下向井龍彦「武士の成長と院政」3

平忠常の乱

将門の叔父・平良文は「将門の乱」に介入せず、村岡五郎と名乗り、下総国相馬郡(現在の茨城県常総市から千葉県柏市あたり)を本拠に関東での勢力を伸ばしていました。

忠常は良文の孫で、上総国、下総国、常陸国の広大な領地を父祖から受け継いでいましたが、行動は傍若無人、国司の命に服さず納税の義務も果たさない態度を示していました。

将門の乱から1世紀近く経った1028年、平忠常は騒乱を起こします。受領との軋轢が原因とみられますが、当時東国は荒廃していて、在地の役人や領主はそれぞれ苦労していたので、彼らの中には忠常に心情的に味方するものもいました。

そのような状態で騒乱は続き、政府は甲斐守源頼信を追捕使に任じ、頼長は忠常を説得して、1030年無血でこの乱を収束します。

忠常を無血投降させたということは、頼信がすでに東国武士の信頼を得ていたことを意味し、更に、今回の働きにより、頼信は東国武士からより以上の信頼を勝ち取ることになります。

頼信は、この乱の褒賞として美濃の国を希望します。美濃は重要な意味があります。美濃は東国と京を結ぶ中間点であり、頼信はここで、東国武士との交流の基盤を得たことになります。

そもそも源頼信とは何者。

西暦939年、武蔵の国でいざこざがあって、将門が仲裁に入りました。
将門が凶族と断じられる前の話です。このとき勘違いして、京に逃げ帰り、「将門謀叛」と朝廷に知らせたのが源経基。「謀叛」と知らせたものは、それが本当かどうか分かるまで、軟禁されるのが当時の掟でしたので、規則にしたがって経基も軟禁されます。

ところが彼にとっては幸運なことに、その後本当に乱に発展してしまい、乱終了後に、経基は「緊急に事態を報告した」として褒賞を受けます。

その息子・満仲は都で乱暴狼藉に明け暮れる暴力団の親分、入間田宣夫によれば「この人は殺生の罪人であった」。

しかし、同時に公卿には都合のよい用心棒でもありましたので、満仲は公卿に重宝され、おかげで、武蔵国・摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍にもつき、莫大な富を得ます。晩年は、息子の源信僧都の説教に感じ入り出家します。

頼信はその嫡男、「若親分」といったところでしょうか。

その彼が忠常の乱を平定しました。

前九年の役

さて、前回書きましたが、東北の支配は「政治的妥結」をした状態でした。

今の衣川・平泉の北に陸奥6郡、その西・日本海側に出羽4郡があり、それぞれ蝦夷(えみし)の支配はそのままに、それを監視するための鎮守府を置いていました。

ここは金・馬・毛皮・鷹などの産地で、中央の貴族や豪商は争って買い求めたので、ここを支配していた蝦夷の長・安倍、清原両氏は、強力な力をもっていました。

力を自負する彼らは、中央政府の指示を度々無視して勝手な行動をするので、政府はここをなんとか屈服させたいと思っていました。

1051年、国は相模守であった頼信の子頼義を陸奥守に抜擢し、鎮守府将軍を兼務させます。安倍氏は問題を起こさないよう気を配り、頼義は無事に任期を終えようとしていました(1055年)。

頼義は受領職の旨みを手放すことを惜しみ、なんとか職を重任したいと思います。
頼義が帰還の途についたとき、ちょっとした事件が起こり、これを口実に、頼義は朝廷から追討宣旨(追討許可証)を得て、安倍氏との間で戦闘を起こします。(著者はこれは頼義の陰謀だと考えています)

頼義は追討宣旨を旗印に、坂東武士に参集を呼びかけます。著者によれば「坂東武士たちはチャンス到来とばかり、『雲のごとく集まり雨のごとく来た』」ということです。

しかし、安倍氏は激しく抵抗し戦闘に決着がつかず、このどさくさで頼義は重任を手に入れ、戦闘を続けますがそれでも決着がつかず、またも任期を終えようとします。

危機感をもった頼義は、あろうことか出羽の蝦夷の長・清原氏にへりくだって頼み込みます。それを受けた清原が主力を担い、安倍と戦います。

著者はいいます。
「戦争の性格も、謀反追討を名目にした清原氏による安倍氏打倒と奥6郡の乗っ取りに変わっていった」。

そして清原の力によって安倍は滅亡し、朝廷は頼義郎党に十分な褒賞を与え、清原氏を鎮守府将軍に任じ、清原氏は東北全域を支配下に置くことになります。

これを前九年の役といいます。

源経基(将門の乱) - 満仲 - 頼信(忠常の乱) - 頼義(前九年の役) - 義家(後三年の役)

後三年の役

1080年代に入って前九年の役の勝者清原氏に内紛が発生します。

1083年頼義の子・義家が陸奥守として着任、義家は度々清原を挑発しますが清原は我慢し、大事なく1086年帰任しようとしていました。任終年、義家は清原兄弟の仲違いを誘発、兄清原家衡は弟清衡を襲撃、義家は家衡討伐の許可証を国に求めますが、政府(白河院)は源氏の肥大化を警戒して追討官符を出しません。

それだけでなく、政府は義家を止めようと官使を送りますが、義家は無視し家衡攻撃を仕掛けます。

かつて父頼義のもとにはせ参じた東国武士団は、再度義家のもとに集結します。

清原家衛はよく戦い、金沢柵(現在の秋田県横手市?)にこもります。

柵の中から、「頼義は清原に加勢をお願いしやっと安倍を討伐できた。今その恩を仇で返すのか」と義家を罵ります。

これに怒った義家は兵糧攻めにし、清原は投降したにも係わらず、家々を焼き尽くし、抵抗する力もない兵士や女子供を虐殺したということです。

これを後三年の役といいます。

この戦いの結果はどうなったか。
政府からは正式討伐許可を得ていないので、私合戦とみなされ褒章はでません。
それだけでなく、陸奥からの帰任にあたって納めなければいけない収穫を未納することになり、義家は財政的には窮地に陥りますが、その一方で坂東武士の結束を強める結果になります。

東北の地は義家ではなく、清原清衡が陸奥出羽押領使に任命され、奥羽全域の軍事的支配者になり、「俘囚の主」の地位につきます。

清原清衡は、前九年の役で滅ぼさされた安倍の末裔を母に、同じく前九年の役で殺害された藤原経清(藤原秀郷の子孫)を父に持ちます。後、父方の姓藤原を名乗り、東北で栄華を誇った藤原3代の基盤を築きます。

そしてそれから100年後の1189年、奥州藤原氏は頼朝に滅亡させられます。

 

東北戦争は、従来の乱と違うと筆者は強調します。
従来の戦争は国内での反乱だが、前九年の役、後三年の役は中央による侵略戦争だと。

 

そして歴史的に重要なことは、この三つの大きな合戦で、源氏が東国武士と共に戦い、戦いのなかで結束を強め、東国武士の棟梁の地位を確立したということです。

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