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アメリカで生活して思ったこと

一定期間外国で生活すると、「自分がこれまで生きてきた世界とは異なる価値観の中で多くの人が生きている」と現実感をもって認識させられます。

その認識はその人の人生観や価値観に影響し、人間の幅を広げてくれます。

 

私がアメリカにいったのは30年以上も前のことで、当時日本は今の韓国や中国のように発展途上で、自分の国に自信を持ち始めた時代だったと思います。
そういうときにアメリカを経験して、目に見えない貴重な勉強をしたと思います。

アメリカ滞在は僅か1年足らずでしたし、もちろんアメリカ全体を見たわけでもないし、「私」という特定の人間が感じたことですから、文化人類学的にどうこういうほどの大げさなことではありませんが、自分なりに感じたことは多々あります。

 

アメリカで最初に思ったのは、アメリカは広くて美しく国の力が強い国だなという実感です。

そして次に思ったのは、日本に比べて人の生き方が厳しい国だということでした。

当時、日本に比べたらアメリカはずっとお金持ちの国だったと思いますが、私としては予想もしなかった経験をしました。

ピッツバーグの冬はとても寒く、ある日宿から大学までの道で、きらきらと輝くダイヤモンドダストをみることができました。
すぐ宿に帰ってカメラを持ち出し、その情景をカメラに収めました。

そういえば、その年ピッツバーグ・パイレーツと同スティーラーズは同時優勝し、スティーラーズの優勝ではダウンタウンは大騒ぎのようでした。

大学では私は数人の大学院生とか助手とかがいる部屋で、仕切りで囲われた一番奥の席を与えられたいました。昼食でカメラを机の上において、確か部屋に鍵をかけて、食堂に出かけましたが、食堂から帰ってみるとカメラがありません。

名門大学の研究者の部屋でカメラが盗まれるとは夢にも思いませんでした。

研究室にいって「カメラが盗まれた」というと、もちろんみんな気の毒がってくれましたが、「僕は鍵をかけていた自転車を3階から盗まれた」という人がいて、「アメリカはそんなものなんだ 」とアメリカの一断面を見て少々驚きました。

多分警察官だと思いますが、大学には警備員が常駐していて、私がカメラを盗まれた時も、その警備員から事情聴取されました。これもまたアメリカの現実です。

またあるとき、研究室からの帰りに、学生らしい白人の若者があわてて逃げ出し、その後をおじさんが大きな声で怒鳴りながら追いかけています。タイヤのホイールカバーがカラカラと音をたたていました。

おそらく学生はホイールカバーを盗もうとしていたのだと思います。
決してみすぼらしい恰好をした学生ではありませんでしたが…

 

ある日テレビをつけたら、プロレスをやっていました。
小柄なレスラーと巨漢の悪漢風です。

最初小柄なレスラーは巨漢にメタメタやられています。
第二ラウンドに入っても相変わらず小柄レスラーは痛めつけられています。
「次のラウンドこそ反撃するよな」と思っていましたが、反撃できず、何ラウンドまでやったか忘れましたが、結局小柄は巨漢に痛めつけられて終わりました。

私としては「え?嘘」という心境です。
日本人からしてみれば判官びいきですから、「弱いものが最後には強いものに勝つ」というストーリーが好きですが、アメリカ人は違うようです。弱いものはやっぱり弱いのです。

 

アメリカにいく前、映画などでみていると、「アメリカの女性はちやほやされて甘やかされているのだ」と私は思っていましたが、それは間違いのようです。、

研究室の秘書のおばさんは朝から晩まで、毎日毎日タイプを打っていました。
他の研究室の秘書さんも同じです。

街では拳銃をぶら下げた女性警察官は珍しくないし、バスの運転も女性がやっていました。

アメリカは大変合理的で、女だから男だからでなくて、女も男も優秀であれば尊敬されるし、ちやほやされるのは美人であったりセクシーであったりの人で、ただの女は決して特別扱いされはしません。

この点でいえば日本の女性の方がよほど甘やかされていると思います。「甘やかされている」といういい方は正しくないかも知れません。日本の男が女性を男の世界に入れないので、結果として女性は社会性を欠き、「女だから」として、女をそして自分を許しているのだと思います。

また私は長いあいだ、日本の建築学会に所属していましたが、沢山の委員会があって、その委員会は何年も何年も続きます。おそらく10年以上続く委員会も珍しくなかったのだと思います。そんなに長期の研究なら、自分の研究室で生涯をかけて研究すればいいではないか。

学会で委員会を持つということは教授の縄張りなのです。その縄張りのまわりには、系列の研究者が群がっています。

東大の教授たちは決してその縄張りを離そうとしません。

これは一例にすぎませんが、確かに日本には既得権益に胡坐をかいている社会がたくさんあると思います。

 

アメリカに比べててみて、日本には「甘さ」が付きまとっています。

カナダへ

2度目の旅はナイアガラからモントリオールまでの旅です。

ビッツバーグから北上してバッファローからナイアガラに行きました。
エリー湖からオンタリオ湖へ満々と流れる川の上流から滝に近づきました。
写真でよく見る、しかし現物では初めて見る大きな滝です。
それまでナイアガラは森の奥深くにあるのだと思っていましたが、
周りにはたくさん建物があって、その意味ではすこし興ざめでした。

ナイアガラから川をはさんで向こうはもうカナダです。
入管ゲートを通りカナダの地に入りました。特に何の検査もなかったと思います。

実はカナダ側に渡ってから滝を見たのか、渡る前に滝をみたのかよく覚えていません。
地図をみると入管をすませてから、滝をみたのかもしれません。

アメリカはヤード・ポンド法ですが、カナダはメートル法です。
カナダの高速道路の制限速度がアメリカより高速で確か100K位で、
みんなブンブン飛ばします。
それに道がアメリカに比べでよくなく、
マナーもよくないので、アメリカで走っているより緊張しました。

カナダで最初に宿泊したのはトロントでした。
確か球形の展望台のある高い塔が印象的な街です。

ここで2歳になったばかりの下の息子が病気になりました。
妻は三日麻疹だと判断していました。

私はまず体温計を買いに薬局に行きましたが、
体温計を英語でなんというのが分かりません。
確か[Temperature]とかなんとかいったと思いますが、
何とか通じて引出の奥から体温計を探し出してくれて、
「お代は良いよ」みたいなことで、無料でもらったと思います。

大きな病院に連れて行きましたが、
息子は乳児の時おしりにおできができて、
医者が麻酔もせず手でつぶした時の痛みを覚えていて、
白衣を見るとギャーギャー泣き叫びます。

「三日麻疹だと思う」という英語も分からず、
どんな治療をしてもらったのかも忘れましたが、
多分妻の診断通り熱も下がり、様子を見ながら旅をつづけました。

旅は大人の(私の)ペースしか考えていないで、
1日500K位の移動は幼い息子たちには苦痛のようで、
いつもいつも後ろの席で喧嘩していました。

オタワを経由してモントリオールまでいきましたが、
モントリオールに行った理由は、
何年か前に開催された万博で作られたフラー・ドームを見たかったからです

川の中州に建てられていて、川の対岸からは見たのですが、
カーナビなどない時代でしたので近づく道が分からないし、
また病気の息子も気がかりでしたので、遠目で見ただけで済ましました。

ガラス張りのまん丸いドームは思ったより小さい印象を受けました。
ここをクリックしてください)。

モントリオールからの帰りに、ニューヨーク州のイサカに寄りました。
最初期の3次元アニメを作成したコーネル大学があったからです。
その年の前年にオハイオ州立大学で開催された研究会で、
コーネル大学のグリーンバーグ教授が発表した、
大学の構内を移動する3次元アニメは大変衝撃的で、
初めて聞いたコーネル大学がどんなところにあるのか見たかったのです。

研究会の前日ホームパーティがあって、
カーネギー・メロン大学のイーストマン教授が、
日本から研究者が来ていると話したのかも知れません。
気難しそうなグリーンバーグ教授は講演の中で、
「3年すれば日本が追いついてくるし、
5年すればドイツが追いついてくる」(年数については記憶があいまいです)
のようなことをいっていましたが、
今や全世界で3Dグラフィックは「普通」になってきました。

帰途、モントリオールからオンタリオ湖に続く美しい川沿いの道を進み、
オンタリオ湖の手前で南下して、人家もないようなところを何マイルも走って、
とても神秘的な湖のほとりの「ど田舎の」高台にその町と大学はありました。
研究室に寄りたい気持ちもありましたが、気難しそうな教授の顔を思い浮かべて、
研究室には寄りませんでした。
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アメリカへ行って感じたことは、
日本では「何がなんでも、東京にいかなければダメ」のような、
全てにわたって中央集権国家ですが、
「アメリカはまったく逆だな」ということです。

グラフィックで有名なユタ大学も(私は行きませんでしたが)、
大都市からは遠い町(ソルトレークシティ)にあります。
アメリカからの帰りに寄った、スタンフォード大学も町から離れたところにありました。
ここをクリックしてください

日本は日本人は大きなものに寄りかかろうとしますが、
アメリカ人は独立心が強く、
自分の信念に従ってやっていくという精神構造は見習わなければいけない。
と深く感じました。

それも随分昔のことです。

私の人生に少しは影響したかも知れません。

ワシントン旅行

暖かくなってドライブ旅行に出かけました。

最初はワシントンまで、確か1週間程度の旅でした。

ピッツバーグから対向車線との間に広々とした緑地がある高速道路を東にとって、
そのままワシントンには入らず、
バージニア州シェナンドー国立公園の山並みを南下。
展望台からは美しい新緑の山々や谷を見ることができます。
遠目には桜に似たドックウッド(アメリカハナミズキ)がところどころ咲いていました。
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多分このあたりはジョン・デンバーが[Country Road]で歌った世界です。

[Country Road]の出だしの歌詞では、

Almost heaven, West Virginia.
Blue Ridge Mountains, Shenandoah river

(ウェスト・バージニア、天国のようだ。
ブルーリッジ山やシェナンドー川)

と歌っていますが、実際にはこれらの山河は殆どがバージニア州にあります。

(ここをクリックするとYouTubeで[Country Road]を聞くことができます)

(Wikipediaでみると、この美しい自然にも過酷な歴史があったようです)

山脈から東にそれてシャーロットビルに1泊しました(記憶があいまいです)。
第3代米国大統領ジェファーソンゆかりの地で、
バージニア大学がある文教都市です。
「学生が多かったな」という記憶があります。
ここをクリックしてください

そこからともかく合衆国の東の端の大西洋を見たくて、
リッチモンドをへてポーツマスまで行きました。
ポーツマスは歴史の教科書に出てきたような記憶があって、
それも東海岸にいった理由だったと思います。

ポーツマスは日露戦争の終結の条約をロシアと締結した土地です。

ポーツマスに至るとても印象的な道がありました。
記憶では片側1車線で真ん中にもう一車線ありますので、両側で3車線の道です。
何マイルあったのでしょうか、石畳の道で道の両側から大きな木が覆いかぶさっています。
木漏れ日の中を進むのはとてもハッピーな気分でした。

大陸の東の端ポーツマスは、実は大きなポトマック湾の入り口で、
湾の奥にワシントンがあります。
湾を挟んだ対岸にはデルマーバ半島が突き出ていて、
これはちょうど横須賀から房総半島をみているようの形をしています。
ポーツマスとデルマーバ半島の先端までは、
距離にしていくらもありません(およそ30Kmです)。

たまたま見かけた観光案内の看板に、ポーツマス(ノーフォーク)から半島の先端に向けて、
海底トンネルがあることが分かりました。

旅行の予定にはなかったのですが、
急遽この海底トンネルを通ることにしました。
周りになにもない海の上の橋をどんどん進んでいくと、海底トンネルに入っていきます。
(ここをクリックしてください)

今は日本にも東京湾等いくつかの海底トンネルがあり珍しくありませんが、
その海底トンネルはおそらく50年位前にはできていたのでしょう。
私は日本であちこち旅行したことがなかったし、
日本の事情も知りませんでしたので、
海の中を自動車が進むなど、大変驚きました。

対岸には田舎の漁村が点々とありました。
半島を北上すると自然保護区=サンクチュアリーがありましたので、
行ってみることにしました。
人気もないチンコテーグ島で野生の馬が生息していました。
アメリカの自然の一断面をみることができて、いつまでも印象に残っています。
ここをクリックしてください

そして念願の、鉛色した大西洋の海に触れることができました。どうでもいいことですが…

さらに北上して、片側何車線もある大きな橋を渡って、
ワシントンの北、アナポリスに入りました。

海底トンネルといい巨大な橋といい、
アメリカの高度な土木技術に痺れました。

ワシントンは桜が終わりかけていましたが、
オノボリさんよろしく、きょろきょろと、
ホワイトハウスやスミソニアン博物館や駆け足でまわりました。

多分2,3泊したと思いますが、細かいことは忘れてしまいました。

Falling Water 落水荘

ピッツバーグには外国からきた留学生を一般家庭が世話をするプログラムがあって、
私は「手違い」で二つの家族(スチュアート家とハーティ家)のお世話になりました。

スチュアート家の旦那さんの仕事は良くわからなかったのですが、
奥さんが「肝っ玉」母さん風で、「おじいさんだかが昔日本に来た」ような話でした。
古い家柄らしく(家名からして古風です)家は林の中の一軒家で、
確か100年以上前に建てたというとてもがっちりした木造の家でした。
夏に伺ったときは、庭に無数の蛍が飛んでいました。

ハーティ家は今風の中流の弁護士の家族で、
郊外の新興住宅地に住んでいました。
旦那さんが若い頃、日本に来て英語を教えていたということでした。

どちらの家からも、何かがあると呼んでくれて、
アメリカの家庭生活の一端を経験させてもらいました。

スチュアート家では、サンクスギビングデーに呼んでいただき、
七面鳥の家庭料理をごちそうになりました。

ハーティ家では、雪のクリスマスに呼んでいただきました。
明るい現代風の教会にいき、
「これはクリスチャンの行事だから、嫌なことはしなくていいよ」
と旦那さんがいってくれましたが、キリスト教のクリスマス・ミサを垣間見ることができました。
ミサの後は自宅に帰ってパーティーです。
隣近所と行き来して、楽しい幻想的なホワイト・クリスマスの夜を経験しました。

 

このブログでも書きましたが、私はもとはといえば建築家ですが、
30歳ころ色々考えて、人生の舵ををコンピュータの世界に切っていました。
カーネギー・メロンに行ったのも3D-CADの研究のためでした。

アメリカでも周りの人にその話をしたと思いますが、
ハーティ家の奥さんがピッツバーグ郊外にあるライトの有名な落水荘に連れて行ってくれました。

記憶によると、落水荘はビッツバーグのダウンタウンにある百貨店カウフマンのオーナーの別荘です。

今(当時)は個人ではなく、ピッツバーグ市が管理していました。
年間の見学人数も制限しているようでした。

どこをどう通って行ったかわかりませんが、
結構車を走らせて、森の中に落水荘がありました。
近くに隣家があるようなところではありません。

広い敷地で周りは雑木林だったと思います。
受け付けから少し歩いて、落水荘が現れました。
建築を志したものは誰でも知っている有名な建物です。

この家の部屋にはドアがありません。
高低の空間を巧みに配置した、
刺激的な建築です。

「屋上はこうなっているのか」とか
部屋の下を手の届くところに滝がしたたり落ちたりとか。
とてもとても感激しました。

(ここをクリックすると[Falling Water]のホームページをみることができます)