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吉川英治「私本太平記」 3

同床異夢。

倒幕後の姿として描いた夢。
後醍醐と尊氏の夢はあまりにも相容れないものでした。

 

後醍醐は、鎌倉幕府崩壊の報を聞き、伯耆船上山を出発し1333年6月に入京します。

しかし、そのとき既に高氏は北条が退いた六波羅に居を構え、京都を実効支配していたので、後醍醐や護良は警戒します。

後醍醐が描く天皇親政の基本は、武士でも上皇でもなく、天皇が最高権力者として君臨するものでした。

従って、北条家から取り上げた沢山の所領の大半を、皇族や公卿に分配するのは当然のことです。

後醍醐を隠岐から脱出させた武士達(名和長年等)、後醍醐の命に従って戦った武家たち(尊氏、直義、義貞)には比較的多くの恩賞を与えましたが、護良が命じた武士には冷たく、赤松則村に至っては恩賞なしの処置で、さすがに赤松は怒りに燃えて播磨に帰ります。

沢山の死傷者を出しながら戦った武士からすれば、何のために戦ったのか、納得できるものではありません。

高氏はかつて執権北条高時から一字もらった名前を使っていましたが、倒幕後、後醍醐から天皇の本名(尊治)の一字たまわって、その後尊氏を名乗ります。

その上、後醍醐親政が出す律令制回顧の政策は現実離れし、当時の社会では受け入れられません。

特に唐突な日本初の紙幣の発行は、庶民には理解されず、混乱するばかりでした。

護良の反目も後醍醐政権の不安定要因でした。護良は天皇にも、特に高氏に反発して、後醍醐の入京にも、信貴山に籠って反抗を続けます。

後醍醐はなだめすかして、護良を京都に迎え、征夷大将軍という武家の最高地位を与えますが、その後も反抗的行動は収まらず、乱暴や辻斬りをやるに及んで逮捕、尊氏の弟直義に命じて、鎌倉に幽閉します(1334年)。

ところが、北条の残党・時行が信濃で兵を挙げ鎌倉を襲います。直義は鎌倉を脱出しますが、戦乱の混乱の中で護良を持て余した直義はやむを得ず護良を殺害します。

報を聞いた尊氏は急遽兵を仕立てて鎌倉を奪還、そのまま鎌倉に居座ります。

後醍醐は尊氏に、
度々帰京するように命じますが無視したため、尊氏謀反と認定し新田義貞を動かします。

天皇から朝敵とされた尊氏は、逆に持明院統・光厳天皇から義貞討伐の綸旨(天皇の命令)を受け、天皇に反撃するのではなく、あくまで逆臣・義貞を討つとの名目で京に上りますが、義貞、正成、公卿の北畠顕家の連合軍に敗れ、僅かな残党を集めて九州に逃れます。

九州には宮方の武将が多く苦戦しますが、1336年有力豪族・菊池家を破り、九州で勢力を固め直ちに東進を始めます。

正成は、尊氏が九州で力を貯めてきたのをみて、後醍醐に宮方に有利な今のうちに和睦をすることを進言しますが却下、後醍醐は義貞を総大将にして尊氏追討の軍を西国へ向けて派遣します。

一方、正成は和睦を進言した事で朝廷の不信を買い、この追討軍からは外され、国許での謹慎を命じらます。

義貞が赤松との戦いで苦戦しているうちに、尊氏が東進してきます。

京都軍不利と見た後醍醐は正成に出兵を命じます。

正成の息子・正行は、父と共に戦うことを切望し、出兵した父を追って[桜井の宿]まできますが、負け戦を覚悟した正成は、息子を追い返します(戦前の皇国史観では、最も有名な挿話の一つです)。

一方の尊氏は、正成の討ち死にを惜しみ、スパイを送り、「我が方に味方するよう」説得しますが、正成は断り、弟・正季と共に最後の壮絶な決戦に挑みます(湊川の戦い、今のJR神戸駅の近く。1336年5月)。

足利軍は播磨に、正成・義貞連合軍を襲います。

尊氏は船、直義は陸から。

戦況不利を悟った義貞は京都に敗走しますが、正成はここを死に場と決め善戦、
矢尽き刀折れもはやこれまでと、建物に火をかけ、共に戦った武将と自害します。

直義は部下に命じて、建物が焼け落ちる前に正成の遺体を取り出し弔い、後、首を正成の妻に届けた。と小説では語っています。

 

足利軍が入京すると、義貞は北陸に敗走、後醍醐は比叡山に逃れて抵抗しますが、
尊氏の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し、幕府を開設します。

後醍醐は幽閉されていた花山院を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野(現奈良県吉野郡吉野町)に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まります(1336年12月)。

 

小説では、さらに沢山の話が続きます。

尊氏が信頼して共に戦ってきた、弟・直義と執事・師直の不和と師直の殺害、尊氏と弟の確執と弟の毒殺。尊氏が素性の知れない女に産ませ、認知しないで直義の養子にした直冬との葛藤と武力衝突。

「神皇正当記」を著し、南朝の精神的、軍事的支柱であった北畠親房、親房の嫡男で義良親王を奉じて陸奥国に下向していた青年顕家の死闘、「桜井の宿」で父・正成と別れた正行の死、等々。

 

今日の日本に至るまでにどれだけ多くの死闘があったか、誰かが悪人であったかといえば、そんなことはない。

みんな歴史の流れの中で、懸命に生きた人々だと思えば、切なく、悲しくなります。

江戸時代、芭蕉が武士であったことを思えば、日本を旅して、同じようなことを思ったのでしょうか。

夏草や 兵どもが 夢の跡

吉川英治「私本太平記」2

太平記の主役、後醍醐とそのカウンターパートの足利尊氏をどう見るかは、時の権力者が都合よく解釈しました。

太平記を誰が何時書いたか定かでありませんが、14世紀の後半に書かれたのは間違いないので、ということは、この時期は室町前期=足利の時代ですから、太平記は尊氏をよくいい、後鳥羽を悪くいっているようです。

下って江戸時代、徳川は自家が新田家の流れをくむと自称しましたので(確認できないようです)、新田義貞を美化し、当然後醍醐や南朝の武将楠木正成北畠親房を美化、尊氏を悪くいったようです。

水戸光圀が大日本史を編纂するにあたって、この基本姿勢を守りましたので、尊氏こそ、天皇に弓を引いた朝敵逆賊であると烙印を押し、当然南朝側の天皇を重視しましたが、「さて今の天皇は?」となったとき、天皇の血筋が確認できない。

ということで、江戸時代、天皇の血筋論争が続いたようです。
この論争は明治でも続きましたが、明治天皇が「自分は北朝の血筋だ」と明言したので、天皇の血筋論争はこれで終了したということです。

さて、私本太平記では、
後醍醐、護良、足利尊氏、新田義貞、楠木正成が協力して鎌倉幕府を倒したあと、尊氏と後醍醐が対立し、一度九州に逃れた尊氏が、勢力を増強しながら東進、湊川で正成を討ち、京の義貞を北陸に敗走させ、叡山にこもった後醍醐を吉野に追いやるまでが詳しく語られていますが、その後の出来事には多くのぺージを使っていません。

尊氏が京都を支配してからも、尊氏の弟直義と執事の師直との確執、尊氏と直義の確執があり、南朝との沢山の抗争が継続しますが、この辺はサラット書いています。

 

時は鎌倉時代1324年、後醍醐天皇は幕府打倒の計画を進めますが発覚、幕府は比較的軽い処罰で済ませます。ところが、後醍醐はその後も倒幕計画を継続し、またも密告により計画が発覚、今度は後醍醐は身の危険を感じ、三種の神器を持って笠置山(現京都府相楽郡笠置町内)に籠城します。しかし、鎌倉幕府の圧倒的な兵力に屈し京都に連行されます。1331年のことです。

幕府は三種の神器の返還を求め、持明院統の光厳を天皇にし、翌年、後醍醐を隠岐に配流、沢山の側近を処刑します。

しかし、倒幕の動きは止まず、
護良は吉野や高野山を転々としながら、全国に令旨を発し倒幕を鼓舞、呼応した河内の楠木正成や播磨の赤松則村(法名・円心)が頑迷に闘争を続けます。

正成は、はじめ河内金剛山で幕府軍と戦い、善戦しますがやがて陥落、落城を前に脱出し、勢力を挽回して千早城に籠り、地の利を利用して、強大な幕府軍と死闘を続けます。

正成のような体制に組みしないアウトローは、当時は悪党と言われていました。怪しげな生業ながら、正成は周りから篤い信頼を得ていました。

播磨の赤松は一時京を攻め落とす勢いだったようですが、史料が少なく、[私本]でも詳しい動向が書かれていません。

尤も、護良の動向もあまり詳しくありません。

隠岐に流された後醍醐は、翌年(1333年)隠岐を脱出し、伯耆大山々麓の船上山に籠ります。(この間の話は結構詳しいです)

 

先年、後醍醐が笠置山に籠ったときに、鎌倉幕府の重臣であった高氏は、幕府から出動命令を受けますが、父親の喪中だったので、出兵の辞退を申し出ましたが、聞き入れられず、結局笠置山の包囲陣に加わることになり、このとき高氏は幕府に反感をもったといわれています。

後醍醐が隠岐から脱出したとき、高氏は病気と称して足利に籠っていましたが、幕府から再度の出兵を命じられ、妻子を人質として鎌倉に置いて。京都に向かいます。

途中、高氏は後醍醐の誘いを受け、突如倒幕に動き、人質の妻子を救出(一人は逃げ遅れ、殺害されます)、播磨の赤松円心、近江国の佐々木道誉らの反幕府勢力を糾合して入洛し、5月7日に六波羅探題を滅亡させます。

同時期、新田義貞は兵をあげ、新田の庄をでたときは僅か150騎だった騎馬は、関東平野を南下するにつれ数を増し、数万の軍勢で鎌倉に襲い掛かり、殲滅します。

吉川英治「私本太平記」

鎌倉時代の次の時代・南北朝はどのように興ったのか。

吉川英治「私本太平記」(1991年、講談社・全8巻)を読んでいます。
今9割方読み進み、もう少しで終わりです。

長い間、ブログを中断すると、読者に愛想をつかされますし、自分でも読んでいる本の前の方を忘れてしまいますから、感想を書けるところから書いてみたいと思います。

話は、足利尊氏の青年時代から(多分)没するまでで、鎌倉時代末期=北条高時の治世から、後醍醐および護良(もりよし/もりなが)の蜂起、それに呼応した、足利尊氏、新田義貞、楠木正成の参戦と死闘が書かています。

 

歴史小説のいいところと悪いところがあります。

いいところは、
主要人物が度々登場しますし、
歴史の流れの中で事件や人物が登場するので、
歴史の本筋や様々なことを理解しやすいこと、
当時の風俗を知ることができること等でしょうか。

悪いところは、
どうでもいい話が、しかも長々とあることです。
特に女が出てくると、大抵作り話で「やめてくれよ」といいたいです。

もう一つ、常に「本当かな」と疑うことになるのも歴史小説の悪い点です。吉川英治はこの点意識して、色々な文献を調査しているようですし、多分歴史学者の意見も取り入れていると思います。

特に高氏(のち尊氏)の評価は、長い間天皇に弓引く「逆賊」とされていたようですが、この小説では、近年の歴史の考えに従って公平に書いていると思います。

 

本書は、高氏が青年時代、京都に社会勉強に行き、やがて足利の地(今の栃木県足利市)に帰ってくるところから始まります。

同族の新田義貞が近所に基盤を構えていますが、両家は仲がよくありません。

元々足利と新田は源氏の流れを汲み、新田家が本流でしたが、鎌倉幕府への対応で躓き、幕府からないがしろにされる一方、足利家は幕府にうまく取り入って勢力を伸ばし、当時関東では相当の豪族に成長していたようです。

足利家には高名な先祖・源義家が書き残した置文(遺書)があり、それには次のように書かれていました。「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」と。

ところが義家の七代の子孫にあたる足利家時は、それを実現できない不徳を恥じ、「三代後の子孫に天下を取らせよ」と祈願し、願文(置文)を残して割腹自殺します。

家時から数えて三代・高氏はその願文を見て、「自分こそは天下を取る」と決意します。

実際、その置文を見たという第三者もいるようですが、
現存しないし、ただの「伝説」だという説もあります。

そもそも、「義家といえば源氏本流・頼朝の祖先なのであって、
頼朝が天下を取ったのだから、義家の願いはかなっているのだ」
という話もあります。

小説では、家時の置文は高氏が読んだあと焼却します。

 

当時どういう時代だったか。鎌倉幕府も朝廷も大変不安定な状態でした。

鎌倉幕府は、蒙古襲来の後遺症で、武士は褒賞を受けられず、出費ばかり嵩むと不満を噴出していましたし、貨幣経済の発展で社会制度は流動化、歴代執権は、社会の矛盾をなんとかしようと、様々な施策を試みるものの何れも失敗、唯一やれることは、執権の強権で幕府の結束を保つことだけでした。

が、時の執権高時に至っては、政治そのものさえ投げ出し、遊興に耽る有様でした。

 

他方、朝廷はどのような状態だったか。

「両統迭立(りょうとうてつりつ)」が続いていた、あるいはその矛盾が噴出していたのです。「両統迭立」とはどのようなことか。

時の後醍醐から遡る90年前、御嵯峨天皇は、第一皇子が四歳のになると、この皇子に皇位(後深草天皇)を譲り、自分は退位します(上皇になる)。ところがその後、第二皇子が生まれると、御嵯峨はこの第二皇子を寵愛、17歳になった後深草天皇を退位させ、第二皇子を亀山天皇とします。

後深草は、持明院を御所としたので、後深草流は持明院統とよばれ、
亀山は、大覚寺に住んだので、亀山流は大覚寺統といわれます。

更に、亀山に皇子が生まれると、その子を皇太子(のち後宇多)にしたので、後深草は、長男である自分の皇子(のち伏見)を差し置いて取られたこの処置に立腹しますが、おとなしい後深草は、このときは我慢します。

しかし、御嵯峨が逝去したとき、「院政こそは自分が担う」と後深草が動きますが、またも亀山に邪魔されます。

ここまでくると、両統の確執は深刻化します。

問題をこじらせたのは、御嵯峨の遺書です。
それによると、
「今後皇位は亀山が継ぐ、
その代りに、後深草には、諸国180所の領地を与える」というものでした。

更に上皇や天皇の后の勢力争いが加わります。

しばらくゴタゴタが続いた後、やむなく仲裁に入った鎌倉幕府が提案したのは、「以後、持明院統と大覚寺統とで、10年毎に『かわりばんこ』で天皇を立ててください」、というものでした(これを両統迭立といいます)。

こうして、御嵯峨 -> 後深草(持) -> 亀山(大) -> 後宇多(大) -> 伏見(持)の後、
次に示すように10年毎に両統から順番に天皇が立ちました。

御伏見(持) -> 御二条(大) -> 花園(持) -> 後醍醐(大)

なお、(持)は持明院統、(大)は大覚寺統を示します。

しかし、こうなると大覚寺統は不満です。
持明院統は膨大な領地をもったままなのに、大覚寺統はこれまで認められていた皇位継承権を手放すことになるのですから、とても承服できるものではありません。

大覚寺統の後醍醐に順番が回ってきたとき、
後醍醐は、
「『かわりばんこ』は止め、自分が以後皇位継承権を独占する」と一人で方針を変え、さらに、
「武士の世は間違っている。天皇親政こそが正しい世の中だ」と倒幕を画策します。

当然持明院統は反発。
それどころか、日本全国、東北・関東から九州まで巻き込んだ大騒乱が勃発します。

 

倒幕の旗印を掲げ後醍醐のもとに参集したのが、高氏(尊氏)、新田義貞、楠木正成。

後、尊氏が、後醍醐とたもとを分かち、持明院統の光明天皇を担いで開いたのが北朝、京を追われた後醍醐が、吉野で開いたのが南朝になります。