韓国論

29 posts

石平「朝鮮通信使の真実」2

「朝鮮通信使の真実」を解き明かすには、当時の江戸幕府と李氏朝鮮が、相手国をどのように見ていたかを理解しなければなりません。

本書には日本側の対応は書いていますが不十分だと思いますし、まして朝鮮側=李朝の考えには触れていません。

歴史的に日本は半島をどの様に観てきたか、史料は豊富にあると推測しますが、私はまとまった文献を知りません。
この点について「こうだ」と自信をもって述べることはできませんが、Wikipadiaその他で調べて、素人なりにこういうことなのだろうと推測しています。

 

西暦700年代初頭編纂された古事記および日本書紀には、西暦200年ころ神功皇后が半島に渡り三韓(新羅、高句麗、百済ー異説あり)を討伐したと記されていて、長く(戦前まで?)史実として信じられたいたようですし(現在では史実ではないと否定されています)、古墳時代4世紀以降では、実際大和朝廷は百済と友好関係を結び、朝鮮半島の南端を支配経営していましたので、これらの伝聞が日本人に半島に対しる優越感を抱かせていたと思われます。

西暦663年百済と密接な関係にあった大和朝廷は、百済を支援する目的で参戦した白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗し、半島への関与を自重しますが、その後も日本は唐から国としての扱いを受けるも、半島は唐の属国であり日本からすると一段格下の国だという意識を持ち続けます。

下って13世紀蒙古高麗連合軍=元寇の撃退と神風神話、その後の復讐戦としての倭寇の反撃、16世紀の秀吉の朝鮮出兵等、半島に対する武力の優越が続き、半島への侮蔑感を募らせたと思われます。

 

一方の朝鮮は、確かに中国の属国に甘んじてはいるものの、中国王朝への朝貢では一流の知識人を大量に送り、中国文明を真剣に勉強したようで、中国王朝が明や清に代わっても「我こそは中華文明の真の継承者である」という自負心が強く、従って、半島=李朝からみれば、逆に日本こそが野蛮な周辺国にすぎないという、精神的優越観を持っていたと思われます。

 

しからばなぜ李氏朝鮮は日本に通信使を送ったのか。Wikipediaでは次のように書いています。本書でも同意見です。

(秀吉の朝鮮出兵で)朝鮮を手助けした明が朝鮮半島から撤退すると、日本を恐れると同時に、貿易の観点からも日本と友好関係を結びたいと考えていた。
また、北方からの脅威も日本との国交再開の理由となった。ヌルハチのもとで統一された女真族が南下してきており、文禄・慶長の役では加藤清正軍が女真族と通じる状況もあったため、女真族と日本が協力する危険も朝鮮では検討されていた。そこで日本とは国交をして、南方の脅威を減らすという判断がなされた。

すなわち、李氏朝鮮は安全保障上やむなく日本とよしみを通じておく必要があり、日本の高圧的態度を甘受せざるを得なかった。一方の江戸幕府は李朝の弱い立場を見透かして幕府の威を朝鮮はもとより国内にも示す絶好の機会として、朝鮮を見下した扱いをしたのです。

秀吉の朝鮮侵攻の戦後処理として始まった江戸時代の通信使ですが、三回目来日では家光は通信使に日光参拝を強要しています。

このイベントの内実は日朝双方の見栄の張り合いであり、表面上の友好をしかも屈辱的な朝貢の儀を演じさせられる朝鮮通信使たちは、憤懣やるかたない気持ちを抱き、その憤懣を報告書や日記に書いたものと思われます。

表面しか知らない日本の大衆は、韓流にワーワー、キャーキャーいったのでしょう。当初は儒学者も朝鮮朱子学を学ぼうと参集します。

 

やがて江戸幕府の側にこのイベントへの疑問を持つ人たちが現れます。
一因は、通信使の饗応に大金がかかる点です。通信使は400ないし500人の大所帯で、対馬から江戸までの往復で半年以上かけて通り、幕府および沿道の諸藩は最大限の対応をしますので、当時の幕府直轄領400万石の4分の1、すなわち100万石の費用が掛かったといわれています。

最初は日本の儒学者も朝鮮から学ぶところが多いと思っていたのですが、やがて硬直した朝鮮の性理学に疑問を抱き、敬遠し始めます。
また。傲慢にふるまう通信使の態度を苦々しく思う人たちもいました。
初回の朝鮮通信使から約100年経過した第八回通信使当時、幕府の最高ブレーンだった新井白石もその一人で、白石は饗応の簡素化の方針を建議します。

1764年第11回通信使(第11代将軍家治の治世)を受け入れた後、天明の大飢饉があり、老中松平定信は緊縮財政等の観点から、朝鮮通信使を簡素化することを決め、第12回通信使を対馬止めにします(これを易地聘礼ーえきちへいれいーと言います)。これが最後の使節団になりました。

 

今回、朝鮮通信使を少し勉強しましたが、このイベントが善隣友好・文化交流のようなハッピーなものではなかったと理解しました。

私は、日韓の険悪な関係は明治時代に始まったと思っていましたが、どうやらそれも間違いで、数百年来いやもしかしたら有史以来両国は不仲だったのではないかと推測しています。

世界中の隣国同士は不仲だとよく言います。隣り合う国は直接利害が衝突しますので、これもやむを得ないことかも知れません。

韓国と友好関係を結ぼうとするなら、まず歴史を徹底的に議論することが必要でしょうが、どちらがいい悪いの結論はでないのでしょうから、事実関係を認め合い、後は「過去は未来永劫水に流そう」と極めて日本的な心情を共有しない限り、善隣友好関係は構築できないと思います。

石平「朝鮮通信使の真実」

下関だったか、「朝鮮通信使まつり」を開催したとかするとか、何かで読みました。

このようなイベントでよく言われるのは:

現在日韓関係は冷え込んでいるが、
江戸時代には朝鮮から使節が来て、仲良く交友を温めていたではないか。
また、昔のように仲良くしよう。

のようなもので、善隣友好、文化交流を必ず強調しますが、私は常々「何か嘘くさい」と思っていました。

江戸時代、通信使が通る沿道には、沢山の人々がでて大騒ぎだったらしいですが、反面通信使は色々事件を起こしていたようです。「本当に友好的だったのだろうか」とずっと疑問に思っていました。

 

石平著「朝鮮通信使の真実」(WAC、2019年)がアマゾンで高評価だったので読んみました。

最初にいいたいことですが、この本は編集が悪い。
著者は中国人だから、日本語が多少おかしいところがあっても、それは編集者がカバーすべきだし、それ以上に日本語として読み難いだけでなく、論述が何か所も冗長(これは言語に関係ない)で編集者の力不足に苛立ちます。

この本を読んだついでに朝鮮通信使について少し調べてみました。
最初に「百科事典マイペディア」の「朝鮮通信使」の解説を転記しておきます。

(朝鮮通信使は)朝鮮来聘使(らいへいし)ともいう。江戸時代に将軍の代替りやその他の慶事に際し,李氏(りし)朝鮮(李朝)の国王から派遣された使節。豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)後,徳川家康は対馬の宗(そう)氏を通じて国交回復につとめ,1605年の日韓和約で国交が回復。この結果1607年から1811年まで計12回にわたって使節が来日。最初の3回は朝鮮侵略の際に日本へ拉致(らち)された朝鮮人の送還を兼ね,回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)と呼ぶ。総勢400名前後の大使節団で,沿道の大名が盛大に饗応。国内に将軍の国際的地位を示す上でも来日は重視されたが,1711年新井白石は使節の待遇を簡素化した。

さて本書は3章からなっています。

第一章 朝鮮通信使は事実上の朝貢使節だった
第二章 朝鮮知識人の哀れな「精神的勝利法」
第三章 「日本コンプレックス」の塊だった通信使たち

全200ページ足らずですから、大したボリュームではありません。

■ まず、本書では通信使は朝鮮から日本側への朝貢だったと次のような理由を挙げています。

  • 通信使は朝鮮から日本への一方通行で、日本から彼の国へは一度もいっていない。
  • 通信使が来たのは、徳川将軍が新しく就任したとき祝賀の挨拶としてきている。
  • 通信使の将軍への接見も「朝貢の拝礼」を行っている。
  • 将軍家光は家臣に求めるように、通信使に対して家康が安置されている日光東照宮の参拝を強要。通信使はしぶしぶそれに従っている。

Wikipediaその他を調べてみても、日本側(幕府)は使節団を朝貢として遇していたようです。

■ 一方朝鮮側はこの使節をどのように考えていたのか。

通信使は報告書や日記を沢山残しています。
これらを書いたのは李朝のトップクラスの官僚・教養人で、彼らはすべての行動規範を朱子学・性理学に置いていますので、これに反することはすべて非難・批判、侮蔑の対象です。

彼らが日本に対していかに酷いことをいっているか、本書の巻頭で第11回通信使であった金仁謙の言葉を引用しています。

「(日本人は)穢れた愚かな血を持つ獣人間だ」。

通信使の日本および日本人に対する記述は悪意に満ちた極端な罵詈雑言のオンパレードです。
道中の日本の風景や繁栄する街並みは淡々と、が日本の民度には激しく攻撃。
詩を書けば最低、礼儀は無礼、習慣や衣服は野蛮、食べ物は不味い。
自然にしても、日光の二荒山は朝鮮の○○山と形は似ているが大したものはないし、東照宮の配置が間違っている。富士山も言われるほどのものではない。とすべて自分の国のものを一番にしてケチをつけています。

 

私も比較的安価で入手しやすい第九回(1719年)使節団・申維翰著『海游録』(1983年、平凡社)を買って拾い読みしました。本書はソウルから対馬、下関、瀬戸内海、大阪、京都、東海道、江戸の往復の日記と、日本の風物の報告からなっています。

道中のでき事、風景については、ことさら抑揚もなく記述していますが、日本の風俗、日本人の行動については一々上から目線でイチャモンを付けています。

以前ご紹介しました、やはり江戸時代長崎の出島から江戸に参府したオランダ人医師(シュンペリーケンペルシーボルト)が淡々の書いた紀行文に比べると、いかに偏狭なものの見方をしているか、寒々しい気持ちになります。

 

こうまでして、またいったいどうして、朝鮮通信使は来日したのでしょうか。

柳成龍「懲ヒ録」3

もう一つ言いたいことがあります。

今般の安保法案に反対する人たちに対してです。

「集団的自衛権の行使は戦争に巻きこまれる危険性が増す」。
「日本は戦争をしてはいけない」。

それならどうやって自国を守るのか。

「スイスのようにすべて自力で国を守る」というのであれば、それはそれで分かります。しかし「スイスのように」とは軍事費を今の数倍にし、徴兵制を導入するということです。そこまでの覚悟をして、「スイスのように」といっているのなら議論できます。

しかし、「それも嫌」ならいったい何を考えているのか。

 

李朝は武を軽蔑し、どうでもいい儒教の論争に明け暮れていた。それは実学とは縁遠い、いわば神学論争です。

どちらが儒教の教えに沿っているかの議論、内実をいえば権力闘争の道具、何の役にも立たない机上の空論です。

それは「今の日本人の安保反対と同じだ」としか思えない。

現状では、自国を守るには自国が強くなるだけでなく、いざとなれば助けてくれる国がどれだけ多くあるかが重要です。

そのためには、お互いの信頼関係が必要です。「困ったら助けてね。君が困ったときには助けるから」という間柄でなければ、どうして他国が日本を助けるのか。

しかも今日本で議論し、しかも反対されているのは「君が困った時、しかもそれが日本に害になる場合だけ助けるよ」、という日本の勝手な言い分であり、「それでもいいよ」といってくれる国が存在する方が不思議です。「不思議」がいけなければ、特殊なケースです。この特殊がいつまでも続くと考えてはいけない。

「もちろん立場の違いや条件があるが、君が困った時には助けるから、僕が困った時には助けてね」ということ以外の協力関係はあり得ない。

安保反対を唱える人に、本当に聞きたい。

自国をどうやって守るのか。

 

[文禄・慶長の役]当時、明は他にも紛争を抱えていたので、日本と戦争したくなかった。「この戦争が明まで拡大しなければよし」と考えたのでしょう。日本が明に攻めてくれば明は本気を出すが、日本が朝鮮と戦っている間は、看過したかったのです。

朝鮮は戦争続行を主張したが、明はそれを無視して、一時講和交渉を始めたのです。

柳成龍「懲ヒ録」2

前回書きましたが、この本では戦闘の記述だけではなく、この戦争についての朝鮮側の反省点を書いているということで、私は何を書いているのか期待したのですが、結論をいえば期待外れです。

朝鮮が、なぜ日本に易々と国土を蹂躙されたのか、二度とこのようなことが起きないように、国の在り方はどうするのか、軍事をどうするのかを議論していると期待しましたが、そうではありません。

書いていることは、あの時もっと日本軍を追えばよかったとか、砲台をこの位置にすればよかったとか戦術の話だけです。

私は失望しましたが、当時としてはこれが限界だったかも知れません。

 

日本軍が何人で攻めてきたのか、何人で防戦したのか。この本には数字が殆どでてきませんので、今一つ戦闘のイメージが湧きません。おそらく、人を数える余裕すらなかったのでしょう。

朝鮮では軍(武官)の身分が低かったので、いざ戦争となったときには碌な兵士がいなかったのでしょう。

文官や搾取されていた農民がいくら出てきても、長い間、戦争に明け暮れた日本の兵士にかなう訳がありません。

朝鮮人はただただ逃げまどうだけで、柳成龍によれば、日本軍はあたり構わず、焼き払い殺戮しまくったということです。

それに、ただでさえ痩せた土地、戦乱で荒廃した農地から碌な収穫もありません。餓死した人も沢山いたようです。

Wikipediaでみると、半島に渡った日本人兵士(約20万人?)の3分の1程度が死亡しているようですが、大半は、戦闘ではなく病気や飢えや寒さで死んだということです。これから類推しても半島の悲惨さは目を覆うばかりだったのだろうと想像します。

本書注には、日本軍が戦利品として朝鮮人の鼻と耳をそいで持ち帰った、その数3万にのぼると書いています。また、捕虜として連れ帰った朝鮮人は日本で労働力として使役されたり、奴隷として売られたとも書いています。非道な話です。

しかし、この話も更に検証しなければいけないと思います。

連れ帰った韓国人をどのように処遇したのか(一部が陶工になったのは有名な話です)。奴隷として売ったというが、どこに売ったのか、書いてないし、私は知りません。

秀吉の時代に、外国で日本人が奴隷として使われていた。それを怒って、秀吉はキリスト教を弾圧し、ポルトガルを締め出したという話を読んだことがあります。

それに似たような話だったのでしょうか。

また、当時の少なくとも東アジアの国々はこのような残酷さは、特別なことではなかったのではないか。著書の中でも、韓国の兵が作戦に失敗したり、不信を持たれると、情け容赦なく斬殺されたと書いています。

13世紀の元寇は壱岐対馬で日本人を虐殺し、沢山の婦女子を拉致・連行しています。

今思えば、これらはすべて非情、非道ですが、食うか食われるかの世であれば、単純に一方を非難できないように思います。

先の大戦でさえ、残忍なことはあったのです。日本のことではありません。どこにもあったのです。(下を、クリックしてください)

「米軍兵による日本軍戦死者の遺体の切断」
「連合軍による戦争犯罪 (第二次世界大戦)」

朝鮮人の連行について、私には分からないことがあります。日本は多くの朝鮮人を連行したのですが、後年、捕虜の返還交渉になったときに、帰国を希望した朝鮮人は極少人数だったということです。

日本人が半島で殺戮しまくったという話とどう整合すればいいのか、私にはわかりません。

一事だけを見て、善悪を判断するのに躊躇します。

 

ふと、昔読んだサルトルの戯曲「悪魔と神」を思い出しました。Wikipediaに出ていますので、興味がある方はこちらを参照してください。

中世に実在した騎士をモデルにした戯曲です。

残虐非道な騎士ゲッツは、あるとき僧と賭けをし、負けた罰として善政を行います。しかし、彼が実行しようとした善政は、期待した方向にはいかず、次々に悲惨・残虐を招きます。

サルトルは、「神とは」、「善とは」、「悪とは」を問いかけます。

柳成龍「懲ヒ録」

以前このブログでも書きましたが、私は戦前京城(現ソウル)で生まれたにも関わらず韓国には無関心で、韓国は好きでも嫌いでもない、どちらかというと関わりたくないという対象でしたが、
このとことあまりにも韓国問題で騒々しいので、韓国はいったいどういうところなのか、
否応なしに関心を持つことになり、
最近になって、本を読んだりWEBで韓国人の発言を読んだりしていますが、
得られた感想は、「韓国人は論理的ではなく、感情的で、何が何でも自分が正しいと言い張る人達だ」というものです。

しかし、それでも私が知っているのはごく一部の韓国人であり、それがすべてではないのは当然なので、
色々な韓国人の考えを知りたいと常々思っていましたが、
その一つが秀吉の朝鮮出兵当時、李朝の官僚であった人物が、戦後、韓国側の欠点を分析してい書いたという「懲ヒ録」を読んでみたいということでした。

市の図書館にあったので早速読んでみました。

 

16世紀、秀吉が朝鮮に出兵(韓国は「壬辰の倭乱」といっています)したとき、
柳成龍は李朝の高級官僚で、戦争に全力で対峙した人物であり、
退官後に「壬申の倭乱」の惨敗を冷静に分析して、二度と同じ失敗を繰り返してはいけないという思いから書いたということです。

「懲毖録」とは、「詩経」の言葉を借りたもので、「われ、それ懲りて、後の患を毖(つつしむ)」(傷むところがあって戒めを知り、後の患いを用心しよう)という意味だそうです。

今回読んだのは、1979年発行、平凡社・東洋文庫朴鐘鳴の訳本です。

この本は原本の全訳ではありません。訳されていない部分がどうなっているのか、知りたいところですが、この本でその部分の解説にもないし、Wikpediaでみてもよくわかりません。

この本は73の小節からなっていますが、全体の3分の1はあろうかという、訳者の詳細な注がついています。

このうち、63節は「壬辰の倭乱」の発生から李舜臣の死までの戦闘の事実関係の記述、
後の10節が李朝側に立った筆者の反省点の記述です。

戦闘の経緯の大半は、著者が直接・間接に関与した部分です。
すなわち、半島に渡った日本軍は8軍だったようですが、
半島の奥深く攻め入ったのは、小西行長軍と加藤清正軍ですので、日本軍との交戦の記述は両軍との話が大半です。

 

秀吉から「日本は明に侵攻するから、朝鮮は道を開けろ」のような書状が届きますが、
明の属国であった李朝は、そのようなことができる訳もなく、
また、日本と交渉することが明に知られることさえも恐れたので、秀吉の書状を無視します。

秀吉は再三書状を送りますが、すべて無視され怒り、最後通告をし釜山から李朝の攻撃を始めます。
1592年4月7日のことです。

それでも李朝では、当初「嘘だろう」くらいにしか考えていなかったようで、
あっという間に日本軍は北上してきて、朝鮮側はなす術もなく、上から下まで慌てふためいて、逃げまどいます。
日本軍は4月7日釜山上陸後、京城(ソウル)を経て5月3日には開城を、さらに6月4日には平城も占拠します。
朝鮮国王は明との国境の義州まで逃げます。

ここでやっと頼みの明の援軍が登場し、その後の戦闘は、さながら日本軍と明軍との戦いになっています。
やがて両軍膠着状態になり、日本と明は講和交渉に入り(1593年4月)、朝鮮は講和に反対しますが、
明はこれ以上朝鮮を支援する義務はないと朝鮮を突き放します。

交渉の当事者は、それぞれ納得いく条件で合意しようとしますが、
その条件をそのまま本国(明と秀吉)が承諾する筈もないと分かっていますので、本国をごまかそうとします。

中国の外交官沈惟敬は、秀吉には明が降伏したと、明には秀吉が降伏したという使者をおくりますが、
このような嘘が通用するはずがありません。

交渉は決裂、秀吉は攻撃を再開します(1597年)。
日本軍は善戦しますが、1599年8月秀吉が死去、五大老は極秘裏に戦線の撤退を決めます。

本書の全体を通し、李朝の右往左往が手に取るように分かります。
朝令暮改、ある将軍を斬首せよといったりやめろといったり、これでは戦争にならないだろう、と思います。

李舜臣は一時死罪取り敢えず投獄から、
対抗将軍の死去を機に返り咲き、海上戦を指揮し善戦しますが、終戦を目前にして戦死します。

著者はよほど李舜臣を信頼していたと見えて、戦闘に関する63節のうち7節を使って、李舜臣を惜しんでいます。

李舜臣(イ・スンシン)は韓国の英雄です。

 

この話は、今の私たちに多くの問題を提起します。