月別アーカイブ: 2014年07月

3 posts

お休み

毎日、たくさんの人にこのブログを覗いていただいています。

最近、しなければいけない仕事があって、ブログが進みません。
少しお休みをいただきます。

9月からまたブログを再開したいと思います。
9月になったら、また覗いて見てください。

ピーター・ドース他「帝国という幻想」

日本は「大東亜共栄圏」をどのようなものと考え、どうしたかったのか知りたいと思い、
ピーター・ドース他「帝国という幻想」(1988年 青木書店)を読んでいます。
話が重くなかなか先に進みません。

この本は日米の専門家による共著で、
大東亜共栄圏構想のなかで、
朝鮮や満州や中国等をどのように位置づけたのか、位置づけようとしたのかについて書いています。

全7章からなっていて、次のように章立てなっています。

朝鮮観の形成
東亜同文書院とキリスト教ミッションスクール
引き裂かれたアイデンティティ
ミクロネシアにおける日本の同化政策
植民帝国・日本の構成と満州国
東亜聡盟運動
東条英機と「南方共栄圏」

序章「想像の帝国」(ピーター・ドース):

日本が開国した当時、ヨーロッパはダーウィンのいう「適者生存」の「科学的知見」からして、
弱者を支配するのは自然の節理であると、自分たちの世界戦略=帝国主義を正当化しました。

日本は開国にあたっても、また開国以降も西欧に対する被害者意識が後々まで続きます。

アメリカの歴史学者はアメリカの右翼の政治活動を「[パラノイド・スタイル]と名付けました。

ここでいう[パラノイド・スタイル]はありもしないことを妄想するのではなく、
「事件を陳述する際、ある特定の点に関して常になされる想像上の奇妙な飛躍」と定義しています。
(日本を論ずるときわざわざこのような言葉を使うこともないと思いますが。)

日本は開国後の不平等条約についても、
(ドウスは書いていませんが、
日露戦争でロシアから権益を移譲された遼東半島のを3国干渉で放棄せざるを得なかったことについても、)
第一次大戦後関東軍の満州侵攻に対する西欧の横やりも、
被害者意識をつのらせますが、これらはすべて[パラノイド・スタイル]の概念で説明できるといっています。

1937年盧溝橋事件が発生し、日本は日中戦争に突入しますが、
これに西欧は反発し、日本への圧力を強めていきます。

日本は西欧からの圧力に比例して、独自の帝国の概念の構築しようとします。
その本質は西欧に植民地支配されたアジアに国々との共同を前面にだしすことです。

言葉は、東亜共同体、東亜連邦、東亜民族、東亜新秩序、
そして最後には大東亜共栄圏と変化しますが、
「日本の帝国」ではなくあくまでも「アジアの共同体」を謳います。

アジアは西洋とは異なる東洋の仲間の国は同じ文化を持つべきだと、
まず、台湾と朝鮮の「同化」を試みます。

しかし、日本が満州の実権をにぎると同化思想には無理があり、
むしろ独立を認め独立国との連盟という考えに舵を切ります。

第一次世界大戦後の西欧の考えでは、
「植民地は植民される側に利するような支配がなされるべき」という考えが力を持ち、
この延長としてこの信託統治とか委任統治といわれる統治が正当化されますますが、
その実態は、「先進国」が後進国の「後見」をするのだという論理になります。

1941年太平洋戦争が勃発し、日本が領土を東南アジアに広げると、
問題はさらに複雑になり、むしろ西欧植民地主義に近いものになってきますが、
被害者であるアジアの国々と共同体をつくり、
「ヨーロッパの植民地体制の抑圧と搾取、従属、奴隷状態が、
地域内の人々との協力と平等と友愛と相互の絆にとってかわる」と主張します。
実際、多くのアジアの独立運動家は、日本に期待を寄せ行動を共にします。

しかし、日本は戦争に敗れ、大東亜共栄圏の構想は幻想に終わります。
この戦争の終結についても、著者は次のようにいいます。

日本は戦争に敗れたが、アジアの国々に敗れたのではなく「白人帝国主義者」に敗れたので、
結局のところ、被害者意識がなくならないし、
「日本はアジアの解放者たろうとしたのだ」という幻想も依然として残存したままになった。

(西欧は戦後の植民地の独立により辛い経験をしたので、
けじめをつけたといっていますが、日本人である私には実感がありません。)

アジアの国々の指導者も、大東亜共栄圏構想の欺瞞を認識していてが、
それでも日本への期待をもっていました。

ビルマの総理大臣バ・モオは、
「日本ほど、アジアを白人の支配下から解放するのに尽くした国は、他にどこにもない。
にも拘わらず、解放を援助しまたは、いろいろな事柄の手本を示したその人々から、
これほどまでに誤解されている国もまたない」と述べています。

その原因は、軍部の蛮行につきる、
アジアの人々にしてみれば、
結局支配するものが西欧から日本に代わっただけだったと著者はいいます。

集団的自衛権

集団的自衛権の容認が閣議決定されました。

首相官邸前では、これに反対して多数の人がデモをしました。
「戦争が起こる危険が増し、若い人が死ぬことになる」という主張のようです。

しかし、私には反対する論理が理解できません。

TVで「私は悲惨な戦争に反対です」という街の声を流します。
誰ひとりとして、この言葉を否定する人はいないでしょう。

しかし、私はこの言葉にどれだけの重みがあるのか疑問に思います。

誰だって戦争が嫌いに決まっています。
だが、人類の歴史では、ほぼ休みなくその嫌いな戦争をしてきたのがです。

「戦争が嫌いだから、私は戦争をしません。
私が戦争をしないと言っているのだから、誰も私に戦争を仕掛ける筈がありません」。

小さな国で、他国と利害が反することがなければそれもありかもしれませんが、
世界有数の経済力を持つ日本が、他国と何の利害の対立もないと考える方がおかしいでしょう。

何もできない国だから、近隣諸国は日本の領土を侵すのです。
ロシアも韓国も中国も。

集団的自衛権を容認すると、
「アメリカのために日本人が死ぬことになる。だから反対」という意見もあります。
「日本のためにアメリカ人が死ぬのはいいが、そのは逆は反対」という正義感は理解できません。

そのような日本に対して、
アメリカがお人よしに自国の若者の命を賭して日本の窮状に必ず加勢する筈がありません。
加勢するとすれあ、自国の利益に抵触するときだけでしょう。

アメリカのあらゆる紛争に日本が加担する必要はありませんが、
「本当にアメリカが困った時には加勢します。
その代り日本が困った時には加勢してください」というのでなければ、
アメリカにしても日本が困った時に加勢する気にはならないでしょう。

今回政府が発表した[集団的自衛権]は、あくまでも日本の事態について米軍を支援するもので、
まったく双務的な防衛協定ではありません。

そのような日米の軍事的緊密関係は、近隣からの武力に対する抑止力になります。

そうでなく、日本が全面的に米国の軍事力の庇護のもとにあるというのは、「普通の国」とはいえません。

「普通の国」の人々は、ぼんやりしてはいけません。
政治家や政治を自分のこととして真剣にチェックし、深みに入らないようにしなければいけません。
本来知識人やマスコミこそが、政治に対してしっかりしたチェック機能を果たさなければいけません。

先の大戦で、大衆を煽ったのは大新聞だったのです。
日本の新聞は、命を賭してもブレーキをかけなければいけないときアクセルを踏み、
ハンドルを切らなければいけないときに、「このまま。このまま」と思考停止しています。

「『普通の国』でなくていいのだ」。
となれば、話はまた違ってきますが、「それでいいのか」ということです。

いじめられっ子のように、あちらでもこちらでも「ごめんなさい。ごめんなさい」と首をすくめている民族。

李氏朝鮮がこのようだったと理解しています。
軍隊といえるほどの軍事力を持たず、中国の顔色を常に伺いう国。

気位だけは高く、ひねくれた精神。

こうはなりたくありません。