倉山満「ウェストファリア体制」

歴史を勉強していると、「人間はなんと沢山の争いをしたのだろう」と嘆息します。

日本列島でも古事記や日本書紀の神話の時代から先の大戦まで(江戸時代は比較的平穏な時代でしたが)沢山の戦闘が続いていますし、西欧では日本以上に激しい殺戮の歴史が続いたといいます。

 

アマゾンで評判だったので、倉山満著「ウェストファリア体制」(2019年、PHP新書)を読みましたが、議論が扇動的で雑駁なので、一度この本から離れて1648年のウェストファリア条約に至る、ヨーロッパの歴史をざっとまとめてみます。(この機会に世界史を少し勉強しました)

 

 

 

 

 

キリスト教はローマ帝国支配下のエルサレムで興り、迫害を受けながら遂にはローマ帝国に認められ国教になるのが西暦392年。
しかしこのころには広大な地域を支配していたローマ帝国の求心力は衰え、遂に395年ローマ帝国は東西に分裂します(以下の図はWEBから採取したものです。無断で借用しています)。

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では皇帝がキリスト教・ギリシャ正教会の首長を兼ねますが、一方の西ローマ帝国は小国に分断、群雄割拠しますので、ローマカトリック教会は後ろ盾を求めて沢山の苦労をします。

4世紀後半、西ローマ帝国の北東で暮らしていたゲルマン人が、東方の匈奴の一族・フン族に圧迫され、西ローマ帝国内になだれ込み沢山のゲルマン国家を建設、476年西ローマ帝国は滅亡します。

やがて、これら小国の中からフランク王国が勢力を伸ばし、フランク王国カール大帝は分断された西ヨーロッパを統一し、ローマ教皇からローマ皇帝の冠をうけます(800年)。が、再度東フランク、西フランク、中部フランクに分裂。その後も沢山の紆余曲折があるものの、結局現在のドイツ、フランス、イタリアの輪郭を形成します。

870年東フランク・オットー一世は、東から押し寄せる外敵を撃退し、ローマカトリック教会の後ろ盾になり、ローマ教皇からローマ皇帝の冠をいただき、ここに神聖ローマ帝国が誕生します。

 

ローマカトリックは自力で武力を持たない分、権力の維持に苦労しますが、キリスト教の総本山としての価値を最大限に利用し、西ヨーロッパでの勢力を維持し続けます。

おおざっぱに言えば、中世ヨーロッパの政治形態はいわゆる封建制で、諸侯(日本の戦国大名に近い)は王から土地を安堵されるかわりに兵役の義務を負っています。王は特別強力な権力を有するわけではなく、諸侯から選ばれた諸侯の代表者という立場が普通です(王を選ぶ権限のある諸侯を選帝侯といいます)。

ローマカトリックは諸侯の中に教会を建設し、教会は諸侯から保護されると同時に農民(農奴)を精神的に支配しています。これによってローマカトリック教会は諸侯への発言力を維持しています。

 

ローマカトリック教会の絶頂期、ローマ教皇はイスラム王朝に占領されていた「聖地エルサレムを奪回する」と称し、11世紀から200年間に亘って十字軍を繰り出しますが、結局大した成果を上げることなく十字軍が収束すると、諸侯は疲弊しローマ教会の権威が失墜します。
下って、14世紀から始まるルネサンスで科学技術が発展し、また大航海時代には世界規模での新発見が続くと、キリスト教の教えに疑問が持たれ、ギリシャや初期ローマ時代の文明や原始キリスト教への回帰の機運が高まります。

16世紀になると、いよいよローマカトリックへの批判が本格化し、ドイツのルターはラテン語の新約聖書をドイツ語に訳し、発明間もない印刷機で大量に印刷配布。聖書の精神に返れと叫び、ローマカトリックから破門されますが、スイスのカルバンもルターに同調。ローマカトリックへの批判=新教への流れは止まらず、新教はプロテスタント、ピューリタン、ユグノー等に名前を変えて、各地に根強く伝播していきます。

カトリック教を国教とする神聖ローマ帝国(ドイツ)に新教が萌芽すると、少数派の新教は激しく弾圧され(1618年、ベーメンの反乱)、これに新教を国教とするデンマークとスエーデンが介入、さらに伝統的にドイツと不仲であったフランスが自身カトリックを国教とするにも関わらすドイツに介入、戦乱が続きます。30年戦争です。

 

この30年戦争での終結条約がウェストファリア条約で、これについて本書は書いています。

 

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