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ペマ・ギャルポ「中国が隠し続けるチベットの真実」

2冊の新書本を読みました。
一つはクロード・B・ルヴァンソン[チベット](2009年、白水社)、もう一つはペマ・ギャルポ[中国が隠し続けるチベットの真実](2008年、扶桑社)です。

最初にルヴァンソンを読みましたが、「簡単な話を、なんでこんなに難しく書くのだろう」と腹立たしく思います。このような深刻な問題をかくも文学的に書く必要があるのだろうか。

例えば、次のような文章。

「チベット性」の一つの側面は、特殊な地理的現実に根ざした、外界に対する仏教的アプローチへの愛着としてとりあえず定義されるが、こうした観点に立てば、まずその特殊性の土台を形成するものを保全する緊急性が容易に理解できる。

(もしかしたら、翻訳が悪いのかもしれませんが、恐らく原文が酷いのでしょう)

内容はこれまで私が勉強したこと以上のことは余りありません。

すなわち、中国との関係における、簡単なチベットの歴史。地下資源が豊富なチベットが中国にとっていかに魅力的かの話。メコン川、長江等の水源地であり、水がめとしてのチベットの価値。中国の侵略のいきさつ、世界の反応等。

チベット問題の「概説」としてまとまっていますが、逆に2009年の出版にもかかわらず、文化革命や2008年騒乱については具体的な記述はあまりありません。

 

ペマ・ギャルポは、関口宏司会のTBSサンデーモーニングに、昔半レギュラーで出ていましたが、何故か「司会者の対応が冷淡だな」と思っていましたら、やがて放送に出なくなりました。なにかあったのでしょうか。噂では、中国の圧力があったということですが、真実は知りません。

[中国が隠し続けるチベットの真実]で自分の出自を書いています。

彼の曽祖父は東チベット・カムのニャロン地方の領主だったそうです。ニャロンは九州くらいの広さでしたが、最盛期には日本の広さほどの領土を支配していたということです。

ダライ・ラマ14世がチベットを脱出した2年後、後を追うように家族と一緒にインドに亡命しています。年齢は分かりませんが、まだ少年だったのでしょう。

その後何時日本に亡命し、チベットとどのようにかかわったか、詳しくは分かりませんが、時には亡命チベット政府の一員として、中国との交渉に関与したようです。

彼は、亡命以降に起こったチベット騒乱に立ち会っていませんので、インタビューや他の文献からの引用でこの本を書いています。内容的には分かりやすくまとまっています。

2008年6月の出版で、同年3月のチベット騒乱の話から始まります。チベット騒乱は北京オリンピックを前にして、中国に対するチベット人の不満が爆発したものですが、中国の聖火ランナーのルートにチベットの聖地、チョゴランマの山頂を通したことや、オリンピックのマスコットとしてチベット領のパンダやチベットカモシカを使ったことも、チベット人にとっては自分達の尊厳・アイデンティティを侵害されたと映ったようです。

パンダは四川省に生息していることは知っていましたが、チベット領だということは気づきませんでした。

この本は薄い割に良く書けていると思います。
中国によるチベット侵攻の初期の動きは、この本では次のように書いています。

チベットが独自にイギリスに接近することを恐れた清は、1910年にチベットに侵攻してきました。ところが、その直後に辛亥革命が起こって、1912年には清が滅亡してしまう。それまで清の支配下にあったチベットとモンゴルは、お互いに独立を宣言して双方の独立を認め合う「蒙蔵条約」を結びます。

1914年イギリスは中国の宗主権は認めながらも、チベットの独立を承認するシムラ条約を作成し、チベットとイギリスは調印しますが、最後の段階で、中国が署名しないままで終わっています。

当時はダライ・ラマ13世の治世です。河口慧海はダライ・ラマ13世に謁見し、鋭い政治センスの持ち主と高く評価していますが、彼は後に大ラマといわれています。

1950年に始まった中国のチベット侵攻、それに伴う残虐な行為を面々とつづっていますが、ここでは触れません。ただチベット亡命政府が発表したチベットの人的被害を挙げておきます。

戦いや蜂起によるもの 43万2705人
餓死 34万2970人
獄死、強制収用所での死 17万3221人
処刑 15万6758人
拷問による死 9万2731人
自殺 9002人
合計 120万7387人

1959年ダライ・ラマ14世はインドに亡命し、インド北部のダラムサラに亡命政府を作ります。当初はチベットの独立を目指しますが、後に彼は現実路線を模索し、自治権のみの要求をします。がそれも実現しません。

年を経る毎に、中国にとってチベットは重要になります。
2006年ラサとチベット東北部西寧市を結ぶ青蔵鉄道が完成します。
この鉄道は軍事的に重要な補給線になりますし、沿線には石油他の天然資源が眠っているということです。

チベットを離れた多くの人は、民族独立は当然の権利と認識しますが、これといった方策もありません。

ダライ・ラマも高齢で、死去した後の求心力の低下にも、不安があります。

ガンジーやキング牧師のように、武力によらない粘り強い、働きかけと国際世論の注目・支援を期待しています。

なお、この本には、1951年中国がドサクサにまぎれて、チベットに押し付けた「17か条条約」。1988年亡命ダライ・ラマが提案した「5項目和平プラン」。一年後に提案した「新和平案」が転載されています。

首相の靖国参拝

1月24日付け朝日新聞の一面に、「靖国参拝 中国が批判網」という見出しが載っています。
各国駐在の中国大使が、
地元の有力紙に安倍首相の靖国参拝を批判する記事を投稿しているということです。

首相の靖国参拝には、既にアメリカはじめヨーロッパの数カ国が批判的論評を出しています。

日本はこれにどう対処するか。

もっともいけないのは、「アメリカやロシアやEUが批判しているから」、
首相か靖国参拝をやめるべきだという日本のマスメディアや知識人の論調です。

「外国に批判されるからやめるべきだ」は、自分の判断を放棄していることを意味します。
外国に批判されるのはよくないが、
その帰結が日本が自分の行動を放棄し謝罪することではない。
批判されないように、自説を展開することそが大切なことです。

 

私達(私)は、先の大戦および靖国について余りにも不勉強であったと思います。
その原因は学校教育であり、マスメディアの論調です(大元はGHQの方針でしょう)。
「戦前の日本はとにかく悪いことをしたのだから、ただただ頭を下げて、
申し訳ありませんといわなければいけない」という教えです。

大多数の日本人は、ただ畏まって、「それに疑問を持つことさえ罪だ」くらいに思ってきましたから、
自分自身で初めから日本の現代史を勉強しようなど思う一般人は皆無といってもいいくらいです。

しかし、最近は特に韓国や中国の反日に対して、「なにかおかしい」と思うようになり、
インターネットで同じ想いの人を確認できるようのなりました。
まだ少数かもしれませんが、日本の現代史を勉強しようという人は増えていると思います。

大正・昭和の日本および日本を取り巻く世界の歴史について、
私自身は、いまだ不勉強で自分の判断を持つにいたっていません。

 

しかし、それとは別に「外国に批判されるから謝る」論は絶対にやめなければいけません。

なぜなら、外国の批判が決して公平で正当ではないからです。

中国でいえば、チベットや周辺国への侵攻があり、
言論の自由がない国です。
それらを棚に上げて、70年以上前の不確実なあるいは議論の余地のある事柄を、
自分に都合よく解釈して日本を批判しているのです。

韓国は語る価値さえないと思います。
自分達の無能や蛮行を棚にあげ、いつの間にか戦勝国気取りです。

アメリカにしてもどれだけ自分達の行動が正しいのか。
過去には、インディアンへの迫害、アフリカ奴隷の扱い、フィリッピン等の植民地。
日本への原爆投下。
近年ではブッシュのイスラム社会への挑発、アルカイダの反発と9.11、イラク戦争。
オバマの中国への擦り寄り。
これらアメリカの行動が「正義の味方」だとは思えない。

最近のケネディ大使による、イルカ漁反対の意見。
「人道的見地から」は確かにその通りで、
そのことに反対する人はいないでしょう。

しかし、人類は多くの命と引き換えに生きてきたのです。
牛を殺すのも豚を殺すのも、鳥や魚を殺すのも酷い行為です。
そもそも人類は酷い行為をしながら地球を支配してきたのであって、
そのことにホウカブリして、ある人間がある人間を「非人道的」と非難するのは、
なんと幼稚な自己チュウというほかありません。

カウボーイの国アメリカでは、一切肉を食べないとでも言うのでしょうか。

それに「かわいそうだから、私は一切肉は食べません」と個人的にいうなら、
「そういう生き方もあるでしょう」とある意味尊敬しますが、
自分は牛肉や七面鳥のご馳走を食べながら、
世界で最も影響力をもつ国が、「人道的にイルカ漁反対」は、
どのようなロジック(マジック?)を持って主張するのでしょうか。

また、日本の捕鯨を批判するオーストラリアは牛肉の大輸出国です。
「牛は殺してもいい。鯨はいけない」のロジックは私には理解できない。

ヨーロッパに目を転じれば、
過去の栄光に浸っていた国々、特にイギリス人からすれば大英帝国の夢を破った、
大日本帝国への潜在意識での嫌悪感。

ロシアは北方領土侵略やシベリア抑留を持ち出すまでもなく、
ロシアが正義の国だなど信じるほうがお馬鹿すぎます。
現在も、チェチェンへの武力弾圧や国内人権侵害等他国を批判する立場ではありません。
また、どう見ても不当なシリア現政権を支援しています。

靖国問題ではいえば、当初ロシアは日本を批判していましたが、
プーチンが安倍首相と会談することになれば、態度を変えます。

 

国際社会では、どの国の行動もご都合主義であり、矛盾だらけです。

これが国際政治というもので、お人よしの国などあるはずがありません。
そのことを最初に念頭におくべきです。
その上で、できれば利害がぶつからないように、
自分なりの正義のもとに行動するということが重要です。

 

中国・韓国のプロパガンダは明らかに悪意に満ちています。
それに対して、「今日本を叩くのは、自国にとって都合がいい」と考える国・人、
あるいは軽薄にもその政治宣伝に載せられる国・人、
あるいは、人種差別の延長として「日本人たたき」に加担する国・人がいるかもしれない。

それをまた、日本のマスコミや知識人が「そのとおりです。申し訳ありません」というのを聞くと、
「なにを考えているのか」と思います。

中国や韓国は、
「首相の靖国参拝は戦前の軍国主義の肯定であり、
再び昔に返ろうとしている」といいます。

目が点になるとはこのことです。
一体全体日本人に戦前の軍国主義を待望する人間がいるのでしょうか。
ありえない話です。

中国・韓国の靖国批判は的はずれで、
あきらかに彼らの日本批判は、
ヘゲモニー(政治的主導権)を握ろうとするプロパガンダです。

私達は、この見え透いたプロパガンダに、ハッキリと反撃しなければいけません。
その実践は「いうは易く、行うは難し」です。
日本人は苦手です。
十分に研究し、効力ある手段を講じなければいけません。

 

一方で、やはり私達自身が現代史を勉強しなければいけません。

大東亜戦争への道は軍部の独断だったのだろうか。
西欧特にアメリカの日本への圧力は、日本の大陸侵攻を正当化できるのだろうか。
日本軍による周辺国の被害はどれほどだったのだろうか。
アメリカの原爆投下を正当化できるのだろうか。
東京裁判は正当だろうか。
A級戦犯の意味と彼らの靖国合祀は正しいのだろうか。
BHQの功罪と今後の日本のありかたは、どうすればよいのだろうか。等々。

私はこの一年間、韓国について40冊以上の本を読みましたが、
これからの作業では恐らくそれ以上の、
内容のある本を読まなければいけないでしょう。

また、この勉強は一人では限界があるし、独りで納得するようなものではありません。
より多くの人々、特に人生経験豊富で時間もあるリタイアした人々が積極的に勉強し、
特に今はインターネットという便利な道具がありますから、
みんなで議論を戦わせ、その過程から私達の日本論を構築し、
誇り高いしかも世界から信頼される国をつくるために尽力しなければいけません。

「中国はいかにチベットを侵略したか」2

その後、毛沢東はチベッに様々な懐柔策を実施し、
道路、商業、通信手段等を整備する一方、
次々に軍隊を送り込みます。

中共軍が増えるにつれて、チベットの人々との軋轢が生じ、
小さな火種はだんだん大きな火に勢いを増します。

1956年正月、ラサで大きなデモが発生し、
それに対し中共軍は厳しく、しかも残酷に対処します。

ゴンボ・タシ(抵抗運動の指導者)の言葉に従えば、

1956年は、中共の約束が耳をかす値打ちもない大嘘だったことがはっきりしたという点で、
チベット人にとって忘れられない年だった。

民主的改革? 土地改革? 援助? 進歩? 
それらはすべて暴力、脅迫、飢餓、死に言い換えてみればずっとわかりやすい。

それが中共の共産主義への道だった。(中略)

これが毛沢東のいう「大家族の一員としてチベットを抱擁する」という意味であった。

 

「カム・アムド・ゴロク、どこの村でも中共の虐殺を経験しており、
抵抗の狼煙を最初に上げたのはじぶんたちの村だったというだろう。

誰も間違っていなかった。
ほんの数週間のうちに東チベットの抵抗勢力は吹き荒れる嵐となって広がったのだ。

中共側も負けてはいない。妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。
特に尊敬されている僧たちは狙い撃ちされ、尼僧と性交を強いられたりもした。

ある僧院は馬小屋にされ、僧たちはそこに連行されてきた売春婦との性交をしいられていた。
あくまでも拒否した層のあるものは腕を叩き切られ、
「仏陀に腕を返してもらえ」と嘲笑された。

大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、
馬や車で引きずり殺されていった」。

 

この本にはまだまだ沢山の、中共軍による残虐行為が書かれていますが、
止めておきます。

ダライ・ラマはインドの支援を求めてネールに会いに行きますが、
案の定、ネールは冷たい対応をします。

国連にもチベットの惨状を訴えますが、まともに扱ってくれません。

チベットと中共との兵力の差は歴然としていますから、戦争にはなりません。
基本的にゲリラ戦です。

CIAはアイゼンハウアーの指示で、チベット人を訓練し、武器支援します。
東パキスタン(現バングラディシュ)を介して、有能なチベット人を連れ出し、
グアム、サイパン、沖縄でゲリラ戦士としての訓練をし、
再度チベットに送り込みます。

1958年初めには、中共は東チベットだけで15万人の兵力を展開していました。

チベット人のゲリラ戦も激しくなり、全面的な戦闘状態になります。
しかしもともとチベットには沢山の部族があって、
これまで協力して国のために何かをしたという経験がありませんでしたし、
連絡を取り合う通信手段を持たなかったので、
それぞれが「チベットを守る」という気持ちでそれぞれの方法で戦っていました。
武器も手持ちの猟銃であったり、刀であったり、斧であったり、貧弱なものでした。

それに対して中共軍は、高性能機銃や爆撃機で村々を壊滅していきます。

大商人であったコンボ・タシは法王庁に承認を得ないまま、独断で部族をまとめる決断をします。

 

1959年3月、中共軍はダライ・ラマを中共軍司令部に呼び出そうとします。
それを受けて3月10日、首都ラサで大規模なデモが発生。
民衆は各所にバリケードを築き、ありあわせの武器で対峙します。

緊迫の日が続いたのち、3月17日中共は最後通告します。

侍従長以下の説得を受け入れ、ダライ・ラマはラサからの脱出を決心、
夜陰に乗じて宮殿を後にします。
CIAの圧力があって、インドはダライ・ラマを受け入れます。
14世ダライ・ラマ23歳でした。

中共軍はダライ・ラマの動向をつかめないまま、20日には法王庁宮殿への攻撃を開始します。

一連の攻撃で、チベットの7千の僧院の90%以上が破壊され、
一説では犠牲者は120万人(1950~1976年、Wikipedia)にのぼるということです。

アメリカのチベットに対する対応も揺れ動きます。
1960年アメリカのU2スパイ機がヒマラヤ上空からソ連を偵察中に撃墜され、
米ソの冷戦が深刻な状態になったため、
大統領はCIAによる上空からのチベット支援を禁止しました。

アイゼンハウアーの次の大統領ケネディもチベット支援策を続けますが、
インド大使ガルブレイスがチベットを嫌い、支援は思うようにいきません。

続く、ニクソンは中国との接近政策を打ち出し、ついにはチベットを見殺しにします。

ネパールも中国との関係を重視し、チベット難民を冷遇します。

1962年、中国がカシミールに侵攻すると、さすがのネールも目をさまし、
チベット亡命政府の設置を認めます。

 

その後も中国はチベットに圧力をかけ続け、
1996年の文化革命、2008年のチベット騒乱でも、チベットを武力で鎮圧。
沢山の僧院、宝物が破壊されます。

 

中国は何かといえば戦前の日本軍の悪行を非難します。
(実際はどうであったのか、私はまだ勉強できていませんので、
この問題は当面判断停止します。)

しかし、チベット問題は現在進行形です。
中国によるチベット支配は、どう考えても正当化されません。
中国が日本を非難する前に、現在の自身の行動が問われなければいけません。
日本批判は自分の悪行を隠す、あるいは目をそらす有効な手段として使っているのでしょう。

中国は日本批判で首相の靖国参拝を非難します。
しかし、どの口で「毛沢東崇拝」を謳うのか、開いた口がふさがりません。

中国は「チベットは内政問題だ」といいます。
「内政問題だ」と言われれば、国は動きにくいかもしれないが、
私たち一市民はいくらでも声を上げられす。

多くの人が関心を持って、
インターネット等をフルに使って中国の非を発信しなければいけません。

マイケル・ダナム「中国はいかにチベットを侵略したか」

辛亥革命で清朝が崩壊。
中国での主権を巡って、国民党と中共軍(中国人民解放軍)が衝突します。
やがて蒋介石の国民党は台湾に逃れ、毛沢東は「中国」の平定に着手します。

マイケル・ダナム[中国はいかにチベットを侵略したか](日本語版2006、講談社)は、
中国によるチベット侵略の進展を、
対中国抵抗戦士たちのインタビューをもとに、ドキュメンタリー風にまとめています。
ただし、ここで語られている内容は、ダライ・ラマがチベットを脱出するまでの話であり、
その後のチベット文化大革命や2008年チベット騒乱については記述されていません。

 

幾世紀もの間、中国とチベットの国境は定かではなく、
8世紀にはチベット王が中央アジアの広い範囲を勢力圏にした時期もありました。

それ以降チベットは中国に対して、「地政学的、政治的、文化的にも異なる道を歩んできた」。
「チベットに構うな」という立場を一貫していました。

1949年10月、毛沢東は中華人民共和国の成立を宣言し、
チベットを帝国主義から解放すると発表します。

しかし、ダナムによると、
当時チベットには英国人のラジオ技師や登山者等8人の西欧人がいただけであり、
「いったいチベットにどんな帝国主義者がいたのか」と言の不当性を指摘します。

 

ここで、当時のチベットを取り巻く国々の状況を理解しておく必要があります。

中国は毛沢東が指導した共産主義の国で、
帝国主義と戦うという大義名分のもと、領土の拡張を図っていた。

1947年インドは独立し、ネールが初代首相に就任していた。
ネールは白人への対抗心もあり、中国との良好な関係を望み、
その結果チベットには冷淡であった。

英国は第二次大戦に疲弊し、もはやインド、チベットに関与する余裕はなかった。

米国はアイゼンハワー大統領の時代で、
CIAを通じてチベット抵抗運動を支援していたが、
ニクソンの時代になると、米国は中国に接近し、チベットを見殺しにした。

ネパールは、中立的態度を保っていたが、
中国が安定してくると、チベットへの冷淡な姿をあらわにしてきた。

1950年6月には朝鮮戦争が勃発した。

 

1950年3月、中共軍はチベットの東端カムに軍をすすめます。
地形の悪いところなので、大規模侵攻ではなく小競り合いが発生します。

1951年5月、北京にチベットから派遣されたアボ・ジグメは、
何の権利も委譲されていなかったにもかかわらず、
中国が一方的に示してきた「17箇条協定」に署名させられます。

協定の内容は、例えば、チベットは自国から帝国主義勢力を駆逐し、祖国の大家族に復帰する
(中国の一部であることの宣言です)。

チベットは中国共産党の指導の下に独立を享受する権利を有する。
ほかに、ダライ・ラマとパンチェン・ラマの地位、機能、権力は今後も変更はない。
仏教、信仰、チベット人の風俗習慣は尊重する。
僧院は保護される。僧院の収入に慣習しない。

チベット軍は再編成され、人民解放軍に吸収される。

チベット語とチベット人の学校教育は奨励される。

チベットの改革は中国側に強制によらない。
改革はチベット側の指導者と話し合って決定される。等々

その後チベットでこの問題を協議しますが、僧侶は自分たちの地位が保障されていると歓迎し、
1951年10月、ダライ・ラマ14世は毛沢東に手紙を書き、この協定の支持を表明します。

当時、ダライ・ラマ14世は16歳でしたが、すべてのチベット人の心の支えでした。