吉川英治「親書太閤記」3

古来秀吉の「物語」は沢山あるようです。
秀吉自身、生前『天正記』という伝記を書かせていますし、死後も下のような沢山の太閤記があります(Wikipediaより)。
なにしろ天下人になったのですから、秀吉に関連する資料・文献も沢山あるようですが、自慢できる出自ではないので、若いころの話は作り話が多くて、どれもそのまま鵜呑みにすることはできないようです。

    • 『太閤様軍記の内』(太田牛一著、江戸時代初期)
    • 『甫庵太閤記』(小瀬甫庵著、寛永3年)
    • 『川角太閤記』 (川角三郎右衛門著、江戸時代初期)
    • 『絵本太閤記』 (武内確斎著・岡田玉山画、軍記物、1797年-1802年)ほか同名の書籍多数
    • 『真書太閤記』 (栗原柳庵編、安永年間(1772年~1781年)の成立、軍記物、人形浄瑠璃や歌舞伎における太閤物の原典)

この中で川角太閤記は江戸時代初期に川角三郎右衛門という武士が、秀吉と同世代に生きた武士から聞いた話をまとめたもので、信憑性が高いということです。

私は、「新書太平記」(以下「小説」といいます)をご紹介するにあたって、楠戸義昭著「豊臣秀吉99の謎」(1996年、PHP文庫。以下「99の謎」といいます)を参考にしたいと思います。

 

秀吉が信長の家臣になり墨俣城=一夜城を作るまでの話は、後世の作り話が多く実証性がないようです。

「小説」では、日吉は15歳で、幼馴染のお福が跡取りになっている茶碗やに奉公に出ますが、ある晩渡辺天蔵なる盗賊が、この店が所有する名器赤絵の茶わんを狙って押し入ろうとしたとき、日吉が機転を利かして、茶わんと引き換えに主人の命は助けるよう天蔵と交渉、目論見通りにことが運びますが、逆に秀吉は天蔵の一味と疑われ、結局茶わんやを後にします。

天蔵と縁続きの蜂須賀小六が天蔵の仕業を知り、家名を汚すとして天蔵を追跡、取り逃がしますが、その途中で日吉と遭遇し、日吉は蜂須賀小六の元で下働きを始めます。

当時美濃=岐阜の斎藤道三と義龍親子は血で血を洗う抗争を続けていましたが、蜂須賀党は道三との縁があり、道三に味方の立場でこの抗争に巻き込まれ、日吉も加担することになりますが、隙を見て蜂須賀党から逃走します。

「小説」では、この時稲荷山城(岐阜城)下で義龍の家臣であった(しかし、本心は道三に味方)明智光秀と遭遇します。

蜂須賀党から逃れた日吉は、針売りの行商で今川家が支配する遠州・浜松に至り、たまたま通りがかった松下嘉兵衛之綱に拾われます。日吉は松下嘉兵衛に可愛がられ、武芸・学問・兵法などを教わるが、先輩・同僚からねたまれ、松下家を出ます。

秀吉が松下嘉兵衛之綱に仕え、様々なことを学んだのは史実のようです。後年之綱が今川を離れ落ちぶれると、秀吉は之綱を召し抱え、「生涯の恩人」として長く篤く用いています。

小説では、松下家を後にした日吉は、路傍で信長に「仕官したい」と直談判をしたことになっています。

が、家を出てから信長に仕えるまでの流れは、吉川の創作部分が大きいと思います。

 

私の理解では、日吉が商家での奉公をあきらめて武士になろうと、針売りをしながら浜松に至って、ここで松下に仕えることになります(1551年)。
日吉は、松下嘉兵衛から可愛がられ、様々なことを学びますが、同僚の妬みにあいここを出奔、そののち蜂須賀小六にあって蜂須賀に仕えますが、このいきさつはよくわかりません。「99の謎」では、日吉が小六に会ったのは1555年だということです。

信長の母親の実家・生駒家は豪商であり武家でしたが、荷物の運搬の護衛に蜂須賀小六が頻繁に出入りしていました。

実は、この屋敷に吉乃(きつの)という未亡人がいて、信長が通いつめていたのです(信長嫡男信忠、次男信雄、長女得姫は二人の間の子供です)。

日吉はここに目を付け、最初は吉乃に接近、続いて吉乃を通して信長に対面を願い、「武家奉公がしたい」と信長 に直訴します(「99の謎」、1556年)。

 

之綱と小六との出会いの話は、「小説」とは逆の順番ですが、こちらの方が尤もらしいと思います。

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