月別アーカイブ: 2020年11月

3 posts

今年の花は終わりです

今年庭を飾ってくれた花々。まだ咲いています。クリックしてください。拡大します。2020/11/19

 

司馬遼太郎 「箱根の坂」2

応仁の乱は通常、室町幕府の将軍家および重臣のお家騒動が発端のように思われますが、
実は関東の騒乱が応仁の乱の遠因になったと言われています。

 

鎌倉公方、古河公方、堀越公方

足利尊氏は関東統治のために、鎌倉府を設置し、その子・基氏に関東10か国の統治を任せ、
以来、鎌倉府の長官=鎌倉公方は基氏の子孫が引継ぎ、上杉氏が補佐役=関東管領として世襲していきます。

ところが、やがて鎌倉公方は室町幕府および関東管領と対立するようになり(上杉禅宗の乱、1415年)、足利持氏(もちうじ)が室町幕府内の不満分子と組んで、幕府に反抗的態度を続たことで、
足利将軍義政は関東管領・上杉憲実と与して持氏を敗死させます(1439年)。

その後持氏の遺児・足利成氏(しげうじ)が許されて鎌倉公方になりますが、1455年成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、
幕府・将軍義政と上杉家が、成氏と争いをはじめ関東地方一円に騒乱が拡大します(享徳の乱、きょうとくのらん)。

幕府方が鎌倉を占領すると、鎌倉公方=成氏は下総・古河城に逃れ、以降古河公方と言われます。
義政は新たな鎌倉公方として弟・政知を関東に送りますが、政知は成氏側の抵抗にあい鎌倉に入れず、
伊豆の堀越御所に根拠を定めたので、堀越公方と呼ばれます。

延々28年間続いた騒乱も、1483年成氏が幕府に和議を申し和解し、成氏が引き続き関東を統治する一方で、
伊豆の支配権は政知に譲ることになりました。
すなわち、堀越公方=政知は関東統治ではなく伊豆一国に勢力を限定されることになりました。

 

新説・北条早雲

北条早雲

さて、北条早雲=伊勢新九郎の話に戻します。

現在北条早雲の研究では黒田基樹氏が第一人者と言われていますので、
以下黒田著「戦国大名・伊勢宗瑞」とWikipediaを参考にしながら早雲の生涯を整理します。

黒田説によると…

早雲は1456年生まれ享年64歳。
伊勢新九郎を名乗り、若くして足利将軍の申次衆(秘書役)になり、幕府で高級官僚の職を得ていた。
早雲の駿府における初期の軍事行動はすべて足利政権の指示あるいは了解を得ていたと考えらる。

また、北川殿は妹ではなく姉であり、当時の伊勢家は今川家に対して遜色ない家柄であり、正室として今川家に入った。
北川殿の夫・今川義忠が戦死すると、北川殿は将軍義政に積極的に働きかけて、嫡男龍王丸を今川家の当主にするお墨付きを得た。
実際に動いたのは伊勢新九郎であったといいます。

ですから、伊勢新九郎が義忠の従兄弟・小鹿範満を追い落とした軍事行動も将軍の了解を得ていたといいます。

 

伊豆討入り

堀越公方=政知は正室の円満院との間に清晃(のちの義澄)と潤童子をもうけていました。
政知は清晃を出家させていましたが、後々は清晃を将軍に、潤童子を鎌倉公方にする野心を持っていたといいます。
実は、政知には長男・茶々丸がいたのですが、政知はこれを嫌っていました(茶々丸の生母が不明、粗暴であったとも)。

延徳3年(1491年)に政知が没すると、茶々丸は円満院と潤童子を殺害して強引に跡目を継ぎます。

このとき清晃は父・政知の希望通り将軍義澄になっていて、義澄としてみれば母と弟の仇・茶々丸を誅殺する正当な理由を持ち、その任を隣接する今川家当主・氏親および叔父・伊勢新九郎に命じたと黒田は言います。

1493年新九郎は伊豆に討ち入りします。
しかし、茶々丸を取り巻く近隣武将とりわけ上杉家の分裂と和合、
それに対する幕府側の複雑な事情と相まって茶々丸討伐は簡単ではなかったといいます。

この間、伊勢新九郎は出家し、名前を早雲庵宗瑞に変えています。
これは早雲が将軍家の高級官僚の道を捨てて、駿河で戦国大名の道に進む決意であったと考えられています。

早雲が実際にどのように茶々丸を討ったかその経緯ははっきりしないようですが、
ともかく早雲は茶々丸を討って伊豆一国を支配することになり、すべては将軍・義澄が了解していたということです。

この早雲による伊豆討ち入りこそが、東国戦国時代の始まりといわれています。

 

その後早雲は、箱根の坂を超えて小田原を攻め、更に三浦氏を滅ぼして三浦半島を制圧し、
名実とも野戦国大名になっていきます。

 

早雲がなぜ強かったのか。それこそ戦国大名といわれる所以です。

すなわち、これまでの守護大名が、実際の統治は守護代や国人に任せて、上前だけを受け取っていたのとは違って、
早雲は領国に住み、領国内のすべてを自分自身で、くまなく目配りし、自分の考えでしっかりと統治する、
いわば民政を自分自身の力量で統治して、国全体をしっかりをグリップし、国力を上げていったのが大きな要因であったと言います。

この点は司馬遼太郎も何度も強調しています。

 

司馬遼太郎 「箱根の坂」

「箱根の坂」第一版は、1984年(昭和59年)司馬遼太郎61歳の時に上梓されています。
私は講談社文庫・新装版全3巻(2004年)で読みました。

前回ご紹介しました永原慶二「下剋上の時代」が描いた次の時代、
すなわち、戦国時代が切って落とされた時代に、
駿河(現静岡市)の東部に拠点を置いて、伊豆、小田原、三浦半島を制圧し、
後北条家の礎を築いた戦国風雲児・北条早雲の一代記です。

早雲の伝記・軍記物は江戸時代から種々あるようですが、史料としては不正確で、
最近の研究では、多くの修正がなされています。

司馬遼太郎が本書を書いたころ、新説が出始めていたのだと思いますが、
本書は従来の伝記に近い内容だと思います。

 

小説では、
出自を明言していませんが、備中伊勢家に生まれ、1432年生まれ享年88歳説を取っていて、
大器晩成の典型という風説に従っています。

早雲が生まれた伊勢家は平家であり、行儀作法の家元であり弓馬に秀でた名門家系とはいうものの、
伊勢家の末流で、源氏の足利幕府にあっては、
歴史から置き去りにされ落ちぶれた家柄、という設定です。

 

足利義視の家で申次衆(秘書官のようなものか)をしていた新九郎(早雲の通称)が、
義視の夫人の侍女として田舎から連れてきた妹・千萱(ちがや)のところに、
駿府当主・今川義忠が夜這に来て、その後駿河に呼び寄せ側室(正室?北川殿)にします。

1476年、応仁の乱の余波で今川義忠が若くして戦死しすると、北川殿と幼い龍王丸が残され、今川家の家督が問題になります。
龍王丸は嫡男であり跡を継ぐのが筋ですが、幼いため多くの家臣および近隣の武将は義忠の従兄弟・小鹿範満(のりみつ)を推します。
この時早雲が駿河に下向し、「龍王丸が成人するまで範満を家督代行とする」ことで決着させます。
早雲88歳没説ではこの時早雲45歳になっています(早雲の年齢については以下同じ)。

月日が経って、龍王丸がが15歳になっても、範満は龍王丸に家督を譲りません。
早雲は再度駿河に乗り込み、範満を討って、龍王丸を今川の当主(今川氏親)に据え、
これを期に駿河の東・興国寺城に館を構えます(早雲56歳)。

WEBから借用

室町幕府と鎌倉府の間に長い間確執が続いていて、
1458年室町将軍義政は鎌倉公方・成氏を古河に追い、弟・政知を鎌倉公方として送りますが、
成氏一派の抵抗にあい、鎌倉に入れず、伊豆半島の付け根、堀越に居を構え以後堀越公方と言われます。

WEBから借用

堀越公方足利政知には息子茶々丸、清晃、潤童子がいました。長男・茶々丸の母親は早くなくなり、茶々丸自身が粗暴であったので、父・政知は茶々丸を嫌い、他方、円満院との間の子清晃、潤童子を寵愛し、後々清晃を室町将軍に、潤童子を鎌倉公方に据えようと工作します。
ところが、1491年茶々丸は父・政知、円満院、潤童子を殺害、長男清晃は生き伸び京に逃れます。

この事件を間近に接した早雲は、今川氏親に兵を借り今川家代官として茶々丸を襲いますが、茶々丸は三浦に逃れます(早雲62歳)。
伊豆半島を一掃した早雲は以来伊豆一国を勢力下に置きます。

WEBから借用

その後早雲は堀越御所の近くに住み着きますが、当所はかつて鎌倉幕府執権北条氏が居住し、地名が北条であったことから、
早雲は「北条殿」と呼ばれるようになり、2代氏綱が正式に北条を名乗ります。
鎌倉幕府の北条氏と区別するために、後北条ということがあります。

早雲はこの間一貫して、甥・今川氏親の後見人としての立場を守り、氏親のために三河等各地に出陣していますが、
一方、東へは独自の行動を続けます。
すなわち、伊豆を制圧した早雲は、その延長として、箱根の坂を超えて、小田原を制圧し、
敵対した三浦家を三浦半島に討伐、相模を制圧します(早雲85歳)。

WEBから借用

早雲の嫡男氏綱(うじつな)は、小田原城を拠点に戦国大名として領国をよく治め、北条家5代の基礎を固めますが、
下って秀吉の天下統一に最後まで抵抗したため、戦国大名としての北条家は滅亡します。

WEBから借用

なお、早雲自身は伊豆韮山に在住し続けました。

小説では、早雲が勢力を拡大していった理由について、
早雲は善政をしき民衆からも慕われていたが、領土が狭いため経営が難しく、領土を拡張する必要があった。
拡張した領土は早雲自身がくまなく目配りをし、常に領民から慕われ、周辺の農民も早雲の領土に移住してきたほどであった。

と領土拡張の正当性の根拠にしているようですが、私には不自然に思えます。