ハメル「朝鮮幽囚記」

16世紀のヨーロッパ人は中国や日本のことは知っていたのですが、朝鮮のことは全く知りませんでした。17世紀になると、中国や日本を介してその存在を知ることになりますが、詳細は依然として漠としたままでした。

オランダ領バタビア(現インドネシア・ジャカルタ)からオランダの植民地であった台湾に、新任の長官と兵士を運んだオランダ船が、急遽日本に荷物を運ぶことになりました。積荷は木香、ミョウバン、鹿皮、サメ皮、山羊皮、粉砂糖でした。1653年、日本では第4代将軍家綱の時代です。

船長は日本への初めての航海でしたが、2度の暴風に見舞われ、とうとう朝鮮に漂着します。
当時朝鮮は厳格な鎖国の国で、朝鮮から出国することができなくなりました。
台湾を出航したとき、52人いた乗組員は、朝鮮に打ち上げられたときは36人になっていました。
朝鮮の地図がない時代ですので、そこがどこなのかも分からないでいたのですが、のちにそこが朝鮮、済州島であることがわかります。
役人に捕まりますが、言葉はまったく通じません。役人が日本語のわかる人間を連れてきたので、なんとか自分たちは日本に行きたいと伝えます。
地方行政官は中央にお伺いを立てると同時に、それより30年も前にとらえられたオランダ人朴延と引き合わせます。
朴延もまた朝鮮に漂着し、長い間朝鮮から出ることができなかったのです。オランダ語も忘れていましたが、母国語を思い出しながら調書を作成します。そして朝鮮から脱出することはできないと告げます。

彼らはソウルに送られ、13年間の基本的には兵隊としての生活をします。

清国からは毎年貢ぎ物を取りに使者がやってきます。朝鮮はオランダ人の存在が清に知られることを恐れ(理由はよく分かりません)、使節団の目に留まらないようにしますが、あるとき二人のオランダ人が、清の使者に直訴します。
その場は聞き置きになりましたが、朝鮮は清の使者に賄賂を贈りその話をもみ消し、オランダ人は獄につながれやがて獄死します。ハメル達にはどのような末路であったか知る由もありません。

それを期に彼らはソウルから離れた地(全羅道)に送られます。その地の長官は数年で交代しますが、理解ある長官とそうでない長官とでは、生活が天国と地獄になります。

もともと朝鮮は貧乏な国でしたが、飢饉がくると生きていくことさえままなりません。
あらゆる行動を監視されている彼らも耐え切れず、長官に申し出て物乞いの許しを得て餓えをしのぎます。
時がたつにつれ、朝鮮としても彼らをもてあまし顧みなくなります。既にオランダ人は16人になっていましたが、食糧の確保が理由で、分散して抑留されていました。

1666年8月、8人のオランダ人は小舟を手に入れ、朝鮮からの決死の脱出を試みます。幸い五島に行きつき、何とか自分たちはオランダ人で長崎にいきたいと告げます。長崎に護送され、そこで5艘のオランダ船を見ます。オランダ商館・出島に迎えられ、長かった幽囚の身から解かれます。

日本は当時ポルトガルの宣教師の入国を警戒していましたので、この点についての取り調べ、朝鮮への問い合わせ等にまた1年を要し、1667年彼らは14年振りにパタビアに帰りつきます。

ハメルは長崎滞在中に報告書を書き、この本はその報告書を底本にしています。この本には、彼らが見聞きした朝鮮の制度、習慣等についても書いています。ヨーロッパの人々にとって、これは朝鮮についての初めてのまとまった資料になりました。

その後日本は朝鮮と交渉して、残る人々(8人のうち一人は自分の意思で朝鮮に残ります)の救出をします。

オランダ人達にとってどれほど辛く長い歳月だったでしょうか。

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