議論するということ

長い間人間をやっていると色々な人に会います。

多分日本人の特徴だと思いますが、
日本人は議論がとても苦手です。

利害が対立するとき、それぞれの考えを冷静に主張することができません。
「議論即喧嘩」と思う人が非常に多いです。

私は若いとき少しの期間アメリカで生活しましたが、
驚いたのは、女の子が街中でがなりあっています。
映画でみるとおりです。

多分アメリカ人は自分を主張し、それが喧嘩になっても仕様がない。
と考えるのでしょう。

それに比べ日本人は喧嘩が嫌いです。
誰でも喧嘩は嫌いですが、
日本人は喧嘩になるのを恐れるあまり、あたりりさわりのない人生を良しとします。

この国民性の差異は恐らく歴史の帰結なのでしょう。

自己主張し、たった一人でも開拓していかなければならなかったアメリカと、
逃げることのできない小さい島国の封建社会の中で、
「和をもって尊しとなす」という社会観が最善と考えた日本の社会風土との違いだと思います。

日本人の自己主張のなさは次の図式で説明できると思います。

日本人は喧嘩が嫌い。
> 喧嘩の原因は議論だから議論が嫌い。
> 議論しないから、自己主張しない。
> 必要な時にも議論ができないし、自分の考えがない。

さて議論はそれぞれの立場・考えを正確に披瀝し
相手の主張を冷静の聞き、
不一致があれば、
双方に利益のある方法を探す作業です。

これは古くから弁証法と言われています。

非常に多くの日本人は議論ではなく喧嘩になります。
単なる言い合いです。

自分の考えを正確に陳述する能力も、
相手の考えを冷静に聞く能力も、
不一致があったとき一致点を探っている創造力もない人がたくさんいるのです。

私はこれまでの人生で様々なことをやってきました。
社会に出て最初に就いた仕事は建築現場の労働者でしたが、
その時「自分の人生は自分で切り開かなければいけない」と心に誓い、
自分の気持ちや考えに忠実に生きてきました。

そういう人間からすれば今日、「どうして?」と思い苛立つことがたくさんあります。

「どうして自分の考えを言わないのか」。
なにも言わないでおいて、「どうして後でグズグズいうのか」。
「どうして議論ができないで、すぐ喧嘩になるのか」。

世界に視点を移したとき、「これでいいのだろうか」と痛感します。

15年も前だったでしょうか、まだ日本がこれほど疲弊していなかったときのことですが、
リタイア老人が「日本人は優秀なのだ」といって、
自分は遊びまわっているのに接したとき、
「なんというノー天気な老人だ」と悲しくなりました。

日本が鎖国の時代ならいい。
グローバル化がこれほど進行していない時代ならいい。

しかし好むと好まざるとにかかわらず、
ますますグローバル化が進行するなかで、
世界の中での立ち位置を考えなければいけないのに、
自分だけの世界に浸っていいはずがないのです。

私たちは考え、議論し、解を見つけていかなければいけないのに、
考えることをやめ、議論することをやめ、
世界に向かって自分の主張を冷静に論理展開することもできない日本人に、
将来はあるのだろうかと危機感を持ちます。

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