吉川英治「親書太閤記」5

その後の信長の軌跡は歴史の教科書に書かれていますので、ここではざっとおさらいします。(但し、歴史的事実はそんなに単純なことではなく、日に日に敵味方が入れ替わって、入り乱れた戦闘が続いたようです。)

 

信長は足利義昭を奉じて、岐阜から京都まで反対勢力を討伐しながら遂に入京(1568年)、休む間もなくそのまま大阪まで侵攻し、畿内を支配、境を直轄にします。
更にとって返して、反抗する越前(福井)朝倉を攻めますが、信長の妹お市の方を妻にする浅井長政の離反にあって一度は敗走する(金ヶ崎の退口)ものの、態勢を整え、姉川の戦い(70年)で浅井・朝倉連合軍に勝利。
朝倉が延暦寺と連合すると、71年信長はあろうことか比叡山の大焼き討ちを決行、遂には朝倉・浅井を壊滅します(73年)。

また、信長は本願寺、能登、伊勢等での一揆にも情け容赦のない弾圧を決行、滅亡させます。

72年には武田信玄が西上してきて、三方ヶ原で織田・徳川の連合軍を破りますが、翌年信玄が突然死去、退却します。(家康は66年松平から徳川に改姓)

一方の歴史の主役、将軍義昭はその間どのような動きをしたのか。

義昭は、68年信長の力を借りてようやく上京し第15代将軍の座に座るが、やがて武力で天下統一を目指す信長とは相いれないことが明白になります。

義昭は信長包囲網を構築すべく各地の大名に呼びかけるがことごとく失敗。
信玄が死に、謙信や他の大名も中央に打って出る力がなく、義昭自身も戦闘を指揮しますが、浅井・朝倉が滅亡すると、もはや義昭の望みは断念せざるを得なくなり、73年義昭は信長に京都を追放され毛利に身を寄せることになります。ここに足利幕府が終焉します。

 

78年、信長は信玄の後を継いだ武田勝頼との戦いで、鉄砲の威力を存分に発揮し長篠で勝利し、さらに82年には、織田・徳川連合軍が甲州に攻め入り、勝頼を天目山に追い自決させ、ここに武田家は滅亡します。(上杉謙信は78年病没します。)

 

明智光秀は、足利義昭を信長に取り次いだり、信長に仕えてから多くに業績をあげ、信長重臣として重く用いられますが、一方で信長と肌が合わず、小説では武田攻めの際、言葉の行き違いから信長の怒りを買い、多くの武将の面前で罵倒され、直後の本能寺の変の伏線になります。

武田を壊滅した信長は家康には関東平定を任せ、秀吉からの要請もあり、自身で中国の平定にかかります。
武田戦が一段落した同82年5月下旬、家康は武田戦での論功行賞として信長から駿河を拝領した礼として安土城にやってきます。

このとき光秀は信長から家康接待の責任者に任じられますが、接待の仕方で信長の怒をかい(小説では、信長が調理場を視察すると、用意した魚介が悪臭を放っていたということです)、接待役を解除され、直ちに毛利と対峙する秀吉の援軍に出兵することを命じられます。

その数日後、家康は京都で天皇に拝謁、大阪・境の見物に出立し、信長は秀吉援護のため西に向かうべく途中少人数の護衛だけで本能寺に宿をとります。

 

光秀が家康接待の不手際を叱責された話は、新書太閤記第7巻の30%程度読み進んだところに出てきます。
光秀が悩んだ末に信長を討つ覚悟を決め、家臣と相談し決行する82年6月2日までの話は当巻の半分以上を使って細々と書いています。

そこからがやっと秀吉中心の話になっていきます。

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