1183年7月、義仲は平家が撤退した京に入り、ただちに、後白河法皇に拝謁、法皇から都の治安と平家追討を命じられます。
しかし、折あしく都は深刻な飢饉に見舞われていて、そこに義仲の大軍が押し寄せたために、都は極度の食糧不足になり、治安はむしろ悪化します。
法皇にとって重要なことは、三種の神器の確保と新天皇の擁立です。
義仲が兵を動かしたとき、以仁王の第一王子・北陸宮が義仲軍に保護を求めてきました。新天皇擁立の話がでたとき、義仲は北陸宮を押しますが、天皇の考えからするとありえない要求です。
天皇擁立と同じくらい重要なのは、三種の神器を取り返すことで、義仲に出兵し神器奪還を要求しますが、義仲はなかなか動きません。
山岳育ちの義仲軍は、陸戦で勝機があるものの、海に逃れた平家軍には勝機が見えません。
法皇にせかされて、陸路西に向かった義仲軍は、水島の戦いに大敗します(1183年11月)。
義仲は八方ふさがりで、法皇・公卿との軋轢は増えるばかりです。
法皇はあからさまに義仲ではなく頼朝への接近を見せ、義仲は法皇と衝突し、遂に、義仲は頼朝と決着を覚悟します。
しかし、もはや義仲に味方するものはなく、僅かな兵力で京に接近してきた鎌倉軍(範頼、義経)に対峙しますが、宇治川の戦いで敗れ、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討ち死にします。1184年1月、享年31。
範頼は、頼朝の弟ですが、範頼の母は遊女だといわれています。
範頼は平治の乱ではその存在が知られていなかったので、命拾いしたということです。
後、頼朝軍の大将として平家追討を命じられ活躍しますが、後年、ちょっとした失言で、修善寺に幽閉されます。
義仲を討った範頼と義経は、休む間もなく平氏を追討すべく京を発ちます。
都でごたついている間、平家は兵力を整理し、清盛ゆかりの福原に軍勢を整えていました。
これに対して、源平の開戦は同年2月7日と決め、範頼は正面に、義経は裏面を突くべく山岳に軍を進めます。
2月6日、福原で清盛の法要を営んでいた平氏一門に後白河法皇からの使者が訪れ、和平を勧告し、源平は交戦しないよう命じ、詳細は8日に提示するという伝達があります。
平家方は半信半疑でしたが、「様子を見よう」ということになります。
しかし、その後法皇から何の連絡もないまま、7日範頼は行田口(今の神戸駅付近)から、義経は一の谷から平家軍に襲い掛かり、一気に平家軍を蹴散らします。平家軍は虚言に乗せられ大敗し、船で屋島に撤退します。
この時の有名な挿話は、義経の一の谷の逆落とし([新平家]でははっきり書かれていません)、若武者・敦盛の首を取った熊谷直実の話があります。
またこの時、南都焼討を指揮した重衡が捕らえらえ、後奈良の僧兵に斬殺されます。
瀬戸内海海戦にあたって、軍船を整える必要があります。源氏軍は軍船の調達と、同時に中国地方の平家狩りに力を注ぎます。
平家狩りを担ったのは範頼、京の治安を担当したのが義経です。
範頼は陸路平家方勢力の討伐にかかりますが、戦線を伸ばし過ぎ(下関あたりまで)、逆に兵站調達に苦戦します。
京都の治安に専念していた義経は、範頼を支援の必要性を感じ、同時に屋島が手薄になったという情報をつかみ、屋島攻撃を決行します。
1185年2月、台風のなか、反対を押し切って、僅か150騎で阿波を目指し、勝浦(現徳島市の南)に上陸します。直ちに、山伝いに屋島を目指し、大軍を装って広範囲の民家に火を放ち、屋島の平家に襲い掛かります。
不意をつかれた平氏は船に逃れ、下関彦島に逃れます(那須与一の話は、屋島合戦の出来事です)。
義経は、遅れて到達した源氏の船団を指揮して平氏を下関彦島に追い詰めます。
同年3月、壇ノ浦で最後の決戦をします。
(範頼は九州側にいたようですが、このとき[新平家]ではあまり登場しません)
最初潮目は平家有利でしたが、午前11時頃潮目が変わり、源氏有利になります。
源氏は平家の船に乗り移り、掟違反の漕ぎ手やかじ取りの民間人を切り殺し(Wikipedia)、戦いを制します。
最早これまでと悟った、清盛の妻・安徳天皇の祖母が天皇と宝刀を抱いて、海に身を投げます。沢山の女官も海に飛び込みますが、安徳の母・徳子は助けられ京に送られ、そのご出家します。
義経は京に凱旋し、後白河から褒賞を受けます。しかし、この後白河からの歓待に頼朝は怒ります。
5月7日、義経が戦いの報告をしようと、壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して、鎌倉に向かいますが、義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れ、義経の鎌倉入りを拒絶します。
義経は、頼朝に対し自分が叛意のないことを書面(腰越状)にしたため、頼朝の側近大江広元に託しますが、捕虜を連れ帰り処刑せよという命令だけです。
やむなく、義経は京に帰りますが、義経謀反とみた頼朝は義経討伐の命令をだします。
力に劣る義経は一時九州を目指して逃亡しますが、台風に妨げられ、結局奥州藤原秀衡のもとに逃れます。(北陸を通って奥州に向かう途中で、安宅の関の話がでてきますが、義経が疑われて、弁慶が義経を足蹴にするという話はありません。)
1187年秀衡が死亡し泰衡が後を継ぐと、頼朝は泰衡に義経殺害を要求、義経は泰衡軍に囲まれ、籠った家に自ら火をかけ焼死します。
遺体はそれが義経だと分からないほどに焼けたので、「実は…」という義経伝説か生まれます。
頼朝は、何かにつけ敵対した叔父行家を殺害、範頼を幽閉、更に、厳しく平家の残党狩りをし、身の回りの憂慮すべき要因をすべて取り除きます。
1198年、頼朝は狩りの帰りに落馬し、あっけなく逝去します(享年53)。