そもそも慧海は仏教を勉強するために来たのです。
もし「政治に関心がある」とチベット人に疑われると、国際探偵(スパイ)だと間違われる恐れがあるので、チベットの政治を表立って調べることはしませんでした。
それでも、身近に接した範囲で政治体制について述べていて、十分に貴重なレポートになっています。
チベット旅行記は1904年(明治37年)に出版されますが、慧海自身による英語版が5年後の1909年に出版されています。恐らく、西欧列強特にイギリスは慧海の報告に強い関心があったと思われます。
慧海がチベットに滞在した時期は、世界的にみれば、帝国主義の嵐が吹き荒れる真っ只中で、シナは日清戦争で破れ国力を落としていました。
その後極東では、ロシアは朝鮮半島への南下を試み日本と激突しますが、当時チベットへの南下も試みていて、インドを植民地にしていたイギリスとの軋轢を生じ、イギリスはロシアの動向に神経を尖らせていました。
最初、チベットの鎖国はさほどを厳しくありませんでしたので、イギリスはキリスト教をチベットに布教しようとしました。
しかし、インドをはじめ東南アジアの国々が植民地化されていくのをみて、チベットは「キリスト教の布教に続いて軍事介入をする」帝国主義の常套手段を警戒します。
チベットとインドとの国境にシッキムという地方があります。慧海滞在の20年前、この領有権をめぐって、チベットとイギリスが衝突し、いっきにチベットはイギリスに対する態度を硬化させ、鎖国を強化します。
ただし、政治的な鎖国は厳しかったですが、経済的な交流は結構緩く、インド、ネパール、ブータンそしてシナ等と貿易をしていました。
さて、法王は世襲ではありません。長老や占い師が、全国から原石の少年を探し出し、時間をかけて法王に育てます。
従って、法王は絶対的安定的権力をもっていなかったのです。
法王庁は権力争いの場であり、法王は常に命の危険に曝されています。当時のダライ・ラマ13世の前、8代から12代の法王はすべて毒殺されています。そのため13世は用心深く鋭い政治感覚をもっていたと、慧海は述べています。
チベットは封建制であり、同時に郡県制の側面もありました。
国に功績のあった華族が、領土をもらって領主になっていますが、同時に知事が任命されて、知事も租税の徴収をしたので、平民は二重の搾取をうけていることになります。
チベットの国境はどこにあったのかよく分かりませんが、アムドやカムはチベットの一地方だったようです。アムドからは新仏教を興した教祖が生まれていますし、一方のカムは強盗の国だと慧海はいっています。
現在アムドは中国領青海省、カムは同じく四川省の一部になっています。
当時のチベットは、シナやモンゴルと深い関係にあったようですが、どのようなものであったか詳細には分かりません。恐らく、バチカンとイタリアの関係に似ていたと思われます。
慧海は、モンゴルとの関係は殆ど書いていませんが、シナとの関係について次のように書いています。
チベットはシナの属国であった。すなわち、チベットはシナに税金を納め、シナはチベットを保護する関係にあった。
但し、チベットは毎年シナの皇帝のために大祈祷会を開いていて、この費用が莫大で、税金に相当するとして、実際には納税しなかった、
しかも、日清戦争でシナの弱体が露見すると、シナの皇帝からきたお触れもチベットの人々は無視する状況になっていた。と慧海は述べています。
シナが弱体化し、チベットへの影響力が弱くなったことにつけ入り、ロシアが工作します。「チベットはロシアと密約を結び、ロシアから大量の鉄砲を譲り受けた」
という噂を聞きます。
ロシアはキリスト教の一派=ロシア正教の国ですが、うまくごまかして、イスラムの亜流だと思わせていたようです。
当時チベットの人口は600万人で、兵士の数は5000人ということです。兵士の数が少ないですが、仏教という価値観がそれを補っていたので、国内治安の観点からは、それで十分だったのでしょう。
しかし、対外的にみればチベットの武力は脆弱で、ネパールとはたびたび武力衝突を起こしたが、勇壮なネパール人部隊に太刀打ちできず、この意味からも、ロシアから武器の供与を受けたのだろう、と慧海は見ています。
いずれにしても、弱小チベットはロシアとイギリスの狙うところでした。
一方で、現在の「チベット問題」の主役のシナの影は、この時期相当に薄れていました。