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私論・鎌倉幕府創生 2

結論からいえば、鎌倉幕府を作ったのは、東国武士団の新しい時代への渇望と、北条家の権力への欲望と、大江広元の理論構築であり、頼朝はこれらの勢力に担がれた神輿だったということです。

頼朝を担いだ勢力が最初から明確な設計図を描いたのでないでしょうが、そのような方向に向かう力を内在していたと思います。

 

鎌倉時代初期の登場人物はどのような性格だったか。

まず頼朝です。
頼朝は義仲と対極の人格だった。

義仲は木曽の山の中で、暴れまわっていたので、武芸に優れていたし、蜂起したときは仲間がいた。また、日常の様々な行動の中で「俺についてこい」と彼らを引っ張っていった。

一方、頼朝は北条時政の手元で監視下に置かれたので、武芸を磨く状況ではなかったし、戦う仲間もいなかった。反面、頼朝は教養を身に着け、精神的に苦労してきたので、理性的に状況判断をする力があった。「俺についてこい」タイプではなく、意見の集約や根回しをするタイプだった。

東国武士はどうだったか。
東国武士は、これまでは朝廷の従者・犬でしかなかったが、200年前に、将門が目指したように、東国で武士の国を作ることを夢みていた。

北条時政はどうだったか。

基本的には、東国武士団と同じ考えだったし、更に頼朝の外戚であることを利用して、東国武士の頂点に立つ時が来た。北条はもとはといえば、清盛とも近い天皇家の血筋だ。「清盛に代わって我が北条が天下をとるのだ」と。

大江広元はどうだったか。

広元は、京都の下級官僚だったのだが、頼朝挙兵直後から、冷徹で優秀な事務官僚として頼朝を補佐していて、彼が頼朝を裏切ったとは思わないが、「東国かくあるべし」との理論構築をしてきた。

 

源平の戦いは東国武士団の立場からすると、どのようなものだったのか。

1180年、以仁親王は源頼政を頼りに平家討伐の兵を挙げますが、あっけなく鎮圧、親王は檄文・令司を頼政に、更に源行家に託します。

行家は近江、東海、関東の源氏にこの令司を伝え歩き、その一つが伊豆の頼朝にも届きます。

頼朝は北条家に幽閉されていましたが、この令司を追って、やがて平家の追討の手が、自分にも迫るとの危機感を持ち蜂起を決めます。

北条は平氏の血筋です。北条時政は娘婿・頼朝が決起することに、葛藤があったでしょうが、それを振り切って、北条一族の命運を頼朝に賭ける決心をします。

 

当時は清盛の時代ですから、当然関東の有力武将(梶原、和田、三浦、上総介、千葉)は平家の血筋です。

このような平家方武将が結局頼朝に加勢しますが、その背景には、北条時政の力が大きかったと考えるのは理に適っています。

義経が一の谷、屋島ついには壇ノ浦で平家を壊滅し、京に凱旋すると、時の後白河は大喜び、義経に褒賞を与えます。

そしてその足で平家の捕虜を連れて、鎌倉に報告に向かいますが、頼朝は義経と会うことを拒みます。

この時東国武士は、「我々が担いだのは頼朝であって、源家が次々に功労者として登場するのはあってはならないこと、頼朝と義経は離反させなければいけない」と考えたと思います。

はっきりいえば、東国武士からすれば、お神輿・頼朝はしようがないが、それ以外の頼朝の親族は邪魔者なのです。

頼朝は、強力な指導者ではない、また自身の武力を持たない。彼らの意見に従うしかなかったのです。

頼朝なきあとも当然その脈絡は変わるはずもなく、18歳で将軍になった頼長も将軍職追放、後に殺害。このどさくさで、頼家の兄・全成も頼家の外戚・比企一族も討伐されます。

3代将軍実朝を頼家の嫡男・公暁に殺させたのは、2代執権義時といわれています。

東国武士の思惑通り、これで頼朝流源家は全滅します。

北条家が続いて取り掛かったのは、頼朝と共に戦った重臣・御家人を次々と謀略で討伐することです。

北条家の最盛期・5代執権の時代には、有力武家を排除し、北条家の宗家といわれる家柄に権力を集中します。

 

このように見てくると、鎌倉幕府は頼朝のイメージが強いですが、実は北条幕府だったと思います。

 

結局、武家の歴史で最初に躍り出たのは平氏であり、鎌倉幕府も平氏の勢力は続き、北条を倒した足利になってやっと源氏の血筋が、日本の最高権力者になったのだと思います。

独断と偏見に満ちた私の鎌倉幕府のイメージです。

源氏も平氏も天皇の末裔です。当時の人々がどれだけ、源氏だ平家だと血筋にこだわったのか知りません。

私論・鎌倉幕府創生

一通り、鎌倉幕府を勉強して、どうしても気になることがあります。

頼朝が義経に対してとった行動と頼朝流源家の滅亡です。

以前にも書きましたが、
頼朝はどうして義経を殺害し、範頼を排除する必要があったのか。
彼らは頼朝に反抗し、敵対したのではない。
彼らに非があったとしたら、それを正す方法はいくらでもあったのではないか。

義経が壇ノ浦で平家を壊滅し、京に凱旋したときの彼の行動について、
頼朝が怒っているのを知り、
戦況報告のため、捕虜を連れて鎌倉郊外についたとき、
弁明書を書いて、頼朝の許しを請うたのにも関わらず、
頼朝がそれを無視し、義経に反撃するしかない立場に追いやったのは異常です。

頼朝が義経の京都かぶれを嫌ったといいますが、
自分も実子・大姫を京の公家に嫁がそうとしたり、
その後の二代将軍も三代将軍も京都志向だったのに、
義経だけはそれを許さないのは完全に矛盾した行動です。

頼朝が身内をすべて誅殺したために、
自分がトップになったとき、周りには頼りになる身内がいない状態でした。

「本当?」と首を傾げたくなるのは、頼朝の死因です。

頼朝は落馬が原因で死んだといわれていますが、
「頼朝ともあろう人なら名馬に乗っていたのだろう。
まさか暴れ馬に乗っていたのではなかろう」、
「当時の武将が平時に落馬して死ぬようなことがあるのだろうか」と、
にわかには信じられません。

二代将軍頼家は、政子に蟄居を命じられ、入浴中に斬殺されますし、
頼家の子・公暁が、それを恨んで三代将軍実朝を殺した、
というのも不自然です。

 

頼朝に関連する歴史は謎が多すぎます。

この時代を語る史料は、[玉葉]、[愚管抄]、[吾妻鏡]です。

[玉葉]は、頼朝と親交のあった朝廷の高級官僚・九条兼実の日記、
[愚管抄]は兼実の兄弟の慈円がまとめた歴史書です。

私はこれらを読んでいませんが、
[玉葉]や[愚管抄]は、鎌倉武家の内実を多くは語っていないようです。

[吾妻鏡]は[玉葉]を参考にしながら、北条家が後で編集したもので、
北条の都合がいいように書いた反面、源家には批判的な記述だといいます。
ですから、[吾妻鏡]をそのまま信じることはできません。

要するに鎌倉初期の歴史を明確に語る史料が不足しているようです。

そんなわけで、多くの歴史家も鎌倉初期の歴史は「おかしい」と思っていながら、
断言できないというのが真実だと思います。

その分、市井の歴史家は、結構「おかしい」のようなことをいっていますが、
私も鎌倉幕府の「真実」を証拠もないのに独断と偏見で断じたいと思います。

網野義彦「蒙古襲来」3

さて、蒙古襲来に幕府はどのように対処したか。

時宗は非常事態への迅速な対処が必要と考え、時間のかかる合議ではなく、気心がしれた御家人と自分の家臣(御内人)とで協議し事を処理していきました。

また、朝廷の同意を得て公卿や寺社の所領にも地頭を置き兵力の増強を図る一方、九州の防備を急ぎ、寺社には、国難退散の加持祈祷を命じます。

見方を変えれば、国の緊急事態は、幕府の支配力を強めることになります。

2回の元寇を撃退した後、三度目の襲来が予想される緊迫のなかで1284年、時宗は急死します。

これを期に、時宗を補佐していた、御家人のトップ安達泰盛と御内人のトップ内管領・平頼綱が衝突、翌1285年、平頼綱は泰盛を突如襲撃・殺害し、泰盛派の御家人らを討伐します(霜月騒動)。この事件により、幕府内での御家人の地位は低くなり、幕府は得宗家とその御内人が主導する得宗専制を確立します。

平頼綱は、時宗を継いだ13歳の北条貞時(9代執権)を補佐し、得宗専制の強化に尽力しますが、もともと北条家の家臣である御内人と、頼朝と共に戦い形式の上では将軍の従者である御家人とでは身分が違い、戦後処理は遅々として進まず、さらには実権を握った御内人政権に賄賂が横行し、政治が腐敗します。

1293年、成人した北条貞時は平頼綱一族を討滅(平禅門の乱)し、政治の実権を内管領から取り戻し、実質的な得宗専制を強化します。

貞時は、戦後山積する問題に高圧的・独断的に処理していきます。頼綱政権下で停滞していた訴訟の迅速な処理のため、判決を全て貞時が下すこととしたため、当初、御家人らは訴訟の進行を歓迎しましたが、ほどなく独裁的な判決への反発が高まってきます。

そもそも蒙古襲来での戦勝品がないため、戦った御家人は大した褒賞を得られなかったところに、その後も異国警固番役や長門警固番役などの新たな負担を抱えていました。

また、普及してきた貨幣経済に対処できない御家人は窮乏し、分割相続による所領の細分化がおこり、階層分化が進みます。

御家人の窮乏を救おうと出した徳政令は、当然非御家人の反発を買い、痛い目にあった非御家人は、2度と御家人に経済的関係を持とうとしませんから、これは逆に御家人を更に窮地に追い込むことになります。

多くの御家人は没落して、所領を売却したり、質入するなどして失い、幕府への勤仕ができない無足御家人も増加します。

一方で彼らから所領を買収・取得する事でのし上がる者もおり、その中には非御家人も数多くいました。こうした無足御家人と、力をつけた非御家人は、悪党化し、社会情勢を一層不安定なものにします。

窮乏する御家人をよそに、北条一門だけは知行国を著しく増大します。

満12歳で執権に就任した貞時でしたが、どうやってもうまくいかない政務に意欲を失い、30歳にして出家しますが、その後も幕府に対して一貫性ない関与を続けます。

晩年は、酒宴に耽ることが多くなり、重臣からは素行の改善を願う趣旨の諫状がだされます。1301年、貞時死去。

貞時死後、北条支流が中継ぎ執権に就いた後、1316年貞時の子高時が14歳で14代執権に就きます。

高時はもはやなす術を見つけられず、政治を放り出し、田楽・闘犬等遊興に耽る有様です。

社会の不満が頂点に達したとき、後醍醐天皇が登場します。後醍醐は即位すると、天皇を中心とする政治体制の再構築を企てます。

1324年、後醍醐の蜂起計画が露呈し、日野資朝・日野俊基など側近の公家が処罰(比較的軽い)されたますが、後醍醐は諦めず、1331年再度倒幕計画を立てます。が、これも事前に発覚し後醍醐は翌年隠岐島へ流されます(元弘の乱)。

しかし、仏門にいた護良(もりよし/もりなが)親王は父・後醍醐に同調し還俗、参戦します。護良は、令旨を発して反幕勢力を募り、呼応した得宗専制に不満を持つ楠木正成、赤松則村(円心)などの[悪党]が各地で反幕府の兵を挙げ、善戦します。

1333年、反幕府勢力の討伐のために京都へ派遣された御家人・足利高氏(尊氏)が、一転して後醍醐側へつき、5月7日に六波羅探題を落とします。

ときを同じくして、御家人・新田義貞は上野国で兵をあげ、多くの武将を味方をつけながら鎌倉を目指し、同年5月21日、遂に稲村ケ崎から干潮の由比ヶ浜に入り御内人軍団と激闘、これを打ち破って鎌倉を陥落します。

鎌倉陥落を知った後醍醐は京都へ帰還し親政を開始します(建武の新政)。

幕末の攻防の構図は、(得宗 + 御内人)対(天皇 + 御家人 + 悪党)とみることができます。

網野義彦「蒙古襲来」2

1256年、鎌倉幕府の最盛期を築いた5代執権・時頼は出家し、執権職を長時(6代)に譲りますが、実権は自身が握り続けます。これは、執権職と幕府の実権との乖離を意味します。以降、時頼の嫡流(北条宗家)が実権を握り続けることになり、これが鎌倉幕府の根源的な矛盾になっていきます。

1263年、時頼が逝去すると執権・長時も出家します。

時頼の子・時宗が次の執権に就く予定ですが、時宗はまだ14歳だったので、北条政村が7代執権につき、時宗はその補佐役=連署に就任します(1264年)。1267年、モンゴルから日本との国交を求める国書が届きますが、威圧的文面および宋からの情報から容易ならざると事態と認識。

非常事態に直面した幕府は執権・連署の所を変え、時宗が18歳で執権(8代)に、政村が連署に就任します。

モンゴルからの国書に対して、朝廷は返書を出す意向でしたが幕府は無視する方針を取ります。

幕府が数回蒙古からの国書を無視続けたために、蒙古・高麗連合軍は、1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)、二度に亘って北九州に襲来、日本に多くの被害を及ぼしましたが、鎌倉武士団はよく戦い、台風の助けもあって、元寇を撃退します。

この本では、約600ページの内およそ150ページを使って元寇について解説しています。

元寇の細かな部分では諸説あるようですが、大筋はあまり異論はないと思いますし、私は元寇よりも、これによって鎌倉幕府がどのように変節したかに興味があるので、元寇についてはこれ以上書かないことにします。

ただ一つ、著者の次のような主張は、私にはショッキングであり、到底納得できるものではありません。

しかしこの外寇が、一夜の暴風によって終わったことは、はたして本当の意味で、日本人にとって「幸せ」だったのだろうか。犠牲はたしかに少なくてすんだ。それが一つの幸せであったことはまちがいない。しかし不徹底な結末は「神風」という幻想を遺産としてのこし、のちのちまで多くの日本人を呪縛しつづけた。この意味で、敗れたりとはいえ徹底的に戦った三別抄をその歴史にのこした朝鮮民族は、苦闘したもののみにゆるされる真の幸せをもっている。
七百年まえの偶然の「幸せ」に、つい五十年まえまで甘えつづけていたわれわれ日本人は、きびしくみずからを恥じなくてはなるまい。(295ページ)

日本は台風の力を借りて蒙古軍を撃退した。それがために、日本は台風を神風といって神格化し、明治以降は、日本を神の国という幻想の中で軍国主義に進んでいった。という主張に私は反対しない。

が、高麗がモンゴルによって完膚無きまでに凌辱されたことが、日本に比べて幸せだったという主張は、それで朝鮮がいい国になったのかということを含めて、全く賛同しない。

第一なぜここで、このよう話をしなければいけないのか。

「幸せ」という多様な評価基準がある概念を、この場で著者の判断を述べる必要があるのか。歴史学者は唯物史観・左寄りの人が多いと聞きましたが、この一文で「やはりな」と思うばかりです。

網野義彦「蒙古襲来」

昨年夏、「平将門を勉強しよう」と思い立ち、その後、平安・鎌倉前期までの武士の生い立ちと盛衰を勉強しました。

当然の成り行きとして、鎌倉時代後半の勉強に進んだのですが、少し手間取りました。

これまで基本的に講談社版「日本の歴史」を読んできたので、鎌倉時代後期の第10巻・筧雅博[蒙古襲来と徳政令]を読み始めたのですが、どうしたことか、まったく興が乗らない。数十ページ読んだところで、アマゾンでの評価をみると、この本の評価は大変悪い。「みなさんそう思っているのか。私が悪いのではないのだ」と、この本を読むのを止めました。

今度はアマゾンの評価がいい本を読んだ方がいいと、評価の良かった網野義彦「蒙古襲来」(2015年、小学館)を読みました。読み始めると、この本は私にとって大変新鮮な感じがしました。
記述が具体的で、歴史の中心にいた人たちだけでなく、庶民の行動・生活が細かく書かれているためです。
今回網野の本は初めて読んだのですが、網野は知る人ぞ知る高名な歴史家のようで、多くの読者を持ち、また彼の学説には賛否両論があるようです。

ところで、最初この本は面白いと思ったのですが、読み進めるとしんどくなってきました。多分、この本にはたくさんの古文書の引用があり、それが続くと初心者には苦痛になってくることが理由だと思います。著者が力をこめて解説すればするほど、初心者の私には、拒否感が増してきて、読み進むことができませんでした。ですから、著者が本当に主張したい部分、そして学会で議論ななっている部分を、私は殆ど理解していないのかも知れませんが、ともかく私なりに理解した部分をまとめたいと思います。

この本が扱う時代は、北条執権の全盛期を築いた5代執権時頼から始まって、蒙古襲来に対峙した時頼の子・8代執権時宗、蒙古襲来の後始末のあたった9代執権貞時、後醍醐の決起により鎌倉幕府が滅亡する14代執権高時までです。

以下まず、鎌倉時代後期がどのような時代であったか。この本を読んで得た私のイメージを書きます。

前回書きましたが、鎌倉幕府創設以来、幕府内部での抗争が続きますが、時頼の治世になって、やっと執権の力が確立し、また公平性を確保する司法制度の充実したことで、鎌倉幕府の安定期を作ります。

しかし、安定したのは幕府の政治体制であって、社会は決して平穏ではなかったと思います。

当時農民は必ずしも土地に縛られていた訳ではなく、不満が募れば領主に反抗して、しばしば自分たちを庇護してくれる権力者や寺社をたよって集団逃亡します。

また、たくさんの浮遊する非農民もいました。すなわち漁業や狩猟で生活をするもの、鋳物師や鷹匠のように求めに応じ住居を変えるもの、渡り歩く各種の芸人や博打うち等々です。

また、貨幣経済の発展に伴い、富めるものと貧するものができます。特に蒙古襲来で疲弊した多くの御家人は、所領を細分化して命脈を保ったり、更には自分の所領を手放してしまいます。

幕府は御家人を救済すべく徳政令を発令して、非御家人に渡った財物を御家人に無償で返却させますが、これは逆に深刻な副作用を起こし、社会を混乱に陥れます。

幕府がいくらテコ入れしても、一部御家人の没落は食い止めようがなく、土地を失った御家人や逆に力をつけた非御家人は、[悪党]と言われる反体制のアウロロー集団を作り、色々な紛争を引き起こします。

幕府は度々悪党掃討に乗り出します。

もう一つ、社会を不安定化するのが寺社です。現代人は想像できませんが、当時の人々は天変地異を恐れ、呪いや仏教の教えを信じていました。

このような人々の畏怖を背景に、寺社は自分たちの主張を通すために、しばしば朝廷や幕府に対して強訴します。

これらの不安定勢力に加えて、当然朝廷、幕府、御家人の内部でも、またこれらの勢力相互間でもしばしば紛争が起こり、その結果、沢山の訴訟が朝廷や幕府に持ち込まれます。

朝廷や幕府はこれらの騒乱や訴訟を迅速に判断し解決なければ、幕府に対する不満が蓄積されます。

そしてその不満が頂点に達して時、鎌倉幕府は滅亡の危機を迎えることになります。