訳のわかること

「訳のわからないこと」の対極として「訳の分かること」があるとすれば、
「訳が分かる」とはどのようなことでしょうか。

「訳の分からない」ことからの決別を決意した当時、
「それなら、訳が分かるとは何なのか」に興味がありました。

確か岩波から出ていた翻訳本で「計算可能性理論」のような本を読みました。
この本は今は手元にないし、インターネットで探しても見つかりませんでした(タイトルが違っていたかもしれません。後日記:デイビス著「計算の理論」でした)。

ややこしいが、分かりやすい本でした。
チューリングマシンから始まって、ゲーデルの不完全性定理まで解説があったと思います。

チューリングは非常に単純な機械=チューリングマシンを考案します。
これは一本のテープと読み書き可能なヘッドを持ちます。
この機械にプログラムを与え(プログラムを与えるという言い方は正しくなく、機械は完全にハードとして作られています)、テープに条件を入力すると答えを同じくテープに書き出しヘッドの動きを止めます。

これで例えば、足し算をやって見せて、「この機械は足し算を確かにやったよね」と確認していきます。
次々に「目の前で」計算をやっていき、しまいには驚くほど複雑な計算もします(たとえば関数計算とか)。

さらには、
別のチューリングマシンがやることをシミュレートする万能チューリングマシンまで作って見せます。

「ここでお見せしたのは、種も仕掛けもなく、ちゃんと計算しましたよね」
と誰もが確かに計算をしていると納得します。

これぞ計算可能。
チューリングマシンはどんなことでも「訳の分かる」形でやってのけるように見えます。

しかし、では「何でもできるのか」という挑発的疑問に対して、次の証明をし否定的結論を導きだします。
すなわち、「与えられた条件とその解となるチューリングマシンが与えられたとき、
どのようなケースでもこれが正しく計算するかどうかを判定するマシンは作ることは出来ない」というもので、これはチューリングマシンの停止問題といわれています(多分少々乱暴な説明だと思います)。

詳しいことは忘れてしまいましたが、当時私がほしかったのは、究極の「分かる」というものがあるのかないのかということでしたので、「こういった厳密さでもってすべて解ける訳ではないという証明」で十分でした。
少なくとも「ある現実的命題があって、これを正しいとか正しくないとか判断する汎用的な論理機械をつくることはできない」と理解していました。

余談ですが、1900年以降厳密な数学の構築が必要になったとき、公理を立てて確実に証明の積みあげをしていけばいいのではないかとの予想のもとで、数学の再構築が試みらましたが、1930年代になって逆にその手法の限界(あるいはその不可能性)の証明がされていきました。

一番有名なのはゲーデルの不完全性定理ですし、直感的な分かりやすさからいうとチューリングマシンだと思います。
まったく違うアプローチでしたが、ゲーデルの不完全性定理とチューリングの停止問題は等価だといわれています。

このような1930年代の数学基礎論の成果は、現在の計算機の発展に大きく寄与しています。
ご承知のとおりチューリングマシンは現在の計算機の理論的基礎をなし、チャーチが考案したラムダ式はLispの理論的基盤であり、最近ではVS2008でもとり入れられています。(因みに、アメリカ情報処理学会=ACMの研究者に贈られる最高賞はチューリング賞です。)

(私は数学者ではないし、随分昔に勉強したことで、大半を忘れてしまい厳密な説明としては大いに怪しいので、興味をお持ちのかたは、ご自分で勉強されることをお勧めします)

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