平将門 2

将門の話を小説(童門冬二)で済ますのは、納得できないのでもう少し研究しました。

次の本を読みました。

幸田露伴「将門記」(Kindle)、村上春樹「物語の舞台をあるく 将門記」(山川出版社 2008)。幸田露伴は彼なりに将門の乱を整理しています。

一方、村上春樹は例の村上春樹ではなく、将門研究では有名な人だそうです。

村上本では、「将門記」の史実を追って、更には彼の研究を随所に配しながら、将門の足跡をたどっています。

以下は主に村上本からの将門の乱の顛末です。

まず、将門の乱の資料ですが、これは言わずと知れた「将門記」です。

しかし、この原本は失われていて、原本の作者も書かれた日時も不明です。今あるのは写本ですが、これも第一巻が欠落しているので、本当のタイトルが何だったのか分からないそうです(以下通例に従って、「将門記」といいます)。

原本「将門記」成立年は乱の直後という説と、もっと後に書かれたという説等様々あるようです。

上でいいましたように、現存するのは写本で、「真福寺本」と「楊守敬本」があります。「真福寺本」は1099年の作成、「楊守敬本」はそれより古いといわれていますが、「真福寺本」の方が丁寧に書かれているし、残存部分も多いので、将門記といえば、こちらを指しているようです。

「真福寺本」は1799年に木版復刻されたことも、この版が重視された理由でしょう。

「将門記」はいわゆる漢文で書かれていますので、漢文の教養のない私は、原本を研究する能力も気力もありません。

ここで東国平一門の家系を見ておきます。

平高望(高望王)は桓武天皇のひ孫にあたります。高望には、年齢順に国香、良持(良将)、良兼、良正、良文があり、将門は良持(良将)の子、貞盛は国香の子です。

一方、筑波山の北西の真壁のあたりに、嵯峨天皇か仁明天皇の末裔で、源護(まもる)という土着の豪族がいて、将門の叔父たちは護の娘たちと婚姻関係を結んでいました。

そもそもなぜ親戚同士で骨肉の争いを始めたのか、先にも書きましたが、「真福寺本」でも第一巻が欠落していて、第二巻ではいきなり将門と源扶(みなもとのたすく)兄弟との合戦(935年)が書かれているそうで、本当のところは分からないのですが、後年(江戸時代)に書かれた「将門略記」には、「延長9年(931年)、将門は良兼の女(むすめ)の問題で、叔父と甥の仲が悪くなった」とあることから、前回の小説で、土地争いが紛争の発端とするのは、間違いのようです。露伴も略記と同じことをいっています。

小説では、将門が良兼の反対を押し切って、娘さくらと結婚したこと、更には、護が娘たちを平一門に嫁がせたのに将門は応じなかったことから、将門が護や良兼やほかの叔父たちと不仲になったと書いています。露伴も同様のことをいっています。

さて、最初の戦いで一門の統領で貞盛の父国香が死に、源扶や兄弟も戦死したのに加えて、将門が真壁あたりの家々、神社仏閣を焼き尽くしたので、叔父、護一門の強烈な怒りをかうことになったと思われます。

その後、叔父良正が中心になったり、最初は関与していなかった良兼が中心になったり、壮絶な戦いを繰り広げます。

その間、叔父一族で多くの戦死者を出し、良兼も争いから身を引きそのご逝去したり、一方の、将門も苦戦のなか女子供がとらえられ殺害されたり、紆余曲折はありましたが、最終的には将門が親戚との戦闘では勝利します。

将門が本拠にした岩井に行ってみました。

下の写真は、菅生沼にかかる閘門橋(こうもんばし)から北を見たものです。南には、沼を挟んで孫と何度か行った茨城県自然博物館と、青少年キャンプ場・あすなろの里があります。また、この辺りは白鳥の飛来地として有名だそうです。

地図で見ると、飯沼川の上流は、川に沿って直線で区切られた農地が連なっています。おそらく将門の時代はここら一面湿地で、江戸時代以降盛んに干拓がおこなわれたと思われます。将門が最終戦をしたところは北山といわれていますので、当時このあたりにあった小山を崩して干拓したと推測されます。

将門は湿地を利用して、敵から身を隠したり、舟を使って移動したり、変幻自在の行動をしたのでしょう。

閘門橋から北・岩井の方角をみる
閘門橋から北・岩井の方角をみる

その後は前回ご紹介したとおり、将門軍は朝廷を向こうに回す反乱に暴走していきます。

なお、小説では貞盛と秀郷が同時に射った矢が将門の眉間を貫いたと書いていますが、将門記では将門の死亡の状況を具体的には書いていないそうです。

「扶桑略記」には、「すなわち貞盛の矢に中り落馬し、秀郷が駆せて至り将門の頸を斬り士卒にわたした」とありますが、「将門記」は「将門の死を惜しむ表現」だけにしたかったのだろうといっています。

小説にはところどころ推測があります。小説なのでやむを得ないのかもしれません。が、妻たちと性交したとかやりまくったとか、唐突に書いていますが、元本にあるのでしょうか、著者の作り話とすれば、いかにも安っぽいリアリズムに思えてしようがないです。

貞盛や秀郷、更には途中将門討伐に加わった源経基等は当初下級役人でしたが、討伐の褒賞として相当の官位を授かります。

そして、彼らはこれを機に武士の道を進んでいき、やがて貞盛の子孫に清盛が、経基の子孫に義朝が登場、彼らは宮中政治にクーデターを起こし、国政に決定的な革命・武家の政治を始動します。

歴史の皮肉、あるいは歴史の必然というべきでしょうか。左翼思想家は、これぞ弁証法の実証だというのでしょう。

初期の武士とはどのようなものだったのか。私はずっと気になっていました。暴力団とどう違うのか。

少し勉強してみたいと思います。

error: コピーできません !!