「中世ヨーロッパの騎士」 2

中世の騎士は、ローマ帝国の騎士の延長ではなく、10世紀ころ新たに現れたというのが専門家の共通した認識ですが、いつ、どこで、どのように出現したかは、学問的になかなか難しい問題ということです。

 

ところで10世紀ころのヨーロッパはどのような状態だったか。おさらいしておきましょう。
4世紀後半、ローマ帝国は東西に分裂、直後東からゲルマン民族が西ローマ帝国に侵入、以後数世紀に亘って西ローマ帝国は混乱しますが、9世紀には東フランク、西フランク、中部フランク王国が成立、東フランクがローマ教会の後押しにより神聖ローマ帝国を名乗ります。
しかし、その後も東ローマ帝国を含めてヨーロッパ全体は内部抗争を繰り返すと同時に、北からはバイキング、南からはイスラムによって継続的に侵入を受けています。

混乱の中で守る側の王侯は、なんとか団結しなければいけません。

王は家臣との団結で、いわゆる封建制度ー王が家臣からの忠誠・軍事的奉仕と引き換えに、封土を与えるーを採用するようになり、これに平衡して、子孫への財産分与の方式が変化してきます。従来家の財産は子供達が分散して相続していましたが、これでは家の力が分散します。家長が独りで相続して財産を分散させないようになりました。しかし、これには時間がたっぷりかかりました。

封建制と家長への集中的財産分与も国によって大分ことなるようで、13世紀封建制が成熟した時期には、
北フランス、ドイツ、イングランドでは私有財産地はなくなりますが、
南フランスやスペインでは完全私有地が主要な土地保有形態のまま残りました。

 

ヨーロッパの混乱の時期に、鉄の鎧をまとい馬にまたがった騎士が登場しますが、彼らはいったいどんな人たちだったか。

「10世紀の生身の騎士は、上品な円卓の騎士とは殆ど共通点がない。10世紀の騎士は無知、無筆、言葉遣いもするまいも粗野。
主な収入源は暴力だった。彼らを制御するはずの公共の正義は事実上、消滅していた。
民事の紛争であろうと刑事犯罪であろうと、力を失った王たちに裁きを期待することはできず、すべては剣で決着がつけられた。
丸腰の教会と農民は、被害者や傍観者に甘んじるほかなかった。」

騎士の目的の一つはできるだけ高貴な人を人質にし、身代金を得ることが主要な戦利品でしたので、人質として役に立たない敵は殺害するのは当然のルールだったようです。また、騎士の武装(鎧兜や馬)や従者を従えるには、結構お金がかかる商売だったようで、簡単に騎士になれるわけではありません。

この無秩序の蔓延に何とかしなければと動いたのは、ローマ教会でした。

989年、ローマ教会は「神の平和」の名のもとに、「教会を冒涜したり、農夫やその他の弱者に暴力をふるったものに精神的刑罰を与える」と次のような宣言をします。

(1)教会に侵入したり、教会から何かを強奪しないこと。違反すれば破門。
(2)農民やその他貧者から雄牛、雌牛、驢馬、山羊、豚などを掠奪してはならない。賠償しなければ破門。
(3)武器を携帯せずに歩いている聖職者や家に住んでいる聖職者を襲ったり傷つけたりした者は、その聖職者の方が罪を犯しているのでなければ、贖罪しないかぎり、「神の神聖な教区から追放されねばならない」。

更に1030~50年代にかけて、「神の休戦」の名のもとに、一週間のうち水曜から月曜までの四日間及び祝祭日での戦闘を禁じることを騎士たちに誓約させました。

これらの規則・あるいは誓いが直ちに騎士たちに遵守されたわけではないのですが、しかし徐々にしかも確実に騎士の行動を規制していきました。

教会は更に世俗権力=騎士に圧力をかけます。その一つが騎士の叙任を教会が行うとしたことです。
これによって、騎士は「キリストの兵士」になっていきます。

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