吉川英治「親書太閤記」4

1560年当時の戦国武将の勢力図を頭に入れましょう。
WEBで見つけた勢力図を表示します。当然著作権があるのですが、どのように了解をとればいいのかわからないので、無断で使わせていただきます。

織田信長が活躍を始めたとき、尾張(名古屋)の北・美濃(岐阜)に斎藤道三、その西隣に浅井長政、北に接して朝倉義景、尾張の東には今川義元、更に東に北条氏康、甲斐(甲府)には武田信玄、その北に上杉謙信(長尾景虎)がいましたし、さらにその先には伊達が勢力をはっており、西に目を転じれば、中国に毛利、山陰に尼子、四国に長宗我部、九州に大友、竜造寺、島津がそれぞれに戦国の世を戦っていました。

尾張のすぐ東・三河(岡崎)は松平の領地ですが、今川の属国であり、幼い家康は今川に人質に出されていました。

 

信長は若くして父信秀から那古野城を譲られ、また美濃の斎藤道三の娘・濃姫と結婚したことで、織田家の後継者と目されていましたが、1552年信秀が死去すると、織田家に家督問題が持ち上がります。

秀吉が信長家臣の末端に加えてもらった1555年時点では、信長は尾張さえも統一しておらず、国内の反信長勢力を討伐し尾張を平定するのに1559年まで時間がかかりました(結果、那古野城から清州城に転居します)。

東の大国今川が上洛するには、西に接する織田を真っ先に討伐しなければいけません。
1560年今川義元は大軍を率いて西進します。今川の軍勢は数万、信長の軍勢は数千といわています。
信長は出陣に際して、幸若舞『敦盛』を舞い、熱田神宮に戦勝祈願をし、豪雨の中を東進、桶狭間で今川を急襲し義元の首を取ります。世にいう桶狭間の戦いです。

「敦盛」に次の一節があって、信長が大変好んだということです。またこのブログのタイトルもこれを使っています。今私も年老いて同じ心境をしています。

「人間50年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり、一度生を受け滅せぬもののあるべきか…」

義元の戦死で今川が弱体化すると、家康は自身人質を解いて岡崎に帰り、今川との縁を切り、信長と同盟を結びます。信長としてみれば、東の守りを家康に任せ、いよいよ目を西にむけます。

岐阜・美濃では、斎藤家が骨肉の争いをしていて、遂に息子義龍は父道三を殺します(1556年)。信長にしてみれば道三は義父にあたり、信長は道三の仇を討つという名分を得て、美濃攻めを試みます。
しかし、道三が築いた稲葉山城は堅固で攻めきれず、その間、義龍は死に息子の竜興が跡を継ぎましたので、今度は竜興との戦闘になります。

 

秀吉は、信長に仕えて以来、どんな仕事でも全力で知恵を絞って働きますので、信長に重宝され、小者から始まって、清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して勤め、足軽大将へと出世していきます。

これまで裏方の仕事を中心にしていた秀吉は、美濃・竜興攻略で大きな功績を上げ、表舞台に登場します。
一つは有名な墨俣の一夜城の構築です。
信長は美濃攻略の拠点として、長良川岸に砦の建設を計画、その構築を秀吉に命じます。秀吉は、敵の妨害にあいながら、一夜にして(本当は数日)この橋頭保を築き、その後の作戦を有利に導きます。
また美濃方の重臣を調略、更に蜂須賀小六達少人数で城の手薄のところから侵入、稲葉山城を奪取、竜興を敗走させます。信長は稲荷山城を岐阜城と改め、岐阜城に転居します(1567年)。
このとき、北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化、そのために信長は妹・お市を長政に嫁がせます。

 

当時、室町足利幕府は末期的状態で、1565年第13代将軍義輝は松永久秀等によって殺害され、仏門にいた弟・覚慶(後の義昭)にも危険が迫り逃走、各地を転々とした末、越前の朝倉に身を寄せていました。その間義昭は各地の有力大名に檄を飛ばしますが、彼らは義昭擁立の気持ちはあるものの、実際の行動を起こすほどの余裕はありません。

ただ一人、信長は義昭を岐阜城に迎え、上洛に動きます。小説ではこのとき信長と義昭を仲介したのは、同じく美濃を追われ流浪の末越前(福井)・朝倉の家臣になっていた明智光秀だったということです。
1568年信長は義昭を奉じ、近隣の武将を討伐しながら、念願の上洛を果たします。

しかし、これは信長政権の成立を意味しません。信長を取り巻くすべての周辺諸国はこの時をもって一斉に敵になり、これらを力でねじ伏せていかねばならないスタートに立ったということです。

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