下向井龍彦「武士の成長と院政」5

保元の乱

後三条 - 白河 - 堀川 - 鳥羽 + 崇徳
                  + 後白河 + 二条
                        + 高倉
                        + 以仁王
                  + 近衛

1129年、白河上皇が逝去すると、鳥羽天皇は退位し上皇になり、長男崇徳を天皇にして院政をしきますが、鳥羽は何かにつけ崇徳をないがしろにします。

鳥羽に体仁(なりひと)親王が生まれると、鳥羽は崇徳天皇に退位を迫り、体仁を天皇(近衛天皇)にします。更に、近衛天皇が17歳で死去すると、またしても崇徳ではなく後白河を新天皇にします。

誰が見ても、異常な扱いです。
当時「崇徳は白河上皇の子だ」という噂がたったということで、そうでもなければ、理解できません。

これに藤原氏が絡みます。
鳥羽上皇のブレーンとして、藤原忠実・頼長親子、更に身分の低い出自の信西(しんぜい)等がついていました。

やがて野心をもった信西は、秀才と評判の高い頼長を追い落とし、鳥羽近臣のリーダーになります。

1156年鳥羽院が死去しますが、崇徳は父の臨終にも更に葬儀にも参加できません。
崇徳は後白河の近臣に邪魔者扱いされます。

崇徳の怒りはどれ程だったでしょうか。
信西に追い落とされた頼長は崇徳に接近します。

信西は、崇徳と頼長がクーデターを計画しているという風聞を根拠に頼長を追い詰めます。後白河・信西側には、為義の息子義朝、平清盛等が、崇徳・頼長側には、為義、息子の頼腎が支援に駆けつけます。為義には政治的考えはなかったが、崇徳に懇願されたので初めて加勢に加わったと筆者は考えています。

後白河・公卿たちは、崇徳を威嚇すれば十分と考えていましたが、信西と義朝は攻撃を強く主張し、1156年7月一方的に崇徳を攻撃、敗退した崇徳を流罪、清盛は叔父忠正ら5人を、義朝は父為義ら兄弟5人を斬首します。

これを保元の乱といいます。

この乱では二つの大きな意味があります。
一つは歴史上初めて、武士が天皇を討ったということ、もう一つは仏教の教えを守って、都では300年以上も死罪がなかったものを、信西の主張で武士の仁義を取り入れ同族での殺害を命じたということです。

乱の後、白河は二条天皇に譲位、親子で争った摂関家の力は大幅に下落、政権のトップの座は信西が握ります。

平治の乱

しかし、因果応報。

それから3年後、今度は後白河院のブレーンの間で争いが始まります。

後白河院は藤原信頼を寵愛します。
しかし多くの人は信頼を無能と見ていて、信西は信頼を排斥しようとします。

危機感をもった信頼は、清盛に対抗意識を燃やす義朝を引き込み、清盛が熊野詣で京を留守にした隙に、クーデターを起こし信西逮捕に向かいます。

信西は逃げ延びましたが、これまでと自害します。

清盛は熊野から引き返し本拠・六波羅に帰り、後白河院・二条天皇を策をもって信頼から奪取、「朝敵になりたくなければ、六波羅に集まれ」と号令をかけると多くの公家・武将が清盛に応じました。

ただちに「信頼・義朝追討宣旨」が出され、信頼・義朝とも斬首されます。平治の乱です。

このとき、義朝の3男頼朝も捕らえられましたが、清盛の継母の助命嘆願によって、斬首を免れ伊豆に流されます。義朝の妾常磐御前は、3人の子供と一緒に捕らえられ、清盛の側室になります。3人の子供の一人が義経です。

後白河院と清盛

平治の乱によって、清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握し、
武家政権樹立の礎を築きます。

43歳で武士としては初めて正三位に、更には従一位太政大臣に上り詰めます。

1164年二条天皇は退位し、六条天皇を擁立、直後に崩御します。後白河は、清盛の縁続き平慈子との間に生まれた憲仁を皇太子(高倉天皇)にします。そして1172年、清盛は娘・徳子を高倉天皇に嫁がせます。

内政的にはいくつかの紛争の火種がありました。一つは、荘園問題で延暦寺と院近臣との争いです。

それらをめぐって、後白河院と清盛は反目するようになります。

1177年、院・院近臣が、平氏打倒のクーデターを計画していると密告があり、清盛によって首謀者が逮捕、斬殺あるいは配流されます(鹿ケ谷の陰謀)。

ただし、これは清盛による反対派へ見せしめのための陰謀だろうとしています。

さらに1179年、清盛は後白河院を幽閉して、強権で高倉天皇を退位させ、清盛の娘徳子が生んだ3歳の言仁親王(安徳天皇)に譲位、高倉院政を始めます。

天皇家の人事権を侵すことは許されざることで、公卿・寺社からの一斉反発を招きます。

これに追い打ちをかけたのは、譲位後最初の参拝は加茂社か石清水社のどちらかという慣例を破って、高倉院が平氏の氏神厳島神社に行幸する決定をしたことで、不倶戴天の敵、園城寺と延暦寺までも平氏打倒の手を組みます。

反平家の勢力は、後白河の第三子・以仁(もちひと)親王のもとに集まって、挙兵の準備を始めますが、これを察知した清盛はその鎮圧にかかり、逃亡先で以仁王は死去します。

しかし、生前発した平家打倒の以仁王の檄文が諸国源氏に届き、頼朝は伊豆でその檄文をかざして決起します。それは、義親、為朝、義朝と3代にわたって冷遇された鬱憤払しでもありました。

血の結束の源氏武士団と、利害関係で結ばれた平家では戦いになりません。

そんな中1181年、清盛は死去します。

 

「サムライ・ジャパン」という言葉があります。

私は、常々日本人はサムライの何を自慢しているのか、サムライの実態を知ったうえで「サムライ・ジャパン」と粋がっているのか、と冷めた感情をもっていました。

江戸時代のサムライは映画やテレビに出てきますから、なんとなくイメージできますが(正しいかどうかは別にして)、中世のサムライの実態は何も知りません。

昔、歴史で学んだ、そしてぼんやり思っていた中世の武士像は、「百姓が精をだして耕作地を広げ、それを守るために武装した。彼らは誠実・実直・質実剛健」のようなものですが、どうやらそれは違うようです。

今私が持っているイメージは殺生を生業とする「暴力団」、違うとすればどう違うのかはっきり分かりません。

また武士の起源は、「荘園が増大する中で、地方で紛争が多発した。それを鎮圧するために、中央の武士が派遣され、郡司や郷司の地位につき、やがて彼らが土着した」、ボトムアップではなくトップダウンだと筆者はいいます。

私の関心は、武士の発生のメカニズムより、中世武士の実態を知りたかったので、
今回二冊の歴史書を読んで、ある程度そのイメージを持つことができました。

でも何かまだピントが合いません。機会があればもっと勉強したいと思います。

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