月別アーカイブ: 2013年08月

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64ビットOS

私が主に使っているコンピュータは、
およそ4年前に買った[Dell Studo 540](Vista Home x86)です。
一度ハードディスクを交換しましたが、
静かだし、特に不満はありません。

アプリケーション・ソフトの開発者として「特に不満はない」という意味は、
このコンピュータで開発できないほど大きなプログラム、
すなわち数千万行におよびプログラムは書かないということです。

私がコンピュータを始めたころ、
コンピュータは大変高価で、大きな部屋にドンを座っていて、
夏は大型クーラーが部屋全体を冷却しなければいけない代物でした。

それでも私が初めて使ったコンピュータは16ビットOSだったと思います。
その後「発明」されたパソコンは8ビットOSだったと思います。

8ビットOSということは、何が問題かといえば、
大きなプログラムが書けないということです。

プログラムは最終的に機械語に翻訳されます。

一つの機械語命令は、[オペレータ]部と[オペランド]部からなります。
たとえば[1をアドレスAに保存せよ]という命令では、
オペレータは[保存せよ]、オペランドは[1]と[A]です。

ここで問題は[A]というアドレスです。
アドレス部に8ビット(1バイト)使うと、指定できるアドレスの数は256です。

1ビット 2
2ビット 4
3ビット 8
4ビット 16
5ビット 32
6ビット 64
7ビット 128
8ビット 256

すなわち、8ビットOSでは機械語に落ちた時のプログラムの大きさは最大256行です。

こんな小さなプログラムもパソコンが出現したときは、
みなさんはそれなりに有効に使っていました。

16ビット(2バイト)で約6万、32ビット(4バイト)で約4G(ギガ)の大きさのプログラムが書けます。
アプリケーションの開発では、16ビットコンピュータは時に小さすぎますが、
32ビットコンピュータは普通のプログラム開発では十分です。

上の議論は正確ではありません。
アドレスがバイト(8ビット)の先頭を指すのなら、
上の数はアドレスが指し示すバイトの数です。

私が機械語(アセンブラ)の勉強をしたのは昔のことで、
現在の命令がバイトをさすのかワードを指すのか知りません。

ただ、ここではアドレスの大きさが、指し示すことのできるアドレスの数の上限を決めている、
そしてバイト数による上限が幾らかを理解しておけばいいと思います。

しかしOSの立場からすると、ハードディスクは今や数テラバイトの大きさは普通になってきましたし、
大きなプログラムが何本も走ることはこれからますます増えて、
メインメモリも4Gを超えてきました。
OSは4Gを超えてメモリを管理しなければいけません。

という訳でアプリケーション開発からは必ずしも必要ないのですが、
OSのメモリ管理の立場から64ビットOSが必要になってきました(そう理解しています)。

 

前置きが長くなりましたが、
そんな訳でアプリケーション開発者である私は、64ビットOSにあまり関心がありませんでしたが、
気が付くと、世の中どんどん64ビットOSを採用しています。

私が作っているパッケージソフトも64ビットOSで動作させる必要に迫られてきました。

64ビット版パッケージソフト作成に取り掛かりました。
まず、64ビット[Windows 8]に[Visual Studio 2012 Premium]と[Office 2010]をインストールし、
この上に32ビットVistaで開発したプログラムをコピー、コンパイルしました。

意外にもコンパイルまではすんなりいきましたが、
動作させるとエラーがでます。

実はこのプログラムはデータベースにAccessを使っています。
色々試行錯誤して分かったのですが、
まず、64ビットOSには64ビットOfficeをインストールしなければいけません。
Officeを単独で使う分には32ビット版をインストールしても使えますが、
64ビットアプリケーションから32ビットAccessをコールすることはできません。
ビルドでターゲットコンピュータを32CPUと宣言すれば動作しますが、
そもそも64ビット用アプリケーションを作成しようとしているのですから、論外です。

今問題を拡大したくなかったので、
32ビット版の開発環境に近づけるために、
別のコンピュータに[Windows 7 x64]をインストールし、
32ビット版と同じ[Visual Studio 2010]と[Office 2010 x64]をインストールして、
Accessファイルも新たに作った64ビットAccessにインポートしました。
([Visual Studio 2010]そのものは32ビット製品のようです)

ビルドして、64ビット版アプリケーションが完成です。

 

つぎはセットアップ・プログラムです。
出来上がったアプリケーションソフトをユーザのコンピュータにインストールしなければいけません。

私は、ずっとセットアッププログラムに悩まされてきました。

私にとってのセットアッププログラムの必要条件は、
① プロダクトキーによるソフト管理
② ターゲットコンピュータにAccess Runtimeのような、
アプリケーションで必要なソフトが既にインストールされているかどうか検査し、
インストールされていない場合は自動でインストールする仕組み
③ Patch。
プログラムの更新で、変更部分だけの差分インストール

等です。

セットアップで一番簡単で確実なツールは、
[Visual Studio]に添付されている[Setup Project]プログラムですが、
これは上の条件の何れも満足しません(②は不十分です)。

セットアップソフトとしては、InstallShieldが一番いいのでしょうが、1本数十万円しますし、
OSが変わるとその都度バージョンアップしなければいけません。
私の立場からすれば、コストパフォーマンスの点で不採用です。

数年前、比較的安価なInstallAwareというセットアップソフトを購入したのですが、
このソフトは不具合が多いし、頻繁にバージョンアップします。
バージョンアップでなにが変わったのか分からないのです。
むしろ「バグ取りしただけだろう」といいたいくらいで、
機能的にはいいのですが不信感をもっています。

 

なので、WIX(Windows Installer XML Toolset)を使いたいのですが、
ドキュメントが少ないし、開発が遅い。
「本気で普及させる気があるのかな」と疑うほどです。

今は次のように考えています。
(何れも、32ビット版と64ビット版が必要です)

デモ版は、、[Visual Studio]に添付されている[Setup]プログラムを使う。
製品版はなんとか、InstallAwareの機嫌を取りながら使う。

幸い、WIX3.6では先の②に相当するBootostrapの機能がついたので、
将来のためにWIXを研究する。

前進

5歳になると色々な心理を見せます。
私が母親を叱ってから、晃一君も私を敬遠するようになりました。

一日おいて朝、コーちゃんに「釣りにいくかい」と聞くと、
「行く」といいます。
機嫌のいい時に釣りに行く話をしていたのです。

インターネットで調べた山間のヤマメの釣り堀に行くことにしました。

道中、私は晃一君に話しかけますが、彼には引っかかるものがあります。
いつものように快活に返事をしてきません。

「歌をうたおうか」とか「お話しようか」といっても乗ってきません。
やがて後ろの座席で、うつぶせになって眠ってしまいました。

2時間近く車を走らせて、釣り場に到着しました。

釣り堀には、子供たちのためにヤマメのつかみ捕り施設がありましたので、
さっそく挑戦しました。

しかしいけすの中とはいえ、生きた魚を手づかみすることは、
5歳の子の初めての挑戦としては難しい作業です。

手でつかみに行ったり、バケツをかぶせてみたり、
さんざん試みますが、うまくいきません。
やむを得ず私も靴下を脱いで応援しました。

幸か不幸か魚も弱ってきて、追いつめたバケツに一匹とらえることができました。
2匹まで権利があったのですが、
それで彼も私も満足しました。

続いてヤマメ釣りに挑戦しましたが、
釣り堀のヤマメはまったく見向きもしてくれません。

しばらく粘りましたが、あきらめて5匹のヤマメをもらって、帰途に就きました。

途中小さな町でたこ焼きのお店があったので、遅い昼食をとることにしました。
食卓が二つの小さなお店です。

一つには多分小学生二人をつれたお母さんが陣取っていました。

コーちゃんはもともとたこ焼きが好きです。
おかみさんが注文をききますと、
「マヨネーズはいや、青のりとおかかを降ってください」と注文を出します。
少しきょろきょろしますが、元気な快活な子になっていて、
おかみさんがフライドポテトをサービスしてくれたときと麦茶を運んでくれたときは、
元気よく「ありがとう」といいます。

大きなたこ焼き8つとじいちゃんのお好み焼きを少しと、
アイスクリームを半分こして、
いつものコーちゃんとじいちゃんの姿になっていました。

おかみさんは、「とてもしっかりしたいい子ですね」といいます。
「超わんぱくです」と答えましたが、
じいちゃんと二人の時のコーちゃんはとても良い子だと私も思います。

家に帰って、遊んでいると何の拍子か忘れましたが、
突然大きな声で「じいちゃん、大好き」と二度いいました。

私は少し驚きました。
これまでそこまではっきり言ったことはなかったのです。
彼の心理分析は止めにして、
仲のいい孫とじいちゃんの関係に戻って、素直にうれしく思いました。

 

日曜日に義父と義妹の法要があり、妻の兄弟が集まりました。

妻の兄弟にはその配偶者を含めて沢山の医者がいます。
一人は国立病院の小児科の医師で、
子供やその親の心理および精神の専門家です。

晃一君の母親は、この医師に息子の育て方について相談していたようです。

みんな帰った後で、母親が私の部屋にきて、
先日の行動について謝罪しました。

勿論私は受け入れました。

「我が家の意思疎通が一つ前進した」
とホットしました。

孫達が帰る日、妻と二人で新幹線の駅まで見送りにいきました。
嫁が列車に乗り込むとき、
「おじいちゃんと話ができてよかったです」といいました。
「そうだね」。
これでよかったのだと内心少しうれしくなりました。

晃一君は今日は機嫌が悪く、グズグズしていましたが、
列車が動き出すと、いつもの快活な笑顔が車窓の向こうで精一杯手を振っていました。

「少しずつでも前進していけば、それでいい」と思っています。

晃一君 5歳

妻の実家で法事があったので、それに合わせて私は一足はやく、
嫁は孫二人を連れて、お盆を挟んで6泊7日で妻の実家にやってきました。
私は初めて長期でコーちゃん達と一緒に過ごすことになりました。

晃一君は丁度5歳になったところですし、
弟の彬君は明日22日で2歳になります。

晃一君に比べて彬君は言葉が遅く、
いくつかの単語をそれもあまり明確ではないのですが、
必要最低限に使うという感じです。
活発なお兄ちゃんに比べマイペースで、
お兄ちゃんに乱暴されても、少し泣いてもそのあとは平気で遊んでいます。
ある意味肝が据わっているのかもしれません。

今回晃一君と一緒に暮らして、コーちゃんの超腕白振りを確認しました。
朝から晩まで家中を駆け回っています。
小さいときからやりたがりで、すぐ行動に移していましたので、
5歳にして恐るべきスタミナです。
大人もついていけません。

晃一君は九州に来て、すぐに二つの怪我をしました。
一つは私が引出を作るのを手伝ってくれたのですが、
ふざけて転倒し、そのはずみに鼻っ柱を木材の角にぶつけました。
もう一つはトンボを追っかけて、
足元の段差を踏み外してコンクリートに前のめりに突っ込みました。

しかし彼は並はずれて俊敏で、何れも軽傷でした。

 

晃一君は私と一緒のときはとても良い子なのですが、
母親と一緒のときは、わがままが出ます。

機嫌のいいときはいいのですが、機嫌が悪くなると永遠にグダグダいいます。
母親は機嫌をとって言い聞かそうといつまでも付き合います。
それを見ている私のいらだちは募るばかりです。

「なぜいけないことをいけないと叱らないのか」。
「なんでも子供のいうことを聞いてやるのが教育ではない」。
愛情を持って、大人の社会のルールを教えることこそ大切だと私は考えています。

2日目の夕食のときだったと思いますが、
私の隣に座ったコーちゃんのダダが始まりました。
いつまでも続くことに耐えられなくなって、私の怒りのスイッチが入りました。

「うるさい」と晃一君を大きな声で叱責しました。
泣いて抵抗するのも構わず両腕をつかんで、
「静かにしろ」というようなことを激しくがなり付けました。

母親は不安そうに息子をかばっています。

翌日は朝からベランダに子供プールをしつらえてやりましたので、
晃一君は彬君と一緒にプールではしゃいでいます。

晃一君はスイミング・スクールに通っているので、水は平気です。
プールの端から大きな水しぶきを上げて飛び込んだり。
「水を得た魚」といったところです。
脱力して仰向けになって息をすることができますので、
バックが容易に習得できるかもしれません。

かき氷をして午前のプールは終わりです。

部屋で遊んでいる間に、午後からの遊びの一つにと思って、
庭で使う散水機をそっとプールに入れてやりました。

昼食になって食堂に行くと、晃一君はまた裸になってプールではしゃいでいます。
なぜ昼食だというのに、遊ばせるのか、けじめがない。
私はずっと母親のしつけ方に不満をもっていたので、
怒りのスイッチが入り、
「躾が悪いと」強く母親に注意しました。

母親は私に食って掛かります。
私は激しく母親を叱責しました。
晃一君は「怖い」といって母親にしがみつきます。

当然に気まずい状態になりました。

 

私は優しい人間ですが、他人は往々にして私が「甘い人間だ」と勘違いします。
何の苦労も知らない、温厚な(?)、好々爺と思う人がいますが(??)、
忍耐が許容範囲を超えるとか、私の正義感がどうしても許せなくなると、
怒りの導火線に火がつきます。

相手がだれであろうと怒ります。

ビジネス上の問題であったり、団地の理事会であったり、
時にはTVの放送であったり、政党であったり、
直接怒りを伝えられない時は
「間違っているだろう!」とメールを送ります。
放送局や政党は「必ず返事を送ります」のような文言があった場合も、
一度も返事を送ってきたことがありません。

私はギクシャクした人間関係の改善策の一つは、
はっきりと本音をぶつけ合うことだと思っています。
それによって多くの場合、お互いに分かり合うことができます。
決して黙っていてはいけません。
問題は永久に解決されないのです。

「シュリーマン旅行記 清国・日本」 2

シュリーマンは日本に来ることをとてもとても楽しみにしています。

当時のヨーロッパ人にはある種憧れの国だったようです。オランダ商船やシーボルトの影響だったのでしょうか。

上海から九州の南の諸島を迂回して九州の東沿岸を北上し、江戸に向かう航海は日本への憧れが募るばかりです。

富士山を見ながら横浜に投錨します。

中国では船が投錨すると、周りを無数の汚いジャンクが取り囲みますが、横浜ではただ一艘の小舟が寄ってきました。

下帯一本刺青もんもんの船頭二人です。波止場まで運んでもらって賃料を聞くと、「四天保銭」。
これにも驚きます。中国では四倍は吹っかけられたからです。

そこから税関に行きますが、人夫はどれもこれも皮膚病を患っており不気味です。税関では役人が「荷物を全部開けろ」といいいます。
大変なので袖の下を渡そうとすると、役人は「日本男児!」と胸をたたいて拒みます。そして、荷物の検査はほどほどにして通してくれます。

横浜で宿泊します。
これから貪欲に横浜や江戸を見て回り、感想をかいていますが、感想はとても好意的です。中国があまりに酷かったからかもしれません。

横浜の町を見学にでかけた。1859年には小さな漁村だった横浜も、いまや人口1万4千人を数える。道路はすべて砕石で舗装されていて、幅10~20メートル、青みがかった煉瓦の木造二階建ての家が道にそって並んでいる。

道端の家々をきょろきょろ見て回ったのでしょう。

どの家も花で飾り、こぎれいな印象を持ちます。「日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない」といっています。
にもかかわらずどの国よりも皮膚病がおおい。その原因は米食と生魚が原因だと主張しています。

他の来日した蘭学者は確か、風呂水がきたなくて、ここで感染しているといっていました。こちらの方が信憑性があります。

家の中に家具がないことが不思議だったようです。そのことを何度も書いています。

家具がないのも、「嫁入りに費用が掛からなくていい」と好意的です。質素な生活様式もそれを一つの文化として、「それもあり」とうけとめます。

公衆浴場には一種感動です。
男女混浴で老若男女、なんの恥じらいもなく、仲良く入浴している。「なんと清らかな素朴さだろう!」と、とても面喰ったのでしょう。

シュリーマンは吉原には行っていないと思いますが、遊郭について興味をもって書いています。日本人の性に関する、開放的な考えに不思議な、でも肯定的な感想をかきます。(余りに肯定しすぎるのではないかと私は思います)

八王子に生糸の生産現場を見に行きます。彼らにとってどれほど珍しかったか分かりません。

江戸になかなか入ることができません。前回にも書きましたが、攘夷論者が外国人の命を狙っていたので、その安全のために許可がでなかったようです。アメリカ合衆国公使館から招待状をもらって、やっと江戸に行くことができました。

5人の役人の護衛に守られた、梅雨の雨の中、馬で江戸に向かいます。9時前に出発して、江戸には1時ころ入ります。
途中ずっと日本の家々や人々を観察しています。

アメリカ公使館は善福寺というお寺をかりていて、ここでも常時200~300人の役人が警護しています。

愛宕山に上って、江戸の町を観察します。

後日江戸の町を護衛付で見学し、様々な感想を述べています。商店がたくさんあるとか、日本人は絵が好きだとか。

芝居見物もします。

これらの行動は常に日本人役人の護衛付です。外出先から、公使館に帰るときは毎日違った合言葉を確認します。間違うと一刀両断されます。

ともかく貪欲に日本を観察し、コメントしています。西欧とは全く異なる文明・価値観、特に性に対する考え方の相違には、驚きながらも、「それは一つの文化だ」と肯定的に書いています。

「シュリーマン旅行記 清国・日本」

ハインリヒ・シュリーマン著[シュリーマン旅行記 清国・日本](廣済堂 1998年)を読みました。

シュリーマンといえば、トロイアの発掘で有名です。
彼は1822年ドイツに生まれ、家が貧しかったので、高等教育を受けられず、職を転々としますが、商売に成功して、幼いころの夢であった発掘調査を開始し、歴史的な発掘を成し遂げます。

私も彼の生き様にはある種憧憬の念を抱いていましたが、Wikipediaでは美談ばかりではなく、多少批判的に書いています。

1863年、事業をたたんで世界漫遊の旅にでます。トロイアの発掘はそれから数年後のことです。インドから海路、香港、上海、北京、万里の長城へ行き、1865年幕末の日本にきています。

日本では横浜、八王子、江戸への旅をしますが、幕末、日本は開国するかどうかで大きく揺れていた時代です。
開国反対の攘夷論者が外国人の命を狙って事件をおこします。
それでも好奇心の旺盛なシュリーマンは、江戸に唯一開かれていたアメリカ公司を頼って貪欲に日本の旅をしています。

 

さて、シュリーマンは万里の長城を見るため、上海、天津から北京に入り、長城に向かいますが、その途中で見るもの聞くものを書きとめています。

天津の近くにはフランスとイギリスの要塞があります。

天津はとても汚い町で、汚さでは世界の筆頭に挙げられると書いています。
さらに北京に入りますが、北京を囲む堂々たる城壁に比べ、北京もまた世界でもっとも不潔な街だといいます。

北京で見たものは…
汚い町の汚い人々。首枷をつけられ自由の利かない罪人。刑場でさらされた首。纏足を施された女性。壮大な建物も手入れが悪く、朽ち果てるままです。

どこに行っても、陽光を遮り、呼吸を苦しくさせるひどい埃に襲われ、まったくの裸か惨めなぼろをまとっただけの乞食につきまとわれる。どの乞食もハンセン病を患っているか、胸の悪くなるような傷に覆われている。彼らは痩せこけた手を天に上げながら、跪いて額を地にこすりつけ、大声で施物をねだる。

異様な光景はこのくらいにしておきます。

長城に向けて旅立ちます。途中一泊して長城は一人での挑戦です。

ふもとの町で、旅の目的を聞かれて、「長城をみることだ」とこたえたら、「石をみるために長く辛い旅をするなんてなんと馬鹿な男だろう」と笑われます。

シュリーマンは、「どうしてもしなければいけない仕事以外、疲れることはいっさいしないというのがシナ人気質である」と感想を書いています。

長城の行けるころまで行きます。到るところで崩れていたり、急峻な道であったりしますが、ご本人にしてみればとても感動した長城見学でした。

長城にしても北京の街にしてみても、過去のすばらしい建造物をどうしてこれほど無関心に放置するのだろうと、不思議に思います。

シュリーマンは演劇に興味があって、中国でも日本でも観劇しています。中国では、お金を出せば、300もある演目の中から希望するものをその場で決めることができ、演者が見事に演じることに大変驚いています。ただし、音楽は全くなじめません。

港ではジャンクに乗った海賊が横行し、香港ではデンマーク船や、スペインの大型船が襲われています。香港を発って行方知れずになる商船の9割は、海賊に襲われたのだといっています。

 

シュリーマンは上海から日本に向かいます。