「朝鮮紀行」日清戦争

農民は劣悪な環境での搾取に耐えきれず、しばしば反乱をおこします。大抵は小規模で終わりますが、今回は宗教と結びついた全国規模の反乱です。東学党の乱です。

1894年6月中旬、バードが半島最初の陸路の旅で、半島の東・元山についたとき、東学党の乱の噂を聞きます。同21日彼女が船で元山から、済物浦(今の仁川)に帰ってくると、ここには既に日本、アメリカ、フランス、ロシアの艦隊が外港に待機し、日本はたくさんの兵站を陸揚げしていました。

東学党の乱の鎮圧に国王・高宗は清に出兵を要請、清はこれに応じます。これより先1885年に締結した天津条約によれば、日清両国とも対等に朝鮮に派兵できることになっていましたので、これを根拠に日本もまた朝鮮に出兵します。

国王はこれ以上の混乱を嫌い東学党に譲歩し、乱は収束しましたので、日清両国に軍の撤退を要求します。しかし日本はこの機会に、日清協力して朝鮮の近代化を図ることを清に提案、清はこれを拒否します。

いち早く首都ソウルを抑えた日本は、今度は国王に、朝鮮の清に対する従属関係を絶ち、改革の断行を要求。清との全面衝突に到ります。

6月21日彼女が済物浦でみたのは、この頃の状況でした。

バードはソウルに残した荷物をとって、日本で休養するつもりでいましたが、既にソウルに近づくことができず、急きょ渤海に面した中国領チーフーで体勢を整えて、遼東半島の北、中国領奉天に向かいます。

1894年7月奉天に入るとき大洪水に遭遇、ここで怪我をし、数週間奉天にとどまることになります。

この間日本はソウルの西、牙山で清国軍を撃破、制海権も完全に掌握、ここに至って朝鮮に清との協定の破棄を宣言させます。

日本の宣戦布告は8月1日ですが、初戦の戦闘では日本軍が清軍を圧倒していたようです。制海権を失った清国軍は、たくさんの兵士を陸路奉天を通って南に送ります。しかしバードが、まじかで見る清国軍の規律は乱れ、そこら中略奪をおこなう始末です。

ただ一人左将軍率いる5000人の訓練され信頼されていた奉天騎兵旅団が、平城で敗れ、将軍は9月15日戦死します。

左将軍がいなくなった奉天は無政府状態になり、外国人に危険が迫ったので、バードも奉天を脱出し、「菊が満開の季節を迎え、まっ赤な紅葉のもえるようなに美しい」長崎にたどり着きます。

更に休む間もなく、初冬のロシア領ウラジオストックに行きますが、ここに行った目的の一つは、ロシアと朝鮮の国境近くに入植した2万人の朝鮮人の生活をみることでした。ここの朝鮮人は朝鮮国内の農民と違い、健全で快適な農民生活を送っていることを確認します。

「朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望み無しと考えていたが
その考えを正すべきかもしれない」と述べています。

1894年末には勝敗は決まっていたようです。明けて1895年1月に、またソウルに行きますが、そこで見たのは、日本軍が抑え騒乱のない町でした。ただ、たくさんの日本兵の墓をみることになります。そして日本が主導した鉄道建設や様々な改革が始まっていました。

バードはソウルにしばらく滞在し、国王による朝鮮の独立と改革の宣言の式典をみます。

また4度にわたって、国王および王妃・閔妃に謁見し、問われるままに、国際情勢やイギリスでの政治体制等様々なことを話あっています。国王は凡庸だが、閔妃は冷酷な面があるものの聡明な人だと述べています。

日清戦争は1895年3月休戦、同5月下関条約締結で最終決着します。

1895年10月日本で休養していたバードに、閔姫暗殺の知らせが入り、急遽ソウルにいき、まじかに情報の収集をします。

11月、ソウルを後に、最後の朝鮮の長が旅・平城に向かいます。そこでみた平城はがれきの山でした。

当地で戦死した左将軍のために、日本軍の手により碑が建てられ、そこには「奉天師団総司令官左宝貴ここに死す」「平壌にて日本軍と戦うも、戦死」と記されていました。
バードはとても感銘をうけ、「敵軍の名将に捧げた品位ある賛辞である」と書いています。

 

それから2年たって、生まれ変わろうとしている朝鮮を訪れ、総括しています。

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