呉座勇一 「応仁の乱」

2,3年前に、呉座勇一著「応仁の乱」(2017年、中央公論社)がアマゾンで高評価だったので、私も買ったのですが、そのまま積読していて、先日ようやく読了しました。

読み始めると、地名、人名、年号がやたらに沢山出てきて、主だった固有名詞だけでも、とてもじゃないが記憶できなくて、何度も何度もページを遡る始末です。専門的論文なら当然「あり」なのでしょうが、一般向けの教養書としては、「どうなのかね」と思います。

多分私はこの本の真の価値を理解していないのだと思いますが…

 

応仁の乱は足利将軍義政の治世に、将軍家および幕府重臣のお家騒動が、連鎖反応を起こし、
10年以上京都の町を騒乱に巻き込み、焦土と化し、
その間打つ手のない将軍義政は、政治に本腰を入れることなく、
「わび」だ「さび」だと風流を決めこみ、連日の歌会や飲み会に庶民を苦しめたと理解しています。

 

さて、本書ですが、本書が従来の説と大きくは異なったことを書いてはいないと思いますが、新規なのは応仁の乱を奈良、興福寺の視点から考察している点だと思います。

WEBから借用

関西在住で奈良に親しい人は良く知っているのでしょうが、一般には興福寺がどこにあるか知らない人も多いと思います。
興福寺はJR奈良駅から東に向かって東大寺方向に進むと、その途中右手にあります。
私たちにとって、奈良といえば東大寺ですが、平安から室町時代に至るまで、興福寺は東大寺よりも大きな権力をもっていたようです。

興福寺は最初藤原家の氏寺として整備されますが、720年官寺に列せられ、国家的法会が行われるようになると、
藤原家の氏寺であると同時に時の政権からも重要視されます。

西暦1000年頃摂関家・藤原家は絶頂期にありましたが、下って1086年白河上皇が院政を始めると、藤原家の地位が低下。
藤原家は危機感を持ち、興福寺との関係を強めていき、興福寺のトップ=別当には藤原家の嫡流の子息を送り込みます。更に上皇が官寺である興福寺の人事権にまで関与するようになると、興福寺は反発し、軍事力を強め、必然的に興福寺の僧兵が台頭してきて、興福寺の外の動きにも関与し始めます。一例としては保元・平治の乱や清盛のクーデターにも一定の影響力を持ったようです。

このように強い力を持った興福寺は戦国時代に至るまで、大和国の実質的な守護になっていました。

 

興福寺には100を超す院家(いんげ)や坊舎(ぼうしゃ)があったようですが、
この中で一乗院と大乗院が門跡(もんぜき)といわれ最も格式が高く、その他の殆どの院坊はいずれかの門跡の傘下に入りましたので、ここを征する者は傘下の寺院およびその荘園財産を支配することになります。

私は、寺院の構成を知りません。
興福寺には、支流のような寺院=子院が沢山あるということなのでしょうか。

藤原家は鎌倉時代には五摂家といわれる五つの流に分裂しますが、そのうち近衛家は一乗院を九条家は大乗院に子弟を送り込み院主の座を確保、棲み分けが成立しますが、今度は興福寺トップの座を争って一乗院と大乗院が武力衝突を繰り広げます。

 

興福寺が抱える沢山の僧兵は興福寺を中心に大和地方に分散して、党を組んで生活していました。
本書では、これらの党派が何年何月何日にどのような衝突を起こしたかと、事細かく書いていますが、私にはとてもじゃないが追いきれません。ともかく、興福寺は内部的に軋轢の構造を持ち、将軍家=幕府に影響を与えたと同時に将軍家=幕府の介在をもろに受けていたと理解します。

 

九条家経覚(きょうがく)は、1411年大乗々院主、1426年興福寺別当に就任。経覚は積極的な性格だったらしく、大和および幕府への働きかけを沢山しています。将軍義政に重きを置かれたり、怒りを買ったり、人生波乱万丈であったようですが、1441年一条兼良の息子尋尊が興福寺の別当につき、九条家の命脈はつきたようです。この本では、経覚の言動には沢山のページを使っていますが、尋尊については多くを語っていません。尋尊は慎重で几帳面な人だったようです。

この経覚と尋尊は詳細な日記(経覚は「経覚私要鈔」、尋尊は「大乗院寺社雑事記」)を残していて、本書は多くを二人の日記から即ち彼らの目から見た応仁の乱を書いています。

 

確かに、興福寺は応仁の乱にも影響したのでしょうが、それをどれだけ重視しなければいかないのか。東国や中四国の国々、九州の国々からの影響に比べてどれほどのことであってのか、よく理解できませんでした。

本書を読んで一つ印象に残ったのは、興福寺が強力な力を持ち、この地方での騒乱の張本人であったことが、結局他国からの侵略を食い止めた、従って奈良は京都のような荒廃を免れたということです。

 

 

error: コピーできません !!