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関幸彦「武士の誕生」、石井進「中世武士団」

巷では中世史の勉強が流行のようですが、私がその流行にのっかったのではなく、
数年前にたまたま、将門に興味を持って気楽に歴史を勉強し始めたのがきっかけだったのですが、
将門から下って中世史を勉強していると、
「江戸時代はなんとなく分かっているような気がするが、中世については何も知らなかったな。
それにそもそも日本人の精神構造の基盤を作ったのは、中世ではなかったのだろうか」と思うようになり、ますます中世史に興味を持ってきたのが実情です。

 

昨年からの流れのなかで、以下の本を読みました。

関幸彦「武士の誕生」(日本放送出版協会、1999年)
石井進「中世武士団」(講談社、2011年、初版は1974年)
藤木久志「新版・雑兵たちの戦場」(朝日新聞社、2007年)
黒田基樹「百姓から見た戦国大名」(ちくま新書、2016年)

そのほか関連本で、永原啓二「荘園」と網野義彦「無縁・公界・楽」も面白ろそうなので、購入していて早くそちらに移りたいのですが、
その前に既に読んだ本を忘れないうちに感想文を書いておこうと思います。

 

関幸彦著「武士の誕生」は、坂東に視点をすえて、8世紀後半から12世紀の鎌倉幕府頼朝の時代まで、
「怨乱」、「反乱」、「内乱」の3章を立てて論じています。
それぞれ蝦夷の騒乱と中央政権の対応、平将門の乱と平家一門の動き、平忠常の乱と源頼信による制圧とその後の源氏の成長について、古文書を見せながら語っています。
土地に根ざした豪族が武装して武士になっていったとする従来の説に真向反対し、
中央の軍事貴族が政権と緊密に連絡をとりながら東国に勢力をのばしていったのだという立場を力説していると思います。

「つわもの」の変遷を時代を追って説明し、この点は分かりやすいのですが、その語り口には大変違和感を持ちます。
ことさら難しい言葉遣いをして、また文学的表現をする必要があるのか。まったく理解に苦しみます。

以前ご紹介した、下向井龍彦著「武士の成長と院政」の方がはるかに分かりやすい。

 

石井進著「中世武士団」は、中世武士団の生態をできるだけ生き生きと活写しようと心がけたと思います。語り口は関とは真反対にです。
題材は、沢山の古文書(「延喜式」や日記等)、「吾妻鑑」や「今昔物語」や「曽我物語」や「宇治拾遺物語」等の身近な伝説を十分検証しながら取り上げています。

「はじめに」で登場するのは、大佛次郎の「乞食大将」が描いた後藤又兵衛と宇都宮鎮茂(しげふさ)。
秀吉に国替えを命じられた豊前国城井谷(きいだに)の城主・宇都宮鎮茂はこれを拒否。
怒った秀吉は新城主黒田長政に鎮茂誅殺を命じます。
頑強な城井谷城の攻略に手を焼いた長政は、後藤又兵衛に騙し討ちを命じます。
200年続いた名家は滅亡。無言の抗議として国を捨て乞食大将になった又兵衛。
中世武士の典型をみます。
すなわち、移封を当然と受け入れ「鉢植え大名」と言われる江戸時代の武士とは違って、
中世武士がどれ程強く自分の土地に執着したか。

本文でとりあげた歴史上の事件や事象は、曽我物語と鎌倉武士の生態、平将門(将門記)と常陸平氏の変遷、
現広島県東部・三原に勢力をはった小早川一族の攻防、一乗谷発掘を通してみる朝倉家の様子等です。

これらを、古文書(政府や各地に散らばる公式な文書や日記)や当時から語られてきた説話や物語、
更には、発掘で分かってきた遺跡から当時の生活を解き明かそうとします。

但し、取り上げた話は、時系列的ではなく、著者のそれなりの趣向(私にはわかりません)によって、
時には時間を遡って語っています。

伊藤正敏 「寺社勢力の中世」

前回ご紹介しました呉座勇一著「応仁の乱」の中で、当時寺社が大変大きな力をもっていたと述べていましたので、もう少し具体的にその内容を知りたいと、伊藤正敏著「寺社勢力の中世」(2018年、筑摩書房)を読みました。

内容に入る前に…
呉座勇一「応仁の乱」もこの本も大変読み難いと思っていましたら、
先日、WEBで偶然、東大の本郷和人教授の「15分で分かる日本中世史」という記事を見つけて読んでみました。

先の大戦後、戦前の日本史の研究が自己批判したとき二つの論調があった。一つは皇国史観批判であり、もう一つは網野史観だそうです。

当時石井進や網野義彦がトップランナーとなって、この潮流を引っ張り、日本史は盛んに研究され、史料も整備され、データベース化も進んだが、その「祭りの後」、トップランナーも逝去してしまい、日本史研究は方向性を見失ってしまった。
多くの論文は、データベースの資料を繋ぎ合わせているだけで、新たな歴史学の方向性が見えてこない。

のような話が書かれていました。

なるほど、呉座勇一「応仁の乱」も今回の伊藤正敏「寺社勢力の中世」もまさにその通りではないかと私は思いました。史実の羅列が多すぎて素人の私には味気ない思いが強く残りました。

その上、本書「寺社勢力の中世」は、上記の読み難さと合わせて著者の突然の「ドヤ顔」的記述が度々でてきて、以前ご紹介した、倉山満「ウェストファリア条約」ほどではないにしても、見たくもないドヤ顔にはウンザリ・食傷です。

 

最初にケチをつけておいて、内容です。
話題ははおおいに興味を惹くものです。

私たちは、歴史の教科書では、ビッグネームの政治的、文化的動向・業績を学びますが、一般庶民はどのような暮らしをしていたかはよく知りません。ただぼんやりと、「昔の人」といえば、昭和や明治や時代劇にでてくる江戸時代の人々を想起しますが、本当はどうなのでしょうか。
特に、中世の人々は私たちの「昔の人」についてのステレオタイプとは大分違う生活をしていたのはないでしょうか。

 

奈良・平安の律令制時代は、中央集権国家でしたので、戸籍が作られ、戸籍に基づいて、税とか兵役が課せられていたと理解していますが、いったいその時代にも中央政権の力がどの範囲まで及んでいたのか、政権から離れて生活していた人々はどうしていたのか。中央から遠く離れた東北や九州ではどのような生活をしていたのでしょうか。

律令制度が崩れていった平安時代以降、人々は政権とどのような関係を持っていたのか、とても興味があります。
税を納めていたのはだれか。もちろん公領や荘園で生活していた農民は税を払っていたのでしょうが、これらの農地でないところで生活していた人々は沢山いたのでしょうし、戸籍もない時代、誰がどうして税を納めたのか、納めなかったのか。

本書では、政権に組み込まれた社会的関係を「有縁」、これから外れた関係を「無縁」と言っていると思います。本書では、次のように説明しています。(但し、ここでいうありとあらゆる関係の切断はあり得ないだろうと思いますが)

「無縁」という言葉には、すべての人間関係が断ち切れ、個人と世間とのありとあらゆる縁が切れた状態、という意味がある。この「世間」には個人対個人の人間関係ばかりでなく、個人対組織、個人対権力や個人対法という関係も含まれる。

そして、本書では中世の「無縁」とりもなおさず寺社勢力がいかに大きな力を持っていたかを、詳しく論じています。

議論に入る前に最初に理解しておかなければいけないのは、中世の神仏習合についてです。比叡山や興福寺は当初国策として建立されましたが、やがて変質していき神社も併せ持つことになります。延暦寺は日吉大社および祇園社(八坂神社)を、興福寺は春日社を建立します。

延暦寺
延暦寺 WEBから借用

延暦寺も興福寺も特に祇園会や春日大社の大祭を通じて門前町を発展させ、商売や金融業も盛んになります。寺社の下級従業員=行人・神人は直接間接にこれらの仕事につき、人数的にも勢力的にもさらには武力においても大きな力を持つことになります。
寺社は時の権力にも逆らい、意にそぐわないときは日吉社や祇園社の神輿を担ぎだして強訴します。神輿には特別の意味合いがあり、当時の人々・為政者は大変恐れます。

頼朝が平家討伐に功績のあった義経の追討令を出した時、義経は延暦寺や吉野の寺社を転々と逃げまわります。当時これらの寺社は、中央権力から身を隠すには一番安全な場所だったのです。国家権力は寺社に「義経を差し出せ」と脅すことはできましたが、直接寺社の領域に立ち入ることができなかったのです。これを不入権といいます。

寺社は有縁の権力が及ばない無縁所の一つです。

中世には他にも様々な無縁所がありました。
上記の寺社や一向一揆・法華一揆の村、堺や博多の自治都市が無縁性の強い場所ですし、権力からある程度の介入を許した寺社もあったし、逆に辺境のだれの領地でもない山野河海の地も無縁の土地でした。

無縁所はもちろん行き場を失った庶民たちの駆け込み寺になっていましが、その特徴は、「平等」、「自由」、「平和」および「民衆的性格」だといいます。

本書では、無縁および無縁所について饒舌に語っていますが、整理されていなくて(著者は十分整理されていると思っているのかも知れません)、文脈の前後関係がどうつながるのか分からなくて、「いったい何が言いたいの」と混乱します(饒舌すぎる)。

 

時代が下って、戦国時代になると、領主は戦力増強の必要性から領国の隅々まで管理しましたから、このような無縁所を許すわけにはいきません。最も象徴的なのは、信長の延暦寺焼き討ち、一向一揆、石山本願寺の徹底的な弾圧です。
そして、秀吉の刀狩による無縁所の武装解除で無縁所としての役割を根本的に奪われていきます。

 

この本で、日本における無縁所の意義は理解しましたが、私は本書の語り口が嫌いで、多分その結果として、「無縁所」の消化不良を起こしています。機会があれば、もう少し勉強したいと思います。

呉座勇一 「応仁の乱」

2,3年前に、呉座勇一著「応仁の乱」(2017年、中央公論社)がアマゾンで高評価だったので、私も買ったのですが、そのまま積読していて、先日ようやく読了しました。

読み始めると、地名、人名、年号がやたらに沢山出てきて、主だった固有名詞だけでも、とてもじゃないが記憶できなくて、何度も何度もページを遡る始末です。専門的論文なら当然「あり」なのでしょうが、一般向けの教養書としては、「どうなのかね」と思います。

多分私はこの本の真の価値を理解していないのだと思いますが…

 

応仁の乱は足利将軍義政の治世に、将軍家および幕府重臣のお家騒動が、連鎖反応を起こし、
10年以上京都の町を騒乱に巻き込み、焦土と化し、
その間打つ手のない将軍義政は、政治に本腰を入れることなく、
「わび」だ「さび」だと風流を決めこみ、連日の歌会や飲み会に庶民を苦しめたと理解しています。

 

さて、本書ですが、本書が従来の説と大きくは異なったことを書いてはいないと思いますが、新規なのは応仁の乱を奈良、興福寺の視点から考察している点だと思います。

WEBから借用

関西在住で奈良に親しい人は良く知っているのでしょうが、一般には興福寺がどこにあるか知らない人も多いと思います。
興福寺はJR奈良駅から東に向かって東大寺方向に進むと、その途中右手にあります。
私たちにとって、奈良といえば東大寺ですが、平安から室町時代に至るまで、興福寺は東大寺よりも大きな権力をもっていたようです。

興福寺は最初藤原家の氏寺として整備されますが、720年官寺に列せられ、国家的法会が行われるようになると、
藤原家の氏寺であると同時に時の政権からも重要視されます。

西暦1000年頃摂関家・藤原家は絶頂期にありましたが、下って1086年白河上皇が院政を始めると、藤原家の地位が低下。
藤原家は危機感を持ち、興福寺との関係を強めていき、興福寺のトップ=別当には藤原家の嫡流の子息を送り込みます。更に上皇が官寺である興福寺の人事権にまで関与するようになると、興福寺は反発し、軍事力を強め、必然的に興福寺の僧兵が台頭してきて、興福寺の外の動きにも関与し始めます。一例としては保元・平治の乱や清盛のクーデターにも一定の影響力を持ったようです。

このように強い力を持った興福寺は戦国時代に至るまで、大和国の実質的な守護になっていました。

 

興福寺には100を超す院家(いんげ)や坊舎(ぼうしゃ)があったようですが、
この中で一乗院と大乗院が門跡(もんぜき)といわれ最も格式が高く、その他の殆どの院坊はいずれかの門跡の傘下に入りましたので、ここを征する者は傘下の寺院およびその荘園財産を支配することになります。

私は、寺院の構成を知りません。
興福寺には、支流のような寺院=子院が沢山あるということなのでしょうか。

藤原家は鎌倉時代には五摂家といわれる五つの流に分裂しますが、そのうち近衛家は一乗院を九条家は大乗院に子弟を送り込み院主の座を確保、棲み分けが成立しますが、今度は興福寺トップの座を争って一乗院と大乗院が武力衝突を繰り広げます。

 

興福寺が抱える沢山の僧兵は興福寺を中心に大和地方に分散して、党を組んで生活していました。
本書では、これらの党派が何年何月何日にどのような衝突を起こしたかと、事細かく書いていますが、私にはとてもじゃないが追いきれません。ともかく、興福寺は内部的に軋轢の構造を持ち、将軍家=幕府に影響を与えたと同時に将軍家=幕府の介在をもろに受けていたと理解します。

 

九条家経覚(きょうがく)は、1411年大乗々院主、1426年興福寺別当に就任。経覚は積極的な性格だったらしく、大和および幕府への働きかけを沢山しています。将軍義政に重きを置かれたり、怒りを買ったり、人生波乱万丈であったようですが、1441年一条兼良の息子尋尊が興福寺の別当につき、九条家の命脈はつきたようです。この本では、経覚の言動には沢山のページを使っていますが、尋尊については多くを語っていません。尋尊は慎重で几帳面な人だったようです。

この経覚と尋尊は詳細な日記(経覚は「経覚私要鈔」、尋尊は「大乗院寺社雑事記」)を残していて、本書は多くを二人の日記から即ち彼らの目から見た応仁の乱を書いています。

 

確かに、興福寺は応仁の乱にも影響したのでしょうが、それをどれだけ重視しなければいかないのか。東国や中四国の国々、九州の国々からの影響に比べてどれほどのことであってのか、よく理解できませんでした。

本書を読んで一つ印象に残ったのは、興福寺が強力な力を持ち、この地方での騒乱の張本人であったことが、結局他国からの侵略を食い止めた、従って奈良は京都のような荒廃を免れたということです。

 

 

司馬遼太郎 「箱根の坂」2

応仁の乱は通常、室町幕府の将軍家および重臣のお家騒動が発端のように思われますが、
実は関東の騒乱が応仁の乱の遠因になったと言われています。

 

鎌倉公方、古河公方、堀越公方

足利尊氏は関東統治のために、鎌倉府を設置し、その子・基氏に関東10か国の統治を任せ、
以来、鎌倉府の長官=鎌倉公方は基氏の子孫が引継ぎ、上杉氏が補佐役=関東管領として世襲していきます。

ところが、やがて鎌倉公方は室町幕府および関東管領と対立するようになり(上杉禅宗の乱、1415年)、足利持氏(もちうじ)が室町幕府内の不満分子と組んで、幕府に反抗的態度を続たことで、
足利将軍義政は関東管領・上杉憲実と与して持氏を敗死させます(1439年)。

その後持氏の遺児・足利成氏(しげうじ)が許されて鎌倉公方になりますが、1455年成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、
幕府・将軍義政と上杉家が、成氏と争いをはじめ関東地方一円に騒乱が拡大します(享徳の乱、きょうとくのらん)。

幕府方が鎌倉を占領すると、鎌倉公方=成氏は下総・古河城に逃れ、以降古河公方と言われます。
義政は新たな鎌倉公方として弟・政知を関東に送りますが、政知は成氏側の抵抗にあい鎌倉に入れず、
伊豆の堀越御所に根拠を定めたので、堀越公方と呼ばれます。

延々28年間続いた騒乱も、1483年成氏が幕府に和議を申し和解し、成氏が引き続き関東を統治する一方で、
伊豆の支配権は政知に譲ることになりました。
すなわち、堀越公方=政知は関東統治ではなく伊豆一国に勢力を限定されることになりました。

 

新説・北条早雲

北条早雲

さて、北条早雲=伊勢新九郎の話に戻します。

現在北条早雲の研究では黒田基樹氏が第一人者と言われていますので、
以下黒田著「戦国大名・伊勢宗瑞」とWikipediaを参考にしながら早雲の生涯を整理します。

黒田説によると…

早雲は1456年生まれ享年64歳。
伊勢新九郎を名乗り、若くして足利将軍の申次衆(秘書役)になり、幕府で高級官僚の職を得ていた。
早雲の駿府における初期の軍事行動はすべて足利政権の指示あるいは了解を得ていたと考えらる。

また、北川殿は妹ではなく姉であり、当時の伊勢家は今川家に対して遜色ない家柄であり、正室として今川家に入った。
北川殿の夫・今川義忠が戦死すると、北川殿は将軍義政に積極的に働きかけて、嫡男龍王丸を今川家の当主にするお墨付きを得た。
実際に動いたのは伊勢新九郎であったといいます。

ですから、伊勢新九郎が義忠の従兄弟・小鹿範満を追い落とした軍事行動も将軍の了解を得ていたといいます。

 

伊豆討入り

堀越公方=政知は正室の円満院との間に清晃(のちの義澄)と潤童子をもうけていました。
政知は清晃を出家させていましたが、後々は清晃を将軍に、潤童子を鎌倉公方にする野心を持っていたといいます。
実は、政知には長男・茶々丸がいたのですが、政知はこれを嫌っていました(茶々丸の生母が不明、粗暴であったとも)。

延徳3年(1491年)に政知が没すると、茶々丸は円満院と潤童子を殺害して強引に跡目を継ぎます。

このとき清晃は父・政知の希望通り将軍義澄になっていて、義澄としてみれば母と弟の仇・茶々丸を誅殺する正当な理由を持ち、その任を隣接する今川家当主・氏親および叔父・伊勢新九郎に命じたと黒田は言います。

1493年新九郎は伊豆に討ち入りします。
しかし、茶々丸を取り巻く近隣武将とりわけ上杉家の分裂と和合、
それに対する幕府側の複雑な事情と相まって茶々丸討伐は簡単ではなかったといいます。

この間、伊勢新九郎は出家し、名前を早雲庵宗瑞に変えています。
これは早雲が将軍家の高級官僚の道を捨てて、駿河で戦国大名の道に進む決意であったと考えられています。

早雲が実際にどのように茶々丸を討ったかその経緯ははっきりしないようですが、
ともかく早雲は茶々丸を討って伊豆一国を支配することになり、すべては将軍・義澄が了解していたということです。

この早雲による伊豆討ち入りこそが、東国戦国時代の始まりといわれています。

 

その後早雲は、箱根の坂を超えて小田原を攻め、更に三浦氏を滅ぼして三浦半島を制圧し、
名実とも野戦国大名になっていきます。

 

早雲がなぜ強かったのか。それこそ戦国大名といわれる所以です。

すなわち、これまでの守護大名が、実際の統治は守護代や国人に任せて、上前だけを受け取っていたのとは違って、
早雲は領国に住み、領国内のすべてを自分自身で、くまなく目配りし、自分の考えでしっかりと統治する、
いわば民政を自分自身の力量で統治して、国全体をしっかりをグリップし、国力を上げていったのが大きな要因であったと言います。

この点は司馬遼太郎も何度も強調しています。

 

司馬遼太郎 「箱根の坂」

「箱根の坂」第一版は、1984年(昭和59年)司馬遼太郎61歳の時に上梓されています。
私は講談社文庫・新装版全3巻(2004年)で読みました。

前回ご紹介しました永原慶二「下剋上の時代」が描いた次の時代、
すなわち、戦国時代が切って落とされた時代に、
駿河(現静岡市)の東部に拠点を置いて、伊豆、小田原、三浦半島を制圧し、
後北条家の礎を築いた戦国風雲児・北条早雲の一代記です。

早雲の伝記・軍記物は江戸時代から種々あるようですが、史料としては不正確で、
最近の研究では、多くの修正がなされています。

司馬遼太郎が本書を書いたころ、新説が出始めていたのだと思いますが、
本書は従来の伝記に近い内容だと思います。

 

小説では、
出自を明言していませんが、備中伊勢家に生まれ、1432年生まれ享年88歳説を取っていて、
大器晩成の典型という風説に従っています。

早雲が生まれた伊勢家は平家であり、行儀作法の家元であり弓馬に秀でた名門家系とはいうものの、
伊勢家の末流で、源氏の足利幕府にあっては、
歴史から置き去りにされ落ちぶれた家柄、という設定です。

 

足利義視の家で申次衆(秘書官のようなものか)をしていた新九郎(早雲の通称)が、
義視の夫人の侍女として田舎から連れてきた妹・千萱(ちがや)のところに、
駿府当主・今川義忠が夜這に来て、その後駿河に呼び寄せ側室(正室?北川殿)にします。

1476年、応仁の乱の余波で今川義忠が若くして戦死しすると、北川殿と幼い龍王丸が残され、今川家の家督が問題になります。
龍王丸は嫡男であり跡を継ぐのが筋ですが、幼いため多くの家臣および近隣の武将は義忠の従兄弟・小鹿範満(のりみつ)を推します。
この時早雲が駿河に下向し、「龍王丸が成人するまで範満を家督代行とする」ことで決着させます。
早雲88歳没説ではこの時早雲45歳になっています(早雲の年齢については以下同じ)。

月日が経って、龍王丸がが15歳になっても、範満は龍王丸に家督を譲りません。
早雲は再度駿河に乗り込み、範満を討って、龍王丸を今川の当主(今川氏親)に据え、
これを期に駿河の東・興国寺城に館を構えます(早雲56歳)。

WEBから借用

室町幕府と鎌倉府の間に長い間確執が続いていて、
1458年室町将軍義政は鎌倉公方・成氏を古河に追い、弟・政知を鎌倉公方として送りますが、
成氏一派の抵抗にあい、鎌倉に入れず、伊豆半島の付け根、堀越に居を構え以後堀越公方と言われます。

WEBから借用

堀越公方足利政知には息子茶々丸、清晃、潤童子がいました。長男・茶々丸の母親は早くなくなり、茶々丸自身が粗暴であったので、父・政知は茶々丸を嫌い、他方、円満院との間の子清晃、潤童子を寵愛し、後々清晃を室町将軍に、潤童子を鎌倉公方に据えようと工作します。
ところが、1491年茶々丸は父・政知、円満院、潤童子を殺害、長男清晃は生き伸び京に逃れます。

この事件を間近に接した早雲は、今川氏親に兵を借り今川家代官として茶々丸を襲いますが、茶々丸は三浦に逃れます(早雲62歳)。
伊豆半島を一掃した早雲は以来伊豆一国を勢力下に置きます。

WEBから借用

その後早雲は堀越御所の近くに住み着きますが、当所はかつて鎌倉幕府執権北条氏が居住し、地名が北条であったことから、
早雲は「北条殿」と呼ばれるようになり、2代氏綱が正式に北条を名乗ります。
鎌倉幕府の北条氏と区別するために、後北条ということがあります。

早雲はこの間一貫して、甥・今川氏親の後見人としての立場を守り、氏親のために三河等各地に出陣していますが、
一方、東へは独自の行動を続けます。
すなわち、伊豆を制圧した早雲は、その延長として、箱根の坂を超えて、小田原を制圧し、
敵対した三浦家を三浦半島に討伐、相模を制圧します(早雲85歳)。

WEBから借用

早雲の嫡男氏綱(うじつな)は、小田原城を拠点に戦国大名として領国をよく治め、北条家5代の基礎を固めますが、
下って秀吉の天下統一に最後まで抵抗したため、戦国大名としての北条家は滅亡します。

WEBから借用

なお、早雲自身は伊豆韮山に在住し続けました。

小説では、早雲が勢力を拡大していった理由について、
早雲は善政をしき民衆からも慕われていたが、領土が狭いため経営が難しく、領土を拡張する必要があった。
拡張した領土は早雲自身がくまなく目配りをし、常に領民から慕われ、周辺の農民も早雲の領土に移住してきたほどであった。

と領土拡張の正当性の根拠にしているようですが、私には不自然に思えます。