辛亥革命で清朝が崩壊。
中国での主権を巡って、国民党と中共軍(中国人民解放軍)が衝突します。
やがて蒋介石の国民党は台湾に逃れ、毛沢東は「中国」の平定に着手します。
マイケル・ダナム[中国はいかにチベットを侵略したか](日本語版2006、講談社)は、
中国によるチベット侵略の進展を、
対中国抵抗戦士たちのインタビューをもとに、ドキュメンタリー風にまとめています。
ただし、ここで語られている内容は、ダライ・ラマがチベットを脱出するまでの話であり、
その後のチベット文化大革命や2008年チベット騒乱については記述されていません。
幾世紀もの間、中国とチベットの国境は定かではなく、
8世紀にはチベット王が中央アジアの広い範囲を勢力圏にした時期もありました。
それ以降チベットは中国に対して、「地政学的、政治的、文化的にも異なる道を歩んできた」。
「チベットに構うな」という立場を一貫していました。
1949年10月、毛沢東は中華人民共和国の成立を宣言し、
チベットを帝国主義から解放すると発表します。
しかし、ダナムによると、
当時チベットには英国人のラジオ技師や登山者等8人の西欧人がいただけであり、
「いったいチベットにどんな帝国主義者がいたのか」と言の不当性を指摘します。
ここで、当時のチベットを取り巻く国々の状況を理解しておく必要があります。
中国は毛沢東が指導した共産主義の国で、
帝国主義と戦うという大義名分のもと、領土の拡張を図っていた。
1947年インドは独立し、ネールが初代首相に就任していた。
ネールは白人への対抗心もあり、中国との良好な関係を望み、
その結果チベットには冷淡であった。
英国は第二次大戦に疲弊し、もはやインド、チベットに関与する余裕はなかった。
米国はアイゼンハワー大統領の時代で、
CIAを通じてチベット抵抗運動を支援していたが、
ニクソンの時代になると、米国は中国に接近し、チベットを見殺しにした。
ネパールは、中立的態度を保っていたが、
中国が安定してくると、チベットへの冷淡な姿をあらわにしてきた。
1950年6月には朝鮮戦争が勃発した。
1950年3月、中共軍はチベットの東端カムに軍をすすめます。
地形の悪いところなので、大規模侵攻ではなく小競り合いが発生します。
1951年5月、北京にチベットから派遣されたアボ・ジグメは、
何の権利も委譲されていなかったにもかかわらず、
中国が一方的に示してきた「17箇条協定」に署名させられます。
協定の内容は、例えば、チベットは自国から帝国主義勢力を駆逐し、祖国の大家族に復帰する
(中国の一部であることの宣言です)。
チベットは中国共産党の指導の下に独立を享受する権利を有する。
ほかに、ダライ・ラマとパンチェン・ラマの地位、機能、権力は今後も変更はない。
仏教、信仰、チベット人の風俗習慣は尊重する。
僧院は保護される。僧院の収入に慣習しない。
チベット軍は再編成され、人民解放軍に吸収される。
チベット語とチベット人の学校教育は奨励される。
チベットの改革は中国側に強制によらない。
改革はチベット側の指導者と話し合って決定される。等々
その後チベットでこの問題を協議しますが、僧侶は自分たちの地位が保障されていると歓迎し、
1951年10月、ダライ・ラマ14世は毛沢東に手紙を書き、この協定の支持を表明します。
当時、ダライ・ラマ14世は16歳でしたが、すべてのチベット人の心の支えでした。