吉川英治「私本太平記」

鎌倉時代の次の時代・南北朝はどのように興ったのか。

吉川英治「私本太平記」(1991年、講談社・全8巻)を読んでいます。
今9割方読み進み、もう少しで終わりです。

長い間、ブログを中断すると、読者に愛想をつかされますし、自分でも読んでいる本の前の方を忘れてしまいますから、感想を書けるところから書いてみたいと思います。

話は、足利尊氏の青年時代から(多分)没するまでで、鎌倉時代末期=北条高時の治世から、後醍醐および護良(もりよし/もりなが)の蜂起、それに呼応した、足利尊氏、新田義貞、楠木正成の参戦と死闘が書かています。

 

歴史小説のいいところと悪いところがあります。

いいところは、
主要人物が度々登場しますし、
歴史の流れの中で事件や人物が登場するので、
歴史の本筋や様々なことを理解しやすいこと、
当時の風俗を知ることができること等でしょうか。

悪いところは、
どうでもいい話が、しかも長々とあることです。
特に女が出てくると、大抵作り話で「やめてくれよ」といいたいです。

もう一つ、常に「本当かな」と疑うことになるのも歴史小説の悪い点です。吉川英治はこの点意識して、色々な文献を調査しているようですし、多分歴史学者の意見も取り入れていると思います。

特に高氏(のち尊氏)の評価は、長い間天皇に弓引く「逆賊」とされていたようですが、この小説では、近年の歴史の考えに従って公平に書いていると思います。

 

本書は、高氏が青年時代、京都に社会勉強に行き、やがて足利の地(今の栃木県足利市)に帰ってくるところから始まります。

同族の新田義貞が近所に基盤を構えていますが、両家は仲がよくありません。

元々足利と新田は源氏の流れを汲み、新田家が本流でしたが、鎌倉幕府への対応で躓き、幕府からないがしろにされる一方、足利家は幕府にうまく取り入って勢力を伸ばし、当時関東では相当の豪族に成長していたようです。

足利家には高名な先祖・源義家が書き残した置文(遺書)があり、それには次のように書かれていました。「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」と。

ところが義家の七代の子孫にあたる足利家時は、それを実現できない不徳を恥じ、「三代後の子孫に天下を取らせよ」と祈願し、願文(置文)を残して割腹自殺します。

家時から数えて三代・高氏はその願文を見て、「自分こそは天下を取る」と決意します。

実際、その置文を見たという第三者もいるようですが、
現存しないし、ただの「伝説」だという説もあります。

そもそも、「義家といえば源氏本流・頼朝の祖先なのであって、
頼朝が天下を取ったのだから、義家の願いはかなっているのだ」
という話もあります。

小説では、家時の置文は高氏が読んだあと焼却します。

 

当時どういう時代だったか。鎌倉幕府も朝廷も大変不安定な状態でした。

鎌倉幕府は、蒙古襲来の後遺症で、武士は褒賞を受けられず、出費ばかり嵩むと不満を噴出していましたし、貨幣経済の発展で社会制度は流動化、歴代執権は、社会の矛盾をなんとかしようと、様々な施策を試みるものの何れも失敗、唯一やれることは、執権の強権で幕府の結束を保つことだけでした。

が、時の執権高時に至っては、政治そのものさえ投げ出し、遊興に耽る有様でした。

 

他方、朝廷はどのような状態だったか。

「両統迭立(りょうとうてつりつ)」が続いていた、あるいはその矛盾が噴出していたのです。「両統迭立」とはどのようなことか。

時の後醍醐から遡る90年前、御嵯峨天皇は、第一皇子が四歳のになると、この皇子に皇位(後深草天皇)を譲り、自分は退位します(上皇になる)。ところがその後、第二皇子が生まれると、御嵯峨はこの第二皇子を寵愛、17歳になった後深草天皇を退位させ、第二皇子を亀山天皇とします。

後深草は、持明院を御所としたので、後深草流は持明院統とよばれ、
亀山は、大覚寺に住んだので、亀山流は大覚寺統といわれます。

更に、亀山に皇子が生まれると、その子を皇太子(のち後宇多)にしたので、後深草は、長男である自分の皇子(のち伏見)を差し置いて取られたこの処置に立腹しますが、おとなしい後深草は、このときは我慢します。

しかし、御嵯峨が逝去したとき、「院政こそは自分が担う」と後深草が動きますが、またも亀山に邪魔されます。

ここまでくると、両統の確執は深刻化します。

問題をこじらせたのは、御嵯峨の遺書です。
それによると、
「今後皇位は亀山が継ぐ、
その代りに、後深草には、諸国180所の領地を与える」というものでした。

更に上皇や天皇の后の勢力争いが加わります。

しばらくゴタゴタが続いた後、やむなく仲裁に入った鎌倉幕府が提案したのは、「以後、持明院統と大覚寺統とで、10年毎に『かわりばんこ』で天皇を立ててください」、というものでした(これを両統迭立といいます)。

こうして、御嵯峨 -> 後深草(持) -> 亀山(大) -> 後宇多(大) -> 伏見(持)の後、
次に示すように10年毎に両統から順番に天皇が立ちました。

御伏見(持) -> 御二条(大) -> 花園(持) -> 後醍醐(大)

なお、(持)は持明院統、(大)は大覚寺統を示します。

しかし、こうなると大覚寺統は不満です。
持明院統は膨大な領地をもったままなのに、大覚寺統はこれまで認められていた皇位継承権を手放すことになるのですから、とても承服できるものではありません。

大覚寺統の後醍醐に順番が回ってきたとき、
後醍醐は、
「『かわりばんこ』は止め、自分が以後皇位継承権を独占する」と一人で方針を変え、さらに、
「武士の世は間違っている。天皇親政こそが正しい世の中だ」と倒幕を画策します。

当然持明院統は反発。
それどころか、日本全国、東北・関東から九州まで巻き込んだ大騒乱が勃発します。

 

倒幕の旗印を掲げ後醍醐のもとに参集したのが、高氏(尊氏)、新田義貞、楠木正成。

後、尊氏が、後醍醐とたもとを分かち、持明院統の光明天皇を担いで開いたのが北朝、京を追われた後醍醐が、吉野で開いたのが南朝になります。

error: コピーできません !!