清盛、義仲、義経、頼朝

数年前、NHK大河ドラマで[平清盛]が放映されました。

私は広島で育ったので、(厳島神社を平家の氏神にした)清盛の話を楽しみにしていたのですが、映像が埃だらけで汚いのと、武将がやたら泣いたり、わめいたりするのを、「ありえないだろう」と思って、結局ほとんど観ませんでした。

今回平安時代の武士の歴史を勉強し、また[新平家]を読んで当時を想像するに、少なくとも宮廷の外は、どれほど殺伐とした時代であったか、と思いめぐらします。

殺すか殺されるか、まさに仁義なき戦いです。

後々のため危険な人物は殺しておかなければいけない。清盛は死の床で、かつて幼かった頼朝を殺さなかったことを激しく後悔、頼朝は身内も、平家の残党も徹底的に殺戮する。

義経の戦いは、奇襲戦です。
勝つためには、民家を焼き、非戦闘員まで殺します。

それができるかどうか、それをやるかどうかが、生き残るかどうかに直結します。

もう一度言いますが、このような時代、キリキリして生きていた武士がやたらに泣き叫ぶものか。ありえないと私は思います。

 

それはともかく、平家物語の人々の性格やものの考え方はどのようなものだったのだろうかと、[新平家]を読みながら、何度も考えました。

後白河法皇の行動は分かります。

力はない、権威はある。
天皇家や公卿を護るためにどうすればいいか。
権威を唯一の絶対的力と振りかざして、
武力を有する者たちを手玉に取るしかありません。

自分たちに都合のいい武将は、用心棒として手元に置きたい。

後白河が人間的に、善良であったか、邪悪だったか知りませんが、
彼はあのように振る舞うしかなかったと思います。

 

清盛も分かります。

貴族社会の中で、皇族からはじき出された家系の人間であってみれば、できれば天皇に近い立場で、それなりの地位につきたい。

自分ひとりでなく、一族もそのような立場にしたい、と思うのは自然なことです。

特別、腹黒くもなく邪悪でもないと思います。

少なくとも、保元の乱あたりまでは、「天皇をおしのけて」とまでは思ってもみなかったのでしょう。変わったとすれば、娘徳子が安徳天皇を出産して、朝廷の中で地位が向上した頃から、彼自身また一族の者も増長しただろうことは想像できます。

 

義仲も分かります。

おそらく、義仲は、平家に代わって朝廷での地位を得れば満足だったのだと思います。

しかし不幸なことに、彼は若いころ京で生活したこともない。
生活様式、ものの考え方、しきたり、あらゆる面で彼と都とは相容れなかったのでしょう。当然、お互いにお互いを受け入れることができなかった。

彼が都に長く居座ることは、元々不可能だったと思います。

私のもっていた義仲のイメージは、木曽の山奥で育った、粗野な酷男でしたが、[新・平家]ではそうではなく、彼はイケメンで、女にもてたといい、小説では、彼の周りの3人の女(巴、葵、山吹)を長々と書いています。

また、義仲軍には女兵士の部隊があって、上の女たちも武器を持って、義仲と共に戦っています(小説では)。

 

義経も分かります。

小さいとき、社会から隔離され、父親の話や祖父や源氏の祖先の話も聞いて育ったのでしょう。

しかし、自分にはいいことがなにもないままに成長し、たまたま、頼朝とともに兵をあげ運よく平家に大勝、都に凱旋して、法皇から褒賞や重要な役職を受ければ有頂天になり、法皇に忠誠を誓う。

ごく普通の感が鋭い勇敢な青年だと思います。

小説では、平家との和議を最後まで模索し、平忠時と連絡をとりあっています。

 

しかし、その義経が許せなかったのが頼朝です。

小説では、なぜ頼朝が義経を許せなかったのか書いていますが、リアリティが感じられない。

義経は頼朝に対して一貫して誠実であろうとし、頼朝はあくまでも義経に対して冷淡であったとの印象が残ります。

頼朝が義経の考えに誤りがあると思うのなら、どうして兄として弟に説教しなかったのか。小説では、頼朝が一度たりとも義経を身近において話し合った場面がありません。

義経が平家討伐を果たし、捕虜を連れて鎌倉の郊外まで来たとき、義経が弁明書を提出したのに、それさえも無視するのはなぜか。

なぜ会って、間違いを正さなかったのか。
私には理解できません。

私は頼朝は日本で初めて登場した革命家だと思うのですが、大所高所からものを見た頼朝の、義経に対する狭量さと辻褄を合わすことができないのです。

 

頼朝が何を考えていたか、Wikipediaでもこの小説でも、また色々な本でも書かれています。

清盛も義仲も、あまりにも京に近づきすぎた。
彼らは朝廷の中での、一定のポジションを求めた。

しかし、頼朝は朝廷をはっきり拒絶した。
そして京から離れた鎌倉に新政権を樹立した。

義経も清盛、義仲と同じ行動をした。
それを頼朝は嫌った。
そこまでは分かるが、頼朝の態度は理解できません。

更にいえば、頼朝はどうしてそのような考えを持つに至ったか、人間頼朝の思考形成がなかなか理解できません。

むしろ、頼朝は私の理解を超えているといえばいいのでしょうか。

頼朝は、清盛や義仲の失敗を見ていた。
そして祖先の失敗も見てきた。
忠常の乱での頼信、前九年の役での頼義、後三年の役での義家、
保元の乱での為義、平治の乱での父義朝の成功と失敗も見てきた。

多分13歳まで京で暮らしたことも重要だったのでしょう。
京を羨むだけでなく、冷静に見ることができた。

また、伊豆での幽閉では、周りには味方をする人も、監視する人もいた。
この環境の中で、沢山の考える時間もあったのでしょう。

しかし、それが頼朝の思想形成の説明になっているのでしょうか。

 

源平の合戦で登場する武将は、平家方は平家一門ですが、源氏には多くの他家の武将がいます。

私は、頼朝には常に政子や北条家や大江広元等のブレーンがいたのだと思います。
「頼朝」は「チーム頼朝」だったと推測します。

彼は挙兵したときから、「チーム頼朝」で議論し、相談しながら戦ったのだと想像します。

それは彼の強みでもあり、弱みでもあったのでしょう。
彼は鎌倉幕府を樹立しますが、源氏嫡流は3代実朝で終わり、後は、北条を中心とした御家人による合議制の政治体制を取ります。

もしかしたら、義経に対しても、身内として特別な対処をすることを憚ったのかも知れません。

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