され、張作霖は大けがを負い、間もなく死亡します。

筆者は、張作霖爆殺は関東軍参謀・河本大佐の策略だとしています。
これは通説で、多くの本がこのように書いています。

しかし、Wikipediaでみるとソ連陰謀説があるようです。
益井は本書の中で、列車は転覆したと書いていますが、
Wikipediaでは張作霖の車両は転覆せず、天井は吹き飛んだが床は残っていたといいます。

歴史の通説もどこまで本当なのかとわかりません。
この通説は東京裁判で「証明」されましたが、
東京裁判がGHQに都合のいいように歪曲されたものなので、
今になってみると東京裁判そのものを徹底的に検証する必要があります。

さて、張作霖殺害に続く満州事変では、
石原莞爾が主導する関東軍が暴走したのは間違いないようです。
軍法会議にかけて厳重に処断しなければいけなかったにも関わらず、
軍中央は、「まあ、いいか」とやり過ごしています。

 

盧溝橋事件から日中全面戦争にずるずると入っていきます。

この事件は、1937年北京近郊の盧溝橋で、日本と国民党軍とが衝突した事件ですが、
これは現在では、「コミンテルンが日本と中国・国民党が戦うように仕組んだものだ」
とする見方が大勢のようで、 この本でもその文脈で書いています。

すなわち、盧溝橋近辺に駐在していた日本軍は、
ソ連との衝突に備えて、国民党軍に予告し、夜間演習をしていましたが、
夜陰に紛れて発砲があります。

日本軍は国民党軍に事件の詳細を求めますが、国民党軍は「心当たりがない」と回答してきます。
日本軍も戦線拡大を嫌い、事態収束に向かおうとしますが、その後も散発的に発砲が続くなか、
国内では、軍中央はバタバタ、ラジオは跳ね上がり放送をするなどで、
日中双方が相互不信に陥り、遂に日中の全面戦争にのめり込んでいきます。

本書では、当事件での日本軍と国民党軍の前線でのやり取りや、
軍中央の動きを細かく追っています。

第三部の「日米開戦の真相」では、当時の日本の政府、軍の右往左往が細かく書かれています。

 

一読して色々なことを考えます。

まず第一に、日本という国は、戦争という国の重大危機を前にしても、
どうしてこのように右往左往するするのだろう、
と情けなくなります。

軍中央は、関東軍の行動に激怒してみたり、黙認してみたり。
中国軍と和解しようとしたり、猛烈に攻撃してみたり。

大正(1912年)から終戦(1945年)までの約30年間に、
約30の内閣が成立と解散を繰り返しています。
平均で毎年毎年、総理大臣が入れ替わっています。

先の戦争の責任を一身に受けた東条英機は、3年近く総理大臣を務めていますが、
彼にしても欲しくて首相になったわけではありません。

優柔不断な近衛文麿が総理の場を投げ出したから、
お鉢が回ってきたのです。

ヒトラーのように、自ら政権を奪ったのではありません。

日本の大正・昭和のリーダーは何時も半身に構え、自信なげに逃げ腰です。
骨のある政治家がいなかったのは、なぜなのだろうと不思議に思います。

とはいえ、軍が主導した挙国一致の新体制=大政翼賛会の時代に、
身をもって反対した政治家が少数ではあったが、
いたということも事実だし、彼らの信念には畏敬の念を持ちます(斎藤隆夫、中野正剛等)。

さて、日本が軍の独断を許した最も大きな仕組みは統帥権です。
これは、大日本帝国憲法下における軍隊を指揮監督する最高の権限で、
唯一天皇が持つと定められていました。

したがって、戦争についての最後の判断に、
文民政治家は立ち入ることも、口出しすることもできず、
これをいいことに軍は天皇に都合のいい報告をし、
天皇を介して国を思う通りに動かしたのです。

陸軍大臣、海軍大臣はそもそも軍の出身だし、
東条英機は陸軍大臣の経歴者でした。

要は、大日本憲法の下では、
軍は天皇を利用して好き勝手ができる仕組みがあったのです。

それにしても(もしかしたら「だから」)、
日本が戦争に前のめりになっていった時、それに反対する政治家も僅かしかいなかったし、
新聞・ラジオはむしろ、軍を煽ったという事実を忘れてはいけません。

宮脇淳子「真実の満州史」

日清、日露戦争の後、日本がずるずると大戦争に突入する契機になった満州事変。

満州は、そもそもどのようなところだったのか知りたくて、
宮脇淳子「真実の満州史」(ビジネス社、2013年)を読みました。

記述は学術的というより談話をまとめたという感じで雑な感はありますが、
概論として読めば、それなりに価値があります。

ただし、著者は独断的に語っていますので、
へそ曲がりの私は、ところどころ「そうかな」と疑問符をつけながら読みました。

本書に従って、満州での推移を整理します。

日露戦争終結後、日本とロシアは秘密条約を結んで、
朝鮮、満州、モンゴルの権益を分け合いました。

と同時に、日本は清朝と条約を結び、ロシアの権益を日本が引き継ぐことを認めさせ、
日本は、条約に従ってまだ未開発であった満州に、人や金をつぎ込み開発していきます。

1913年には、朝鮮の釜山から鉄道で北上し、満鉄からシベリア鉄道を使って、
モスクワ・パリに行けたということを今回初めて知りました。

満州開発について、本書は次のように書いています。

満州は日本人によって、今のように金を生み出す土地となりました。
やはり日本人の投資によって現代の中国があるのです。
例えば、アメリカ合衆国では西部の開発にしても、
ユタ州やミネソタ州などでは開発が進んでいません。
日本はそれに近い奥地を開発して、生産性のある土地に変えました。
日本人が満州へ行く前は、狩猟民と農民だけがいて、
何も生み出さない土地でした(270P)。

日本は満州国で真面目に国造りをしました。
道を直して、電気を通すなどインフラを整備し、
貿易も盛んにして豊な国にしようと頑張り、実際にそうなっていきました(274P)。

しかし、中国で辛亥革命(1912年)、ロシアでロシア革命(1917年)が起こり、
政権が変わると事態は一変します。

ソ連は日露秘密条約を暴露し、中国革命政権は日本との条約を一方的に破棄します。
1919年、世界同時革命を目指すコミンテルンが誕生すると、
コミンテルンは中国の共産勢力の強化をはかって、反日工作を強めていきます。

ロシアがソ連になって過去の関係をすべて無視したのと同じように、
ソビエトの後ろ盾を得た中国も、過去の人間関係や国際関係、条約を全部棄てました。
前の王朝であった清朝が決めたことはまだしも、
袁世凱が決めた21カ条の要求にも反対運動が起こり、約束を反故にしようとしました(179P)。

当然日中での衝突が起こります。

日本にしてみれば、それまで投資してきたものを、突然捨てろと言われても困ります。
投資がやっと実る時期になって、すべて置いて出ていけと言われたら、
「はい、そうですか」とはいえません。
ですから、
日本は満州を日露戦争で「十万の生霊、二十億の國ど」を費やして得た正当な権益だと主張し、
満州をめぐって日中が対立していくのです(180P)。

加えて、かつてロシア革命勃発当時、革命阻止に動いたアメリカは、
それまで良好な日露関係にあった日本に、
ロシア領への出兵を要求した(1915年シベリア出兵)にも関わらず、
1930年代後半、第二次世界大戦がはじまると、ルーズベルトはチャーチルの強い要請を受け入れ、
手のひらを反して日本に圧力をかけ、日米開戦に仕向けたのです。

日本は孤立し、大戦争に突入していきます。

20世紀の歴史は、日本がまず日露戦争でそれまでの白人絶対の歴史を変えて、
満州事変でも世界の仕組みを大きく変えました。
第一次世界大戦以外は、すべて日本のせいで世界史が動いたのです。
(中略)

日本は謀略でなく正論を持って戦争を行ったので、
他の白人諸国はおおやけに文句を言うことができません。
「植民地主義がひどすぎる。なぜ人種が違うだけで奴隷扱いするのか。
白人はけしからんのでアジアの人たちを救ってやりたい」というのが日本の主張で、
本当に正道の理由でした。

そして白人の圧力を跳ね返した日本人が強くなったので、
白人は正面切って文句をいえなくなりました。
そのため、「日本をなんとかおさえなくてはいけない」
と背後に回って組んだというのが、世界の歴史なのです(271P)。

いわゆる自虐史観の対極にある史観で、
数年前まで、このようなことをいう人はいなかったと思います。

現代史を色々な観点から考察しなければいけません。

情報をたくさん仕入れて自分なりの歴史を構築することが重要だと思います。

益井康一「なぜ日本と中国は戦ったか」

8月に「暫くお休みし、9月には再開します」と告げて、
結局再開がのびのびになってしまいました。

ブログを中断する前には、毎日400人を超える人がこのブログを訪れてくれていて、
それは嬉しいことですが、同時にプレッシャーになります。
中断する理由が、「忙しい」というのは間違いではなかったのですが、
それよりも、「書かなければ…」というプレッシャーがきつくなって、
「お休みしたい」と思ったのが本当のところです。

まとまったことを続けるのは、結構しんどいことです。
五木寛之は何十年も新聞にコラムを書いているそうですが、
職業とはいえそれだけで尊敬します。

私は職業としての文筆家ではないので、
今後は無理をしないで、「休むもよし、始めるもよし」と気楽にブログを続けたいと思います。

 

さて、中国との戦争はどうして起き、どのような経過を辿ったのか勉強しようと、
益井康一「なぜ日本と中国は戦ったのか」(2014年、光文社)を読みました。

著者は1911年生まれ、毎日新聞の記者として、終戦まで中国で戦場を駆け回った人です。
本の内容はまさに新聞記事のごとく、淡々としかしかなり詳細に戦況を語っています。

どの時期から従軍したのか、私が読み落としたかもしれません。
おそらく、1937年の盧溝橋事件あたりから、日本軍と行動を共にしたのだと思います。

本では日清戦争の戦後処理から始まって、日中戦争に至ったいきさつをざっと語り、
その後はかなり詳細に日本軍の動向について、
敗色を帯びてきた昭和19年までの、中国戦線の模様を書いています。

大半は中国での蒋介石軍との戦いについてであり、
毛沢東の名前は殆どでてきませんし、太平洋戦争についても書かれていません。

ペマ・ギャルポ「中国が隠し続けるチベットの真実」

2冊の新書本を読みました。
一つはクロード・B・ルヴァンソン[チベット](2009年、白水社)、もう一つはペマ・ギャルポ[中国が隠し続けるチベットの真実](2008年、扶桑社)です。

最初にルヴァンソンを読みましたが、「簡単な話を、なんでこんなに難しく書くのだろう」と腹立たしく思います。このような深刻な問題をかくも文学的に書く必要があるのだろうか。

例えば、次のような文章。

「チベット性」の一つの側面は、特殊な地理的現実に根ざした、外界に対する仏教的アプローチへの愛着としてとりあえず定義されるが、こうした観点に立てば、まずその特殊性の土台を形成するものを保全する緊急性が容易に理解できる。

(もしかしたら、翻訳が悪いのかもしれませんが、恐らく原文が酷いのでしょう)

内容はこれまで私が勉強したこと以上のことは余りありません。

すなわち、中国との関係における、簡単なチベットの歴史。地下資源が豊富なチベットが中国にとっていかに魅力的かの話。メコン川、長江等の水源地であり、水がめとしてのチベットの価値。中国の侵略のいきさつ、世界の反応等。

チベット問題の「概説」としてまとまっていますが、逆に2009年の出版にもかかわらず、文化革命や2008年騒乱については具体的な記述はあまりありません。

 

ペマ・ギャルポは、関口宏司会のTBSサンデーモーニングに、昔半レギュラーで出ていましたが、何故か「司会者の対応が冷淡だな」と思っていましたら、やがて放送に出なくなりました。なにかあったのでしょうか。噂では、中国の圧力があったということですが、真実は知りません。

[中国が隠し続けるチベットの真実]で自分の出自を書いています。

彼の曽祖父は東チベット・カムのニャロン地方の領主だったそうです。ニャロンは九州くらいの広さでしたが、最盛期には日本の広さほどの領土を支配していたということです。

ダライ・ラマ14世がチベットを脱出した2年後、後を追うように家族と一緒にインドに亡命しています。年齢は分かりませんが、まだ少年だったのでしょう。

その後何時日本に亡命し、チベットとどのようにかかわったか、詳しくは分かりませんが、時には亡命チベット政府の一員として、中国との交渉に関与したようです。

彼は、亡命以降に起こったチベット騒乱に立ち会っていませんので、インタビューや他の文献からの引用でこの本を書いています。内容的には分かりやすくまとまっています。

2008年6月の出版で、同年3月のチベット騒乱の話から始まります。チベット騒乱は北京オリンピックを前にして、中国に対するチベット人の不満が爆発したものですが、中国の聖火ランナーのルートにチベットの聖地、チョゴランマの山頂を通したことや、オリンピックのマスコットとしてチベット領のパンダやチベットカモシカを使ったことも、チベット人にとっては自分達の尊厳・アイデンティティを侵害されたと映ったようです。

パンダは四川省に生息していることは知っていましたが、チベット領だということは気づきませんでした。

この本は薄い割に良く書けていると思います。
中国によるチベット侵攻の初期の動きは、この本では次のように書いています。

チベットが独自にイギリスに接近することを恐れた清は、1910年にチベットに侵攻してきました。ところが、その直後に辛亥革命が起こって、1912年には清が滅亡してしまう。それまで清の支配下にあったチベットとモンゴルは、お互いに独立を宣言して双方の独立を認め合う「蒙蔵条約」を結びます。

1914年イギリスは中国の宗主権は認めながらも、チベットの独立を承認するシムラ条約を作成し、チベットとイギリスは調印しますが、最後の段階で、中国が署名しないままで終わっています。

当時はダライ・ラマ13世の治世です。河口慧海はダライ・ラマ13世に謁見し、鋭い政治センスの持ち主と高く評価していますが、彼は後に大ラマといわれています。

1950年に始まった中国のチベット侵攻、それに伴う残虐な行為を面々とつづっていますが、ここでは触れません。ただチベット亡命政府が発表したチベットの人的被害を挙げておきます。

戦いや蜂起によるもの 43万2705人
餓死 34万2970人
獄死、強制収用所での死 17万3221人
処刑 15万6758人
拷問による死 9万2731人
自殺 9002人
合計 120万7387人

1959年ダライ・ラマ14世はインドに亡命し、インド北部のダラムサラに亡命政府を作ります。当初はチベットの独立を目指しますが、後に彼は現実路線を模索し、自治権のみの要求をします。がそれも実現しません。

年を経る毎に、中国にとってチベットは重要になります。
2006年ラサとチベット東北部西寧市を結ぶ青蔵鉄道が完成します。
この鉄道は軍事的に重要な補給線になりますし、沿線には石油他の天然資源が眠っているということです。

チベットを離れた多くの人は、民族独立は当然の権利と認識しますが、これといった方策もありません。

ダライ・ラマも高齢で、死去した後の求心力の低下にも、不安があります。

ガンジーやキング牧師のように、武力によらない粘り強い、働きかけと国際世論の注目・支援を期待しています。

なお、この本には、1951年中国がドサクサにまぎれて、チベットに押し付けた「17か条条約」。1988年亡命ダライ・ラマが提案した「5項目和平プラン」。一年後に提案した「新和平案」が転載されています。

「中国はいかにチベットを侵略したか」2

その後、毛沢東はチベッに様々な懐柔策を実施し、
道路、商業、通信手段等を整備する一方、
次々に軍隊を送り込みます。

中共軍が増えるにつれて、チベットの人々との軋轢が生じ、
小さな火種はだんだん大きな火に勢いを増します。

1956年正月、ラサで大きなデモが発生し、
それに対し中共軍は厳しく、しかも残酷に対処します。

ゴンボ・タシ(抵抗運動の指導者)の言葉に従えば、

1956年は、中共の約束が耳をかす値打ちもない大嘘だったことがはっきりしたという点で、
チベット人にとって忘れられない年だった。

民主的改革? 土地改革? 援助? 進歩? 
それらはすべて暴力、脅迫、飢餓、死に言い換えてみればずっとわかりやすい。

それが中共の共産主義への道だった。(中略)

これが毛沢東のいう「大家族の一員としてチベットを抱擁する」という意味であった。

 

「カム・アムド・ゴロク、どこの村でも中共の虐殺を経験しており、
抵抗の狼煙を最初に上げたのはじぶんたちの村だったというだろう。

誰も間違っていなかった。
ほんの数週間のうちに東チベットの抵抗勢力は吹き荒れる嵐となって広がったのだ。

中共側も負けてはいない。妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。
特に尊敬されている僧たちは狙い撃ちされ、尼僧と性交を強いられたりもした。

ある僧院は馬小屋にされ、僧たちはそこに連行されてきた売春婦との性交をしいられていた。
あくまでも拒否した層のあるものは腕を叩き切られ、
「仏陀に腕を返してもらえ」と嘲笑された。

大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、
馬や車で引きずり殺されていった」。

 

この本にはまだまだ沢山の、中共軍による残虐行為が書かれていますが、
止めておきます。

ダライ・ラマはインドの支援を求めてネールに会いに行きますが、
案の定、ネールは冷たい対応をします。

国連にもチベットの惨状を訴えますが、まともに扱ってくれません。

チベットと中共との兵力の差は歴然としていますから、戦争にはなりません。
基本的にゲリラ戦です。

CIAはアイゼンハウアーの指示で、チベット人を訓練し、武器支援します。
東パキスタン(現バングラディシュ)を介して、有能なチベット人を連れ出し、
グアム、サイパン、沖縄でゲリラ戦士としての訓練をし、
再度チベットに送り込みます。

1958年初めには、中共は東チベットだけで15万人の兵力を展開していました。

チベット人のゲリラ戦も激しくなり、全面的な戦闘状態になります。
しかしもともとチベットには沢山の部族があって、
これまで協力して国のために何かをしたという経験がありませんでしたし、
連絡を取り合う通信手段を持たなかったので、
それぞれが「チベットを守る」という気持ちでそれぞれの方法で戦っていました。
武器も手持ちの猟銃であったり、刀であったり、斧であったり、貧弱なものでした。

それに対して中共軍は、高性能機銃や爆撃機で村々を壊滅していきます。

大商人であったコンボ・タシは法王庁に承認を得ないまま、独断で部族をまとめる決断をします。

 

1959年3月、中共軍はダライ・ラマを中共軍司令部に呼び出そうとします。
それを受けて3月10日、首都ラサで大規模なデモが発生。
民衆は各所にバリケードを築き、ありあわせの武器で対峙します。

緊迫の日が続いたのち、3月17日中共は最後通告します。

侍従長以下の説得を受け入れ、ダライ・ラマはラサからの脱出を決心、
夜陰に乗じて宮殿を後にします。
CIAの圧力があって、インドはダライ・ラマを受け入れます。
14世ダライ・ラマ23歳でした。

中共軍はダライ・ラマの動向をつかめないまま、20日には法王庁宮殿への攻撃を開始します。

一連の攻撃で、チベットの7千の僧院の90%以上が破壊され、
一説では犠牲者は120万人(1950~1976年、Wikipedia)にのぼるということです。

アメリカのチベットに対する対応も揺れ動きます。
1960年アメリカのU2スパイ機がヒマラヤ上空からソ連を偵察中に撃墜され、
米ソの冷戦が深刻な状態になったため、
大統領はCIAによる上空からのチベット支援を禁止しました。

アイゼンハウアーの次の大統領ケネディもチベット支援策を続けますが、
インド大使ガルブレイスがチベットを嫌い、支援は思うようにいきません。

続く、ニクソンは中国との接近政策を打ち出し、ついにはチベットを見殺しにします。

ネパールも中国との関係を重視し、チベット難民を冷遇します。

1962年、中国がカシミールに侵攻すると、さすがのネールも目をさまし、
チベット亡命政府の設置を認めます。

 

その後も中国はチベットに圧力をかけ続け、
1996年の文化革命、2008年のチベット騒乱でも、チベットを武力で鎮圧。
沢山の僧院、宝物が破壊されます。

 

中国は何かといえば戦前の日本軍の悪行を非難します。
(実際はどうであったのか、私はまだ勉強できていませんので、
この問題は当面判断停止します。)

しかし、チベット問題は現在進行形です。
中国によるチベット支配は、どう考えても正当化されません。
中国が日本を非難する前に、現在の自身の行動が問われなければいけません。
日本批判は自分の悪行を隠す、あるいは目をそらす有効な手段として使っているのでしょう。

中国は日本批判で首相の靖国参拝を非難します。
しかし、どの口で「毛沢東崇拝」を謳うのか、開いた口がふさがりません。

中国は「チベットは内政問題だ」といいます。
「内政問題だ」と言われれば、国は動きにくいかもしれないが、
私たち一市民はいくらでも声を上げられす。

多くの人が関心を持って、
インターネット等をフルに使って中国の非を発信しなければいけません。