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吉川英治「親書太閤記」6

秀吉は、信長の初期の領土拡張戦=美濃(岐阜・斎藤)、北近江、越前(浅井・朝倉)や京都の治安に業績を上げ、信長から信頼され、琵琶湖東岸長浜に築城を許されます。大変な出世です。更に1577年には信長から全幅の信頼を得て、中国・毛利攻めを命じられます。

秀吉は自分の長所も短所もよくわかっていたのでしょう。
いわゆる「人たらし」で、軍師を重用しました。
一人は美濃戦から加わった竹中半兵衛、もう一人は播磨戦から加わった黒田官兵衛(後如水)です。
病弱な半兵衛は播磨攻めのとき病没しますが、黒田官兵衛は嫡男長政ともども秀吉から重用され、長く仕えます。

秀吉の戦法は信長とは異なり可能な限り武力を使わないで、調略・外交で相手を下していきますので、それだけに時間がかかったと思われます。

毛利討伐を命じられた秀吉は、瀬戸内海側の播磨から始まって、日本海側の但馬へ進軍。
苦戦の連続ですが、82年には毛利一族の東端・備中(岡山市)まで進み、高松城を取り囲みます。
城主清水宗治は湿地に囲まれた高松城をよく守り、秀吉軍を寄せ付けません。秀吉は正攻法では攻め切れないとみるや、同年4月から水攻めに取り掛かり、信長の出陣を待っています。

 

信長は秀吉の要請を受けて、当地に向かおうとしていた1582年6月2日、光秀によって京都本能寺に襲われ、自害します。

6月3日急報が秀吉に届けられ、秀吉は官兵衛の進言を入れて早急に高松攻めを終結し、光秀討伐に舵を切ります。
信長の死が毛利方に漏れないよう通過する早馬を遮断、直ちに城主清水宗治の切腹を条件に毛利方と講和し(6月4日)、整然としかし急いて京都に引き返えします(中国大返し)。

当時信長家臣の武将たちは、信長の命を受けてそれぞれの戦いに全力を掛けていて、反明智に即応できません。
ただ一人秀吉は京都を目指し、京都の西南山崎の地で天王山を支配し、光秀軍を撃破(6月13日)。その勢いを駆って、残党を討ちいち早く京都を支配します。

この時家康は境見物をしていましたが、どこに明智方の兵がいるか分からないなか、少数の家来と共に決死の覚悟で三河に逃れ、態勢を整えて直ちに光秀討伐に向かいますが、時すでに遅し、秀吉が光秀を討ち入京していました。

光秀掃討後の6月27日、清州城で有名な清須会議が開催され、秀吉の他柴田勝家、丹羽長政、池田恒興が集まって、信長亡き後の方針を議論します。

本能寺の変では、京都にいた信長の長男・信忠も二条城で戦死しましたので、秀吉は信長の後継者として信忠の長男すなわち信長の孫・三法師(当時三歳、後の織田秀信)を推し、柴田勝家は信長の三男・織田信孝を推します。
両者激論になりますが、あらかじめ手を打っておいた丹羽長秀と池田恒興が秀吉方につき、「家督を三法師が継ぎ信孝を後見人とする」という秀吉の案に勝家も妥協せざるを得なくなります。

ところが日が経ってくると、秀吉は清須会議の決定事項を無視して、自分勝手な行動を始めます。
秀吉は信長の4男・秀勝を養子にしていましたが、この秀勝を喪主にして、一存で10月信長の大葬儀を開くし、さらに凡庸だとして信長後継者の候補から外されていた信長の次男・信雄を三法師が幼い間という言い訳をつけて、勝手に織田家の当主に仕立てて信雄と主従関係を結びます。

このような秀吉の勝手な行動に当然信長家臣団は反発します。

 

反秀吉の最右翼は越前(福井)の柴田勝家です。秀吉は勝家が雪のため動けないことを見透かして、勝家と歩調を合わせる信孝に言いがかりをつけ、同年12月岐阜城で降伏させます。

勝家は、滝川一益、前田利家等と呼応して、各地で秀吉と戦闘を開始。
しかし一益および若いころから秀吉とは仲がよかった利家が勝家から離反、琵琶湖北賤ヶ岳の戦い(83年4月)で勝家は大敗し、越前・北ノ庄に逃れますが、落城が迫るなか勝家はお市の方共々自殺します。

信長の妹・お市の方は、信長が美濃攻めのとき浅井長政と同盟を結ぶ必要があったため長政と政略結婚させられ、長政落城の直前救出されますが、今度は清須会議で不満が残る勝家の希望をいれて、またも政略結婚させられます。この仲介を誰がしたかは諸説があるようです。勝家が敗北を認め自殺するとき、お市の方は今度は死を選びます。

秀吉は苦戦の末、大きな障害・柴田勝家を排除。と同時に勝家と共同歩調をとる織田信孝も切腹させ、勢いづいた秀吉は信長家臣団を次々に掌握していきます。

 

信長の次男・信雄は当初、秀吉と行動を共にしますが、やがて利害が衝突し家康に接近、不満分子と共に反秀吉の戦闘を仕掛けます。
84年4月秀吉は大軍を編成し、犬山付近で信雄・家康連合軍と激突します(小牧・長久手の戦い)が、決着がつかないまま、一時兵を引き上げます。
なお、この時の居城は秀吉:大阪城、信雄:清州城あるいは伊勢長島城、家康:岡崎城あるいは浜松城です。

その後秀吉は懸命の外交戦を展開、信雄と和議を交わしたことで、家康は秀吉と戦う名分を失い和議に応じます。
家康は、秀吉から大阪への上洛を求められますが、応じません。それは秀吉への服従を意味し、家康には受け入れられないことです。

小説は、ここで終わりです。

 

小説は全11巻、秀吉の生涯の途中で終わりますが、この間も沢山の脇役が登場します。

若いころの前田犬千代(利家)との話、信長が朝倉戦で浅井の離反にあい九死に一生を得た金ヶ崎の退口、秀吉対柴田勝家の賤ヶ岳の戦いで活躍した加藤清正等の七本槍の活躍、半兵衛と官兵衛の信頼関係、尼子氏の家臣であった山中鹿之助の話、真田と秀吉と家康の関係、浅井長政との間に生まれたお市の方の3人の娘たち(茶々、初、江)、当初家康の重臣であったが後秀吉についた石川数正の話等々。

 

信長、秀吉、家康が戦闘を繰り広げた中部地方や京都や畿内のほか、北は伊達、東には北条、上杉、武田、西には尼子、毛利、大内、四国に長曾我部、九州では大友、竜造寺、島津等々日本中の戦国大名が地域の武将を巻き込んで血で血を洗う戦いをしていました。

吉川英治の「新・平家物語」のなかで出てくる話ですが、
保元・平治の乱(1156年、60年)では京都の町で平家と源氏が戦うのを民衆は物陰からみていて、卑怯なことをするとハヤシたてた、といいます。やくざの喧嘩を民衆が見ていたような印象です。
ところが、戦国時代では侵略戦争ですから数段激しく、相手方の村や町を焼き尽くし、略奪も横行したと思います。
信長は延暦寺焼き討ちだけでも非戦闘員を含めて数千人の人々を殺害しています。
また、この小説で、光秀が信長暗殺で決起した朝、進軍の途中で信長方に動きを察知されることを恐れ、朝仕事で通りがかった民衆をすべて殺害したという話が出てきます。
さらに、同盟を結ぶとき、弱い立場の武将は近親者を人質として相手方に差し出しますが、これを裏切った場合預かった方では容赦なく人質を見せしめとして殺害します。
日本人は残酷さを楽しむという気風はないと思いますが、人の命を虫けら同然に扱ったこの時代は血生臭いおどろおどろしい時代だったとイメージします。

最近評判の倉山満著[ウェストファリア体制](2019年、PHP新書)で、ヨーロッパ中世は「殺し合いが日常であり平和が非日常だった」、それに比べれば日本の戦国時代は「平和が日常で戦争は非日常であり平和な時代だった」のようなことをいっています。

私は、戦国時代が平穏な日々だったとはとても思えません。それでも日本は西欧よりマシだったということでしょうか。

吉川英治「親書太閤記」5

その後の信長の軌跡は歴史の教科書に書かれていますので、ここではざっとおさらいします。(但し、歴史的事実はそんなに単純なことではなく、日に日に敵味方が入れ替わって、入り乱れた戦闘が続いたようです。)

 

信長は足利義昭を奉じて、岐阜から京都まで反対勢力を討伐しながら遂に入京(1568年)、休む間もなくそのまま大阪まで侵攻し、畿内を支配、境を直轄にします。
更にとって返して、反抗する越前(福井)朝倉を攻めますが、信長の妹お市の方を妻にする浅井長政の離反にあって一度は敗走する(金ヶ崎の退口)ものの、態勢を整え、姉川の戦い(70年)で浅井・朝倉連合軍に勝利。
朝倉が延暦寺と連合すると、71年信長はあろうことか比叡山の大焼き討ちを決行、遂には朝倉・浅井を壊滅します(73年)。

また、信長は本願寺、能登、伊勢等での一揆にも情け容赦のない弾圧を決行、滅亡させます。

72年には武田信玄が西上してきて、三方ヶ原で織田・徳川の連合軍を破りますが、翌年信玄が突然死去、退却します。(家康は66年松平から徳川に改姓)

一方の歴史の主役、将軍義昭はその間どのような動きをしたのか。

義昭は、68年信長の力を借りてようやく上京し第15代将軍の座に座るが、やがて武力で天下統一を目指す信長とは相いれないことが明白になります。

義昭は信長包囲網を構築すべく各地の大名に呼びかけるがことごとく失敗。
信玄が死に、謙信や他の大名も中央に打って出る力がなく、義昭自身も戦闘を指揮しますが、浅井・朝倉が滅亡すると、もはや義昭の望みは断念せざるを得なくなり、73年義昭は信長に京都を追放され毛利に身を寄せることになります。ここに足利幕府が終焉します。

 

78年、信長は信玄の後を継いだ武田勝頼との戦いで、鉄砲の威力を存分に発揮し長篠で勝利し、さらに82年には、織田・徳川連合軍が甲州に攻め入り、勝頼を天目山に追い自決させ、ここに武田家は滅亡します。(上杉謙信は78年病没します。)

 

明智光秀は、足利義昭を信長に取り次いだり、信長に仕えてから多くに業績をあげ、信長重臣として重く用いられますが、一方で信長と肌が合わず、小説では武田攻めの際、言葉の行き違いから信長の怒りを買い、多くの武将の面前で罵倒され、直後の本能寺の変の伏線になります。

武田を壊滅した信長は家康には関東平定を任せ、秀吉からの要請もあり、自身で中国の平定にかかります。
武田戦が一段落した同82年5月下旬、家康は武田戦での論功行賞として信長から駿河を拝領した礼として安土城にやってきます。

このとき光秀は信長から家康接待の責任者に任じられますが、接待の仕方で信長の怒をかい(小説では、信長が調理場を視察すると、用意した魚介が悪臭を放っていたということです)、接待役を解除され、直ちに毛利と対峙する秀吉の援軍に出兵することを命じられます。

その数日後、家康は京都で天皇に拝謁、大阪・境の見物に出立し、信長は秀吉援護のため西に向かうべく途中少人数の護衛だけで本能寺に宿をとります。

 

光秀が家康接待の不手際を叱責された話は、新書太閤記第7巻の30%程度読み進んだところに出てきます。
光秀が悩んだ末に信長を討つ覚悟を決め、家臣と相談し決行する82年6月2日までの話は当巻の半分以上を使って細々と書いています。

そこからがやっと秀吉中心の話になっていきます。