シーボルト

前回シーボルトの[江戸参府紀行]をご紹介し、その中で「シーボルトは胡散臭い」のようなことを書きました。

アマゾンで注文していた「文政11年のスパイ合戦」(秦新二、文芸春秋1992年、以下[スパイ合戦]といいます)が届きましたので、読んでみました(中古本で送料別で251円でした)。

私のカンは当たっていました。

 

シーボルトが持ち帰った資料は膨大なものでしたが、いつしかその資料は顧みられなくなり、ヨーロッパの各所に散乱していました。

シーボルトに関心をもっていた著者は、それらを探し出し整理し、シーボルト事件の本質を推理します。平成4年日本推理作家協会賞を受賞しています。

この本によると、シーボルトはただのオランダ商館付の医者ではなかったのです。
アジアでの勢力争いをしていたオランダが、唯一オランダとの貿易を許していた日本を調査することは、オランダだけにできたのであり、これを利用しない手はなかったのです。

日本調査の適任者を探しましたが、オランダ人の中からは見つけることができず、名門の出であり、すでに高い評判を得ていた26歳のドイツ人医師シーボルトに白羽の矢をあてます。

オランダ・ウィレム一世の命を受けて、シーボルトは国王直属の軍医少佐に任ぜられ、東インド会社(オランダ貿易会社)付の医師としてジャワに向かいます。

シーボルトは日本調査に必要な費用をいわば無制限に約束され、その支給は東インド会社からではなく、ジャワの蘭印政庁からのものでした。

彼はジャワ・バタビア(現インドネシア・ジャカルタ)で準備万端整えて、日本にやってきます。彼はオランダ商館付医師としての顔の他に次のような任務を持っていたのです。

博物学的調査
日蘭貿易戦略調査
軍事・戦略調査

私の「なぜ?」はこれで分かりました。
「なぜ彼は若いのにあんなにお金をもっていたのか」。
「なぜあれほど、執拗に日本の地理をしらべたのか」。

 

そして結局「シーボルト事件」を引き起こします。

[スパイ合戦]の記述を参考にして、もう一度シーボルトの日本での行動を簡単に整理します。

シーボルトは日本に来てすぐに、出島で医者としてのデモンストレーションをします。

シーボルトの腕はすぐに評判になり、多くの蘭学志向の医者が教えを乞いに来ます。

長崎奉行は特別に許して、シーボルトに「鳴滝塾」の開設を認め、ここには多くの優秀な日本の医者が集い、その輪が瞬く間に広がっていきます。

シーボルトはここに集まった学者を利用して、日本の動植物を集めさせ、日本の様々な事柄について、オランダ語の論文を書かせて日本の情報を収集していきます。(後にこれらをもとにヨーロッパの学会で自分の論文として発表しています。セコイ)

また、写真のない時代ですから、日本人画家・川原慶賀を雇い1000点以上の様々な絵を書かせ、更には多くの模型(橋の模型は禁制です)を作らせています。

シーボルトに群がったのは、若い学者だけではなく、オランダかぶれの大名([蘭癖大名]といわれました)もいました。

その最右翼が将軍家斉の正室の父親・島津重豪(しげひで)です。重豪は当時80歳近くの高齢でしたが元気で、シーボルトには江戸で数回長時間会っています。

 

私はシーボルトの[江戸参府紀行]を読んで感じたのは、僅か30歳程の若者に、「どうしてみんないともやすやすを協力したのだろう。危険を感じなかったのろうか」
「日本人はお人よしというか、外人に弱いというか。どうなっているのか」と思います。(でも、鎖国状態の日本の知識人にとっては、シーボルトは掛け替えのない情報源だったのでしょう)

それとシーボルトは日本人を甘く見ていたのか、あるいは「若かった」というべきか、「はしゃぎ過ぎだろう」と思いますし、彼の行動をみていると、誰だって「どう見ても医者の仕事を逸脱している」と思うだろうということです。

 

彼がジャワに帰ろうとしたとき、事件が起きます。当時、国外持ち出し禁止であった地図や多数の禁制品がシーボルトの荷物から出てきます。シーボルト事件です。

 

[スパイ合戦]はこの事件の深層を探ります。

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