下向井龍彦「武士の成長と院政」

武士の実態を知りたいと、
下向井「武士の成長と院政」(日本の歴史、講談社、2001年)を読みました。

この本は私の要望に大変わかりやすく、ダイレクトに応えてくれます

7世紀律令制度における武力から始まって、9世紀の各地の騒乱と武力による平定、
将門・純友の乱、前9年の役、後三年の役等の大規模戦闘を経験した武士団の成長、保元の乱から平治の乱を通して武士が政治の中心に躍り出た経過の「何故?」に応えてくれます。

著者は「歴史の流れ」を意識して書いたと思います。
ただしその分筆者がいうように、学会で合意されていない部分もあるようですが、それを認識したうえで読めば問題ありません。

私は理解に努めましたが、当時の歴史には人名と術語(制度の名称や職階の名称等)が沢山出てきて、一読では何が何だか混乱し十分理解していませんが、理解した範囲でご紹介します。

この本では「武士とはなにか」から入っていますが、専門的な議論は不問にして、武士を武力集団として進めます。

 

西暦7世紀、中大兄皇子が蘇我入鹿・蝦夷を死に追いやり、大化の改新(646年)を断行した時期、朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済が唐を巻き込んで戦闘を繰り返していて、日本が特に百済と緊密な関係にあったことから、自国の武力を充実しなければいけない時期でもありました。

西暦663年、新羅と唐の連合軍は朝鮮半島西南に位置する百済に侵攻、日本は百済支援に乗り出しますが、新羅・唐連合軍に大敗します(「白村江の戦い」)。

これによって、日本本土には直接的被害はなかったが、国防の手を緩めることはできません。強大な軍団を組織し九州の守護にあたりました。

 

そもそも、この軍団をどのように作ったのか。
そのからくりは律令制度でした。

律令制度は646年中大兄皇子(後の天智天皇)によって大化の改新として制定されましたが、基本方針は天皇を頂点にした中央集権・官僚国家構築の根幹をなすものです。

時代の変遷がありますが、律令制の骨子はおおむね次のようなものです。

  1.  律(刑法)、令(民法その他)を規律の基本とする。
  2.  貴族の私有地も含めて、すべての土地を国有化する。
  3.  地方を統一的に統治する。
    すなわち、地方に国衙(現在の県に相当)、その下に郡、里等を置く。
    国衙の長官(国司)には中央から4年任期の高級官僚を送る(国司は後受領と呼ばれた)。
    郡や里の長官は在地の豪族が着任する。
  4.  全国民(貴族・人民)の戸籍しらべ、それに従って田を給付、
    それと同時に徴税台帳を作成し租税を徴収する
  5.  戸籍によって徴兵制を導入する

この徴兵制では、一戸当たり一人の兵を課しました。
当時の戸数は20万戸といわれていますので、当時の軍隊は約20万人になります。

当時の人口は6~7百万人と言われていますので、この数がどれ程膨大であるか。
現在の日本の人口に単純比例すると、数千万の兵力になります。とんでもない数字で、国(人民)の負担は大きなものです。

その後、唐で大規模な内乱が起こり、日本に強大な軍事力の必要性がなくなったことで、[白村江の戦い]から100年以上たった780年、やっとこの徴兵制度を廃止します。

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