訳のわかること 2

「建築家の訳のわからない話を断罪したい」というのは穏当ではありません。

もう少し優しくいえば、「建築家の思考プロセスをコンピュータ上で白日の下に曝け出したい」という願望がありました。
もちろん無謀なことですが、ただ「それは無謀だよ」でなく、どこがどうして無謀なのかを見たかったのです。

 

取り掛かるべき作業は、二つあります。
一つは思考のプロセスを展開してみせる、道具としてのロジックです。
その究極の限界は計算可能性の議論で分かりました。

現実的に大切なのはコンピュータの勉強です。
当時は、汎用コンピュータにパンチカードを積む時代でした。
(私は少し恵まれていて、テクトロ社の端末ディスプレイで作業することができました)

やっとFORTRANが使える程度で某研究所に就職し、LISPの仕事を少ししましたが、
LISPのデータ構造の意味さえよくわかりませんでした。
プロダクションシステムを使った医用のマイシンがある程度の評価を受け、ミンスキーのフレーム理論が注目されていましたが、挑戦する道具立てに関しては早くも前途難でした。

もう一つ取り掛からなければいけない作業は、建築のデータや建築についての知識がどのようになっているのか。
その表現は、もちろんコンピュータの道具立てと深く関連しますが、そのまえに、日常言語でもいいのでそれらを整理しなければいけません。
行き着く先は、建築とはなにか、知識とはなにか、言語とはなにかです。

科学哲学、分析哲学、言語哲学、はてはカントまでかじりましたが、「わかった」より「分からない」が増す一方でした。

たとえば、有名なニュートンの方程式があります。
F=ma (F:力、m:質量、a:加速度)
「『あらゆる』場合に真である」とどうしていえるのか。
有限回の実験で「証明」したのか。
理論なのか。理論とはなにか。

1 + 1 = 2 と
ニュートンの運動方程式と、「明日は雨が降る」と「あの人の名前はA君です」と正しさは同じなのか。

これらの正しさの根拠は同じではない。
カントは「純粋理性批判」で綿密に知識について分析しています。

私は数年間、気が狂いそうなほど考えました。
しかし、分からないことだらけです。

結論を出しました。
「カントでさえ、多くの批判に曝され、完璧ではない。
まして私にはカントほどの粘着性はない。
ゲーデルほどの天才でもない。

しかも取り掛かるには遅すぎた。
凡才はこれが限界だ。
これで終わりにしよう」

私は、自分にできることを、精一杯やっていくことにしました。
知識工学がナショナルプロジェクトになる何年も前のことでした。

余談ですが、大学の建築設計の課題は、私にとって仕事をこなすのに生涯最高の訓練になりました。
課題の提出期日は厳守です。設計図とパースという説明用の絵を提出します。
4年生になると、自分は図面一枚を仕上げるのに何日何時間必要か分かってきます。
今回の提出図面は何枚になるか、それによって提出日の何日前まで考える時間があるか逆算します。
そして、許された時間一杯、「ああでもない。こうでもない」と考えに考えます。
設計では絶対的正解はなく、色々な案を練り、何かを生かし何かをあきらめなければなりません。
そして持ち時間一杯考え尽くせば、不満であってもその時点での案をまとめなければいけません。
後は、何日かカンテツし朦朧とした状態で課題を提出するのが常でした。
仕事をこなすとは、そういうものだと思います。

 

私は、フランスの作家カミュが好きです。
有名なのは「異邦人」で、これは映画にもなりました。

彼は不条理の哲学を唱えます(「シジフォスの神話」、「反抗的人間」)。
「世界は不条理に包まれている。
絶対的真理はない。
人生をよりよく生きるより、より多く懸命に生きるしかない」

小説「ペスト」では、医師リューが懸命にペストと戦っていきます。
彼の思想がもっとも分かりやすく表現されていると思います。

(因みにカミュはタレントのセイン・カミュの大叔父でノーベル文学賞を若くして受賞しています)

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