山本幸司「頼朝の天下草創」

頼朝は鎌倉幕府をどのようなものにしようとしたか、頼朝の死後、彼を引き継ぐ妻・政子や北条家、また源平合戦での功労重臣が、どのように鎌倉幕府を作っていったか、あるいは離反(=滅亡)していったか、山本幸司「頼朝の天下草創」(講談社 日本の歴史、2001年)は、鎌倉幕府の草創から、最盛期の北条時頼(1250年中葉)までの政治動向を解説しています。

この本の最初に、頼朝のひととなりを描写していますが、結論からいえば私は納得しない。

理由は、筆者の主観が入りすぎていて、いくつかの事例をひいて、頼朝を天才に仕立てているからです。

私は頼朝は革命家だと思うが、それを一個の天才のなせる業にしては元も子もないと思います。

1180年、以仁王の挙兵。義仲、頼朝の挙兵。
1185年、平家が壇ノ浦で壊滅的敗北。
1189年、奥州で義経自害。藤原泰衡討たれる。
1190年、頼朝上洛。
1192年、後白河上皇死去、頼朝が征夷大将軍就任。
1198年、後鳥羽院政始まる。
1199年、頼朝死去。

平家打倒を掲げて10年、目的を達し、念願の上洛を果たした頼朝は、1192年征夷大将軍に就任します。

昔、私たちはこの年を鎌倉幕府成立年と教わりましたが、今は、鎌倉幕府の成立年を何時とするか諸説あるようです。

専門家は「○○をもって幕府成立と考えるべき」と議論していますが、私達素人は、取り敢えず80年代の中葉には、幕府が発足したと考えておきましょう。

 

さて、頼朝は、義経を討ち奥州藤原を討って、当面の敵をすべて排除しますが、もちろん朝廷を蔑ろにはできません。

朝廷と鎌倉の関係がどうであったか、私は正確には理解していませんが、基本的には朝廷はそのまま温存し、これとは別の武士の全国組織を作ります。

律令制度は中国の制度を見習ったもので、複雑で高度でしたが、鎌倉幕府の諸制度は、シンプルで実務的なものです。

主な機関を挙げると次のようなものです。

中央は将軍とそれを補佐する執権、連署で構成、その下部組織として政所(財政)、侍所(軍事、警察)、問注所(訴訟)、京都には京都守護、六波羅探題を置き、地方には守護、地頭、九州には鎮西奉行、奥州には奥州総奉行を配置します。

主だった政務は、将軍とこれを補佐する執権、連署からなる評定会議で決定します。

1199年頼朝は急死します。
諸説あるようですが、落馬が原因と言われています。

頼朝の死後1202年、長男頼家が征夷大将軍に任命されますが、彼は凡庸だとして、家臣団から信頼されません(ただし、この当時の史料がすくなく、真実は藪の中のようです)。

頼朝なきあとの様々な難しい政務を抱え、頼家ではこの難局を乗り切れないと判断した 政子は、頼家に引導をわたし出家を強要、頼家の弟・12歳の実朝を将軍につけ、その実務者として政子の実父・北条時政が執権職につきます。

その後、この時政も政子と衝突、幕府を追われ、政子は甥の泰時を第三代執権につけ、二人で実朝を補佐します。

1219年、実朝がかつて政子に排除された二代将軍頼家の子・公暁に誅殺されると、実朝に子がいなかったので、源氏嫡流は途絶えます。

政子は天皇家から将軍を迎えようとしますが、時の後鳥羽上皇に拒否され、やむなく源氏との血縁のある幼少の摂関家・九条三寅(後の藤原頼経)を迎え、その後見人として政子が将軍の代行をします。

このとき、政子が描いた政治の構図は、京都から傀儡の将軍を頂き、北条氏が執権として実権を握る、源氏・北条家に血のつながりのある女を祭祀の主役にする、というもので、政子が重視したのは、女の力すなわち政略結婚で幕府の安泰を図ることでした。

政子の孫(2代将軍頼家の娘)竹御所を4代将軍頼経に、北条時氏の娘・檜皮姫を5代将軍に嫁がせます。

頼朝のカウンターパートであった後白河の後を継いだ後鳥羽は、王政復古を目指し準備します。すなわち、元々京には皇室を護る北面の武士がいましたが、後鳥羽は西面の武士も組織します。

後鳥羽は、実朝暗殺のどさくさを好機とみて兵を動かしますが、安直な後鳥羽の情勢判断は、政子のもとに一致団結した鎌倉武士に一たまりもなく粉砕され、沢山の京側武士は処刑、後鳥羽以下の貴族も配流されます(1221年、承久の乱)。

後鳥羽は王権の復活を願った筈が、逆に朝廷と幕府の力関係がはっきりして、国の政治は鎌倉主導になります。

1225年、政子逝去。
藤原頼経が8歳で4代将軍になります(1226年)。

三代執権泰時は人望も厚く、これまで続いた独裁政治を改め、評定衆による合議を基本に、集団的指導体制をとります。

開幕以来、鎌倉幕府に平穏な日々はなく、騒乱に次ぐ騒乱が続き、頼朝と共に戦った、梶原景時や千葉氏も幕府から排除されます(1200年:梶原景時の変、1203年:比企能員の変、1205年:牧氏事件、1213年:和田合戦)。

当時の騒乱の解決は、当事者の武力による決着すなわち私戦が主流でしたし、幕府が裁定するときは将軍の即決が基本でした。

泰時は紛争に公平性、一貫性の裁定が必要と考え、1232年、武家法・御成敗式目を制定します。

この式目は、首尾一貫したものではありませんが、実情に合わせた簡潔なものでした。

泰時は病を得て退官出家し、泰時の孫北条時頼が第五代執権に就任(1246年)、時頼は鎌倉幕府の最盛期を築きます。

すなわち、時頼は泰時の執権政治を継承、司法制度の充実に力を注ぎ、1249年裁判の公平化のため、引付衆を設置します。

同時に、執権権力の強化にも努め、1246年時頼の排除を企てた前将軍・藤原頼経と名越光時一派を幕府から追放(宮騒動)、1247年には有力御家人である三浦泰村の一族を討滅(宝治合戦)します。

1252年、幕府への謀叛に荷担したとして、頼経の子・将軍藤原頼嗣を廃し、代わりに宗尊(むねたか)親王を新将軍として迎えることに成功します。政子が希望した天皇家からの将軍です。

これ以後、親王将軍(宮将軍)が代々迎えられますが、親王将軍は幕府の政治に参与しないことが通例となり、その分北条宗家は権力を集中します。

その後、時頼は、病のため執権職を北条氏支流の北条長時に譲りますが、実権は自分が握り続け、あたかも院政のような政治形体を作り上げました。(得宗専制)

 

NHKスペシャルで司馬遼太郎の「この国のかたち」を放映していました。日本・日本人の精神構造がどのようにして形づけられたか、というテーマで、大変興味をもっていましたが、期待外れでした。

律令時代、民は搾取されていたが、武士はいわば武士道精神で庶民に思いやりをもって接した。

という話がありましたが、少なくとも、江戸になるまで、日本に平穏な日々はなかった、と私は思います。

鎌倉時代は、頼朝の時代、それ以降の北条の時代、血で血を洗う闘争の連続です。私は「ヤクザの抗争と何も変わらない」というイメージを払拭できません。

庶民は朝廷と鎌倉から二重の抑圧に苦しみ、深刻な飢饉に見舞われています。何度も人身売買の禁止令を出すほどです。

司馬がいうように「名こそ惜しけれ」と行動した人がどれほどいたか。私はリアリティを感じません。

現実は悲惨で、だからこそら奈良や京都の大寺院の戒律主義ではなく、民衆(武士も含めて)の苦しみに寄り添った法然や親鸞や日蓮や鎌倉仏教に、
多くの人々が帰依したと思います。

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