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石平「朝鮮通信使の真実」2

「朝鮮通信使の真実」を解き明かすには、当時の江戸幕府と李氏朝鮮が、相手国をどのように見ていたかを理解しなければなりません。

本書には日本側の対応は書いていますが不十分だと思いますし、まして朝鮮側=李朝の考えには触れていません。

歴史的に日本は半島をどの様に観てきたか、史料は豊富にあると推測しますが、私はまとまった文献を知りません。
この点について「こうだ」と自信をもって述べることはできませんが、Wikipadiaその他で調べて、素人なりにこういうことなのだろうと推測しています。

 

西暦700年代初頭編纂された古事記および日本書紀には、西暦200年ころ神功皇后が半島に渡り三韓(新羅、高句麗、百済ー異説あり)を討伐したと記されていて、長く(戦前まで?)史実として信じられたいたようですし(現在では史実ではないと否定されています)、古墳時代4世紀以降では、実際大和朝廷は百済と友好関係を結び、朝鮮半島の南端を支配経営していましたので、これらの伝聞が日本人に半島に対しる優越感を抱かせていたと思われます。

西暦663年百済と密接な関係にあった大和朝廷は、百済を支援する目的で参戦した白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗し、半島への関与を自重しますが、その後も日本は唐から国としての扱いを受けるも、半島は唐の属国であり日本からすると一段格下の国だという意識を持ち続けます。

下って13世紀蒙古高麗連合軍=元寇の撃退と神風神話、その後の復讐戦としての倭寇の反撃、16世紀の秀吉の朝鮮出兵等、半島に対する武力の優越が続き、半島への侮蔑感を募らせたと思われます。

 

一方の朝鮮は、確かに中国の属国に甘んじてはいるものの、中国王朝への朝貢では一流の知識人を大量に送り、中国文明を真剣に勉強したようで、中国王朝が明や清に代わっても「我こそは中華文明の真の継承者である」という自負心が強く、従って、半島=李朝からみれば、逆に日本こそが野蛮な周辺国にすぎないという、精神的優越観を持っていたと思われます。

 

しからばなぜ李氏朝鮮は日本に通信使を送ったのか。Wikipediaでは次のように書いています。本書でも同意見です。

(秀吉の朝鮮出兵で)朝鮮を手助けした明が朝鮮半島から撤退すると、日本を恐れると同時に、貿易の観点からも日本と友好関係を結びたいと考えていた。
また、北方からの脅威も日本との国交再開の理由となった。ヌルハチのもとで統一された女真族が南下してきており、文禄・慶長の役では加藤清正軍が女真族と通じる状況もあったため、女真族と日本が協力する危険も朝鮮では検討されていた。そこで日本とは国交をして、南方の脅威を減らすという判断がなされた。

すなわち、李氏朝鮮は安全保障上やむなく日本とよしみを通じておく必要があり、日本の高圧的態度を甘受せざるを得なかった。一方の江戸幕府は李朝の弱い立場を見透かして幕府の威を朝鮮はもとより国内にも示す絶好の機会として、朝鮮を見下した扱いをしたのです。

秀吉の朝鮮侵攻の戦後処理として始まった江戸時代の通信使ですが、三回目来日では家光は通信使に日光参拝を強要しています。

このイベントの内実は日朝双方の見栄の張り合いであり、表面上の友好をしかも屈辱的な朝貢の儀を演じさせられる朝鮮通信使たちは、憤懣やるかたない気持ちを抱き、その憤懣を報告書や日記に書いたものと思われます。

表面しか知らない日本の大衆は、韓流にワーワー、キャーキャーいったのでしょう。当初は儒学者も朝鮮朱子学を学ぼうと参集します。

 

やがて江戸幕府の側にこのイベントへの疑問を持つ人たちが現れます。
一因は、通信使の饗応に大金がかかる点です。通信使は400ないし500人の大所帯で、対馬から江戸までの往復で半年以上かけて通り、幕府および沿道の諸藩は最大限の対応をしますので、当時の幕府直轄領400万石の4分の1、すなわち100万石の費用が掛かったといわれています。

最初は日本の儒学者も朝鮮から学ぶところが多いと思っていたのですが、やがて硬直した朝鮮の性理学に疑問を抱き、敬遠し始めます。
また。傲慢にふるまう通信使の態度を苦々しく思う人たちもいました。
初回の朝鮮通信使から約100年経過した第八回通信使当時、幕府の最高ブレーンだった新井白石もその一人で、白石は饗応の簡素化の方針を建議します。

1764年第11回通信使(第11代将軍家治の治世)を受け入れた後、天明の大飢饉があり、老中松平定信は緊縮財政等の観点から、朝鮮通信使を簡素化することを決め、第12回通信使を対馬止めにします(これを易地聘礼ーえきちへいれいーと言います)。これが最後の使節団になりました。

 

今回、朝鮮通信使を少し勉強しましたが、このイベントが善隣友好・文化交流のようなハッピーなものではなかったと理解しました。

私は、日韓の険悪な関係は明治時代に始まったと思っていましたが、どうやらそれも間違いで、数百年来いやもしかしたら有史以来両国は不仲だったのではないかと推測しています。

世界中の隣国同士は不仲だとよく言います。隣り合う国は直接利害が衝突しますので、これもやむを得ないことかも知れません。

韓国と友好関係を結ぼうとするなら、まず歴史を徹底的に議論することが必要でしょうが、どちらがいい悪いの結論はでないのでしょうから、事実関係を認め合い、後は「過去は未来永劫水に流そう」と極めて日本的な心情を共有しない限り、善隣友好関係は構築できないと思います。

石平「朝鮮通信使の真実」

下関だったか、「朝鮮通信使まつり」を開催したとかするとか、何かで読みました。

このようなイベントでよく言われるのは:

現在日韓関係は冷え込んでいるが、
江戸時代には朝鮮から使節が来て、仲良く交友を温めていたではないか。
また、昔のように仲良くしよう。

のようなもので、善隣友好、文化交流を必ず強調しますが、私は常々「何か嘘くさい」と思っていました。

江戸時代、通信使が通る沿道には、沢山の人々がでて大騒ぎだったらしいですが、反面通信使は色々事件を起こしていたようです。「本当に友好的だったのだろうか」とずっと疑問に思っていました。

 

石平著「朝鮮通信使の真実」(WAC、2019年)がアマゾンで高評価だったので読んみました。

最初にいいたいことですが、この本は編集が悪い。
著者は中国人だから、日本語が多少おかしいところがあっても、それは編集者がカバーすべきだし、それ以上に日本語として読み難いだけでなく、論述が何か所も冗長(これは言語に関係ない)で編集者の力不足に苛立ちます。

この本を読んだついでに朝鮮通信使について少し調べてみました。
最初に「百科事典マイペディア」の「朝鮮通信使」の解説を転記しておきます。

(朝鮮通信使は)朝鮮来聘使(らいへいし)ともいう。江戸時代に将軍の代替りやその他の慶事に際し,李氏(りし)朝鮮(李朝)の国王から派遣された使節。豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)後,徳川家康は対馬の宗(そう)氏を通じて国交回復につとめ,1605年の日韓和約で国交が回復。この結果1607年から1811年まで計12回にわたって使節が来日。最初の3回は朝鮮侵略の際に日本へ拉致(らち)された朝鮮人の送還を兼ね,回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)と呼ぶ。総勢400名前後の大使節団で,沿道の大名が盛大に饗応。国内に将軍の国際的地位を示す上でも来日は重視されたが,1711年新井白石は使節の待遇を簡素化した。

さて本書は3章からなっています。

第一章 朝鮮通信使は事実上の朝貢使節だった
第二章 朝鮮知識人の哀れな「精神的勝利法」
第三章 「日本コンプレックス」の塊だった通信使たち

全200ページ足らずですから、大したボリュームではありません。

■ まず、本書では通信使は朝鮮から日本側への朝貢だったと次のような理由を挙げています。

  • 通信使は朝鮮から日本への一方通行で、日本から彼の国へは一度もいっていない。
  • 通信使が来たのは、徳川将軍が新しく就任したとき祝賀の挨拶としてきている。
  • 通信使の将軍への接見も「朝貢の拝礼」を行っている。
  • 将軍家光は家臣に求めるように、通信使に対して家康が安置されている日光東照宮の参拝を強要。通信使はしぶしぶそれに従っている。

Wikipediaその他を調べてみても、日本側(幕府)は使節団を朝貢として遇していたようです。

■ 一方朝鮮側はこの使節をどのように考えていたのか。

通信使は報告書や日記を沢山残しています。
これらを書いたのは李朝のトップクラスの官僚・教養人で、彼らはすべての行動規範を朱子学・性理学に置いていますので、これに反することはすべて非難・批判、侮蔑の対象です。

彼らが日本に対していかに酷いことをいっているか、本書の巻頭で第11回通信使であった金仁謙の言葉を引用しています。

「(日本人は)穢れた愚かな血を持つ獣人間だ」。

通信使の日本および日本人に対する記述は悪意に満ちた極端な罵詈雑言のオンパレードです。
道中の日本の風景や繁栄する街並みは淡々と、が日本の民度には激しく攻撃。
詩を書けば最低、礼儀は無礼、習慣や衣服は野蛮、食べ物は不味い。
自然にしても、日光の二荒山は朝鮮の○○山と形は似ているが大したものはないし、東照宮の配置が間違っている。富士山も言われるほどのものではない。とすべて自分の国のものを一番にしてケチをつけています。

 

私も比較的安価で入手しやすい第九回(1719年)使節団・申維翰著『海游録』(1983年、平凡社)を買って拾い読みしました。本書はソウルから対馬、下関、瀬戸内海、大阪、京都、東海道、江戸の往復の日記と、日本の風物の報告からなっています。

道中のでき事、風景については、ことさら抑揚もなく記述していますが、日本の風俗、日本人の行動については一々上から目線でイチャモンを付けています。

以前ご紹介しました、やはり江戸時代長崎の出島から江戸に参府したオランダ人医師(シュンペリーケンペルシーボルト)が淡々の書いた紀行文に比べると、いかに偏狭なものの見方をしているか、寒々しい気持ちになります。

 

こうまでして、またいったいどうして、朝鮮通信使は来日したのでしょうか。