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伊藤正敏 「寺社勢力の中世」

前回ご紹介しました呉座勇一著「応仁の乱」の中で、当時寺社が大変大きな力をもっていたと述べていましたので、もう少し具体的にその内容を知りたいと、伊藤正敏著「寺社勢力の中世」(2018年、筑摩書房)を読みました。

内容に入る前に…
呉座勇一「応仁の乱」もこの本も大変読み難いと思っていましたら、
先日、WEBで偶然、東大の本郷和人教授の「15分で分かる日本中世史」という記事を見つけて読んでみました。

先の大戦後、戦前の日本史の研究が自己批判したとき二つの論調があった。一つは皇国史観批判であり、もう一つは網野史観だそうです。

当時石井進や網野義彦がトップランナーとなって、この潮流を引っ張り、日本史は盛んに研究され、史料も整備され、データベース化も進んだが、その「祭りの後」、トップランナーも逝去してしまい、日本史研究は方向性を見失ってしまった。
多くの論文は、データベースの資料を繋ぎ合わせているだけで、新たな歴史学の方向性が見えてこない。

のような話が書かれていました。

なるほど、呉座勇一「応仁の乱」も今回の伊藤正敏「寺社勢力の中世」もまさにその通りではないかと私は思いました。史実の羅列が多すぎて素人の私には味気ない思いが強く残りました。

その上、本書「寺社勢力の中世」は、上記の読み難さと合わせて著者の突然の「ドヤ顔」的記述が度々でてきて、以前ご紹介した、倉山満「ウェストファリア条約」ほどではないにしても、見たくもないドヤ顔にはウンザリ・食傷です。

 

最初にケチをつけておいて、内容です。
話題ははおおいに興味を惹くものです。

私たちは、歴史の教科書では、ビッグネームの政治的、文化的動向・業績を学びますが、一般庶民はどのような暮らしをしていたかはよく知りません。ただぼんやりと、「昔の人」といえば、昭和や明治や時代劇にでてくる江戸時代の人々を想起しますが、本当はどうなのでしょうか。
特に、中世の人々は私たちの「昔の人」についてのステレオタイプとは大分違う生活をしていたのはないでしょうか。

 

奈良・平安の律令制時代は、中央集権国家でしたので、戸籍が作られ、戸籍に基づいて、税とか兵役が課せられていたと理解していますが、いったいその時代にも中央政権の力がどの範囲まで及んでいたのか、政権から離れて生活していた人々はどうしていたのか。中央から遠く離れた東北や九州ではどのような生活をしていたのでしょうか。

律令制度が崩れていった平安時代以降、人々は政権とどのような関係を持っていたのか、とても興味があります。
税を納めていたのはだれか。もちろん公領や荘園で生活していた農民は税を払っていたのでしょうが、これらの農地でないところで生活していた人々は沢山いたのでしょうし、戸籍もない時代、誰がどうして税を納めたのか、納めなかったのか。

本書では、政権に組み込まれた社会的関係を「有縁」、これから外れた関係を「無縁」と言っていると思います。本書では、次のように説明しています。(但し、ここでいうありとあらゆる関係の切断はあり得ないだろうと思いますが)

「無縁」という言葉には、すべての人間関係が断ち切れ、個人と世間とのありとあらゆる縁が切れた状態、という意味がある。この「世間」には個人対個人の人間関係ばかりでなく、個人対組織、個人対権力や個人対法という関係も含まれる。

そして、本書では中世の「無縁」とりもなおさず寺社勢力がいかに大きな力を持っていたかを、詳しく論じています。

議論に入る前に最初に理解しておかなければいけないのは、中世の神仏習合についてです。比叡山や興福寺は当初国策として建立されましたが、やがて変質していき神社も併せ持つことになります。延暦寺は日吉大社および祇園社(八坂神社)を、興福寺は春日社を建立します。

延暦寺
延暦寺 WEBから借用

延暦寺も興福寺も特に祇園会や春日大社の大祭を通じて門前町を発展させ、商売や金融業も盛んになります。寺社の下級従業員=行人・神人は直接間接にこれらの仕事につき、人数的にも勢力的にもさらには武力においても大きな力を持つことになります。
寺社は時の権力にも逆らい、意にそぐわないときは日吉社や祇園社の神輿を担ぎだして強訴します。神輿には特別の意味合いがあり、当時の人々・為政者は大変恐れます。

頼朝が平家討伐に功績のあった義経の追討令を出した時、義経は延暦寺や吉野の寺社を転々と逃げまわります。当時これらの寺社は、中央権力から身を隠すには一番安全な場所だったのです。国家権力は寺社に「義経を差し出せ」と脅すことはできましたが、直接寺社の領域に立ち入ることができなかったのです。これを不入権といいます。

寺社は有縁の権力が及ばない無縁所の一つです。

中世には他にも様々な無縁所がありました。
上記の寺社や一向一揆・法華一揆の村、堺や博多の自治都市が無縁性の強い場所ですし、権力からある程度の介入を許した寺社もあったし、逆に辺境のだれの領地でもない山野河海の地も無縁の土地でした。

無縁所はもちろん行き場を失った庶民たちの駆け込み寺になっていましが、その特徴は、「平等」、「自由」、「平和」および「民衆的性格」だといいます。

本書では、無縁および無縁所について饒舌に語っていますが、整理されていなくて(著者は十分整理されていると思っているのかも知れません)、文脈の前後関係がどうつながるのか分からなくて、「いったい何が言いたいの」と混乱します(饒舌すぎる)。

 

時代が下って、戦国時代になると、領主は戦力増強の必要性から領国の隅々まで管理しましたから、このような無縁所を許すわけにはいきません。最も象徴的なのは、信長の延暦寺焼き討ち、一向一揆、石山本願寺の徹底的な弾圧です。
そして、秀吉の刀狩による無縁所の武装解除で無縁所としての役割を根本的に奪われていきます。

 

この本で、日本における無縁所の意義は理解しましたが、私は本書の語り口が嫌いで、多分その結果として、「無縁所」の消化不良を起こしています。機会があれば、もう少し勉強したいと思います。

呉座勇一 「応仁の乱」

2,3年前に、呉座勇一著「応仁の乱」(2017年、中央公論社)がアマゾンで高評価だったので、私も買ったのですが、そのまま積読していて、先日ようやく読了しました。

読み始めると、地名、人名、年号がやたらに沢山出てきて、主だった固有名詞だけでも、とてもじゃないが記憶できなくて、何度も何度もページを遡る始末です。専門的論文なら当然「あり」なのでしょうが、一般向けの教養書としては、「どうなのかね」と思います。

多分私はこの本の真の価値を理解していないのだと思いますが…

 

応仁の乱は足利将軍義政の治世に、将軍家および幕府重臣のお家騒動が、連鎖反応を起こし、
10年以上京都の町を騒乱に巻き込み、焦土と化し、
その間打つ手のない将軍義政は、政治に本腰を入れることなく、
「わび」だ「さび」だと風流を決めこみ、連日の歌会や飲み会に庶民を苦しめたと理解しています。

 

さて、本書ですが、本書が従来の説と大きくは異なったことを書いてはいないと思いますが、新規なのは応仁の乱を奈良、興福寺の視点から考察している点だと思います。

WEBから借用

関西在住で奈良に親しい人は良く知っているのでしょうが、一般には興福寺がどこにあるか知らない人も多いと思います。
興福寺はJR奈良駅から東に向かって東大寺方向に進むと、その途中右手にあります。
私たちにとって、奈良といえば東大寺ですが、平安から室町時代に至るまで、興福寺は東大寺よりも大きな権力をもっていたようです。

興福寺は最初藤原家の氏寺として整備されますが、720年官寺に列せられ、国家的法会が行われるようになると、
藤原家の氏寺であると同時に時の政権からも重要視されます。

西暦1000年頃摂関家・藤原家は絶頂期にありましたが、下って1086年白河上皇が院政を始めると、藤原家の地位が低下。
藤原家は危機感を持ち、興福寺との関係を強めていき、興福寺のトップ=別当には藤原家の嫡流の子息を送り込みます。更に上皇が官寺である興福寺の人事権にまで関与するようになると、興福寺は反発し、軍事力を強め、必然的に興福寺の僧兵が台頭してきて、興福寺の外の動きにも関与し始めます。一例としては保元・平治の乱や清盛のクーデターにも一定の影響力を持ったようです。

このように強い力を持った興福寺は戦国時代に至るまで、大和国の実質的な守護になっていました。

 

興福寺には100を超す院家(いんげ)や坊舎(ぼうしゃ)があったようですが、
この中で一乗院と大乗院が門跡(もんぜき)といわれ最も格式が高く、その他の殆どの院坊はいずれかの門跡の傘下に入りましたので、ここを征する者は傘下の寺院およびその荘園財産を支配することになります。

私は、寺院の構成を知りません。
興福寺には、支流のような寺院=子院が沢山あるということなのでしょうか。

藤原家は鎌倉時代には五摂家といわれる五つの流に分裂しますが、そのうち近衛家は一乗院を九条家は大乗院に子弟を送り込み院主の座を確保、棲み分けが成立しますが、今度は興福寺トップの座を争って一乗院と大乗院が武力衝突を繰り広げます。

 

興福寺が抱える沢山の僧兵は興福寺を中心に大和地方に分散して、党を組んで生活していました。
本書では、これらの党派が何年何月何日にどのような衝突を起こしたかと、事細かく書いていますが、私にはとてもじゃないが追いきれません。ともかく、興福寺は内部的に軋轢の構造を持ち、将軍家=幕府に影響を与えたと同時に将軍家=幕府の介在をもろに受けていたと理解します。

 

九条家経覚(きょうがく)は、1411年大乗々院主、1426年興福寺別当に就任。経覚は積極的な性格だったらしく、大和および幕府への働きかけを沢山しています。将軍義政に重きを置かれたり、怒りを買ったり、人生波乱万丈であったようですが、1441年一条兼良の息子尋尊が興福寺の別当につき、九条家の命脈はつきたようです。この本では、経覚の言動には沢山のページを使っていますが、尋尊については多くを語っていません。尋尊は慎重で几帳面な人だったようです。

この経覚と尋尊は詳細な日記(経覚は「経覚私要鈔」、尋尊は「大乗院寺社雑事記」)を残していて、本書は多くを二人の日記から即ち彼らの目から見た応仁の乱を書いています。

 

確かに、興福寺は応仁の乱にも影響したのでしょうが、それをどれだけ重視しなければいかないのか。東国や中四国の国々、九州の国々からの影響に比べてどれほどのことであってのか、よく理解できませんでした。

本書を読んで一つ印象に残ったのは、興福寺が強力な力を持ち、この地方での騒乱の張本人であったことが、結局他国からの侵略を食い止めた、従って奈良は京都のような荒廃を免れたということです。