平将門

私は広島で育ち、大学を卒業して大阪のゼネコン設計部で建築家を目指して働いていました。

会社の寮は芦屋の近くでしたので、関西にいることの利点を生かさない手はないと、休みになれば、電車やバスを乗り継いで、奈良に出かけて、日本建築の勉強のため古建築を見て回りました。

奈良を卒業して、そろそろ京都に行こうと思っていたとき、東京の某大学の大学院に行く決心をして、会社を1年足らずでやめましたので、結局、京都にはあまり行きませんでしたが、それにしても、奈良もまだまだ行きたいところは沢山残っていたし、それに比べて東京に来てみると、「なんと歴史の薄いところだ。何も見るものがない」と東京の歴史の浅薄さに失望したものです。

そんなわけで、関東に住んでいても、関東の歴史に関心がないままに、長い間東京周辺で生活してきました。

しかし、それにしても関東についてあまりにも知識がないと反省し、すこし身の回りの歴史を勉強しようと気持ちを変えました。

関東で最も有名な歴史上の人物の一人は平将門です。
それに、将門は私のご近所で活躍した人物です
それなのに将門のことは何も知りません。

童門冬二「小説 平将門」(集英社 2002年)を読みました。

Yahooの地図で確認しながら、「ここで誰々と戦った」と、1000年以上前の事件を興味深く辿りました。

時は平安京の時代(西暦930年代)で、都の政治は藤原氏が牛耳っていました。

天皇家もすでに60代を数え、天皇の末裔は沢山いた訳で、これらの人が全員貴族として、宮中で安穏な生活をしていたわけではありません。皇族の血を引くといえども、それぞれ独力で生活の糧を得なければいけません。

天皇の嫡出の男子およびその皇孫は親王とよばれ、それ以外の皇孫は単に王と呼ばれました。

親王は天皇直轄地の長官・守(かみ)の役職につきますが、彼らは実際には現地にはいかず、京都でぬくぬくと生活しています。

その穴を埋めるべく現地にいくのは、次官の位・介(すけ)をもらった王たちです。しかし、それさえもありつけない皇孫は、朝廷で実権をほしいままにする藤原家に恨みつらみを募らせます。

将門の先祖・高望王も上総介として関東に派遣され、将門の時代には、すでに土着の豪族と婚姻関係を結び、根を張った生活基盤を構築していました。

将門には叔父が沢山おり、大体は筑波山の西の肥沃な土地に居を構えていました。

従弟の貞盛は、京都で役職を得て、中央政権での出世を夢見ています。将門も京都で端役をもらい、実直に働いていました。

そんな中、将門の父良将が死去します。

良将が支配していたのは、筑波から西に外れた今の岩井や猿島、菅沼あたりの土地で、しばしば鬼怒川の氾濫に見舞われ(昨日集中豪雨で決壊したのもこの辺りです)、多数の小河川が縫う湿地が多い、稲作には適さないところです。

将門は、上司である摂政関白藤原忠平に暇乞いをし、筑波の地に帰ってみると、父の土地は既に叔父たちが占拠していました。

これが約10年に及ぶ大事件の発端です(と著者はいっています)。

将門は母の実家、今の茨城県取手市(関東鉄道常総線、新取手のあたり)にひとまず落ち着き、忠平から御厨の下司(下級役人)というポストを任命されていたので、間もなく、弟達と今の坂東市岩井と鬼怒川と小貝川に挟まれた常総線宗道近くに屋敷を構え、馬の改良・生産に力を注ぎます。

小説によると、将門は形式にとらわれない人間だったので、朝鮮半島から亡命してきた人や、中央政権から差別されていた蝦夷とも平気で付き合い、多くのことを学びます。

特に高麗人からは日本では見たことのない素晴らしい高麗馬を分けてもらい、騎馬による戦闘・戦術を教わります。高麗は朝鮮半島の北・高知を拠点にしていたので、騎馬戦を得意としていたのです。

叔父たちとの反目はやがて戦闘になり、しかし騎馬戦に長けた将門は、叔父たちとの数度の局地戦に勝利し、その結果、叔父一族は次々に戦死します。

当然叔父たちの憎しみは増し、泥沼の戦闘を続けることになります。

小説では、将門と貞盛は友人として、信頼していましたが、度重なる戦闘で、お互いに友情に決別します。

将門が武勇をとどろかせると、有象無象が寄ってきます。

一人は落ちぶれ貴族の興世王(おきよおう)です。興世王は武蔵国権守(ごんのかみー国守の補佐役)に任命されます。当時武蔵国国守は欠員になっていて、それをいいことに興世王は正式国守が着任する前に、私腹を肥やそうと勝手な行動をし、悪評が立った人物です。

興世王は藤原政治に反発して、東国に皇国を作ろうと企んでいました。

更に盗賊藤原玄明も近づき、収拾のつかない集団になっていきます。

これまでの騒乱は、あくまでも私的な闘争でしたが、やがて常陸や下野の国の役所を襲撃し、国印と鍵を奪うに至って、何かと将門をかばってきた摂政忠平も、遂に将門謀反と認定し、討伐の号令を出します。

謀反人と認定された将門は、興世王等に載せられて、京の天皇に対峙して東の親皇を名乗ります。

小説では、将門は決して中央政権に反抗するのではなく、あくまでも中央政権の枠組みの中でユートピア作りを目指したのだったが、一方の興世王にしてみれば、藤原に牛耳られた京都に対抗した王政復古の新政権設立を目指した、ということです。私には本当のところはわかりません。

さて、ときあたかも、瀬戸内海では藤原純友が乱を起こし、朝廷は将門討伐に中々力を尽くせない中、貞盛と下野の役人藤原秀郷(田原藤太)は連合で、将門に立ち向かい、(小説では)貞盛と秀郷が同時に放った矢が、将門の眉間に命中し、将門は即死します。

戦死した場所は、岩井の北、駒跳(こまはね)あたりと言われています。
将門享年38歳ということです。

将門は、東国では人気があったようです。
私の推測ですが、将門の性格が人々を魅了したのがベースでしょうが、京都公家政権に差別された東国武士のなにくそという気分もあったと思います。将門は神田明神に祀られて、戦国・江戸の武将は戦勝祈願にここを訪れたと伝えられています。
神田明神は江戸っ子には掛け替えのない神社でした。

しかし、幕末水戸の大日本史で、将門は天皇に弓引いた朝敵と断罪され、それ以降、日本3大極悪人の一人にされたということです。

なお、成田山新勝寺は、朝廷が将門征伐を祈願して建立したことから、神田明神と成田山新勝寺を両方お参りすると、将門のたたりがあると言い伝えられています。

小説は、朴とつ純朴な将門が、彼の意思に反して、事件の首謀者になってしまったと同情的に書いています。

時間をみつけて、つわものどもの夢の跡を辿ってみたいと思います。

error: コピーできません !!