月別アーカイブ: 2013年12月

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Lehman教授への反論

レーマン教授からいまだに回答がありあませんので、
今回のメールは無視されたということでしょう。

氏に送った手紙の内容を転載します。
英語に間違いがあるかもしれません。
つたない英文で申し訳ありません。

 

メールでは、私の自己紹介等書いていますが、
ここでは、議論の部分だけ掲載します。

論点は4つです。
1. あなたの主張に内容がない。
2. あなたの主張は間違っている。
3. あなたの主張はフェアーではない。
4. 韓国の主張は未来志向ではない。

 

Then, I would like to begin to discuss the issue.
(I have just studied Korea but not China yet.
So my insistence is about Korea now.)

1. Your insistence is poor.

You show some names and some articles in your email.
You seem to say “because of NYT, because of BBC or because of Maruyama, my insistence is correct”.

They are not proof of the legitimacy.
What values do such references have?

It is a claim not to be based on the logic or facts.

Don’t you think so?

We have to doubt everything.
That is true?
That is true?

We have to discuss only with primary document and facts which we believe fairly.
Fortunately we are in internet environment where many people can join and discuss.

2. Your insistence is not correct.

You say;

Japanese students are not educated about the modern history,
So, Japanese don’t know their evildoing of the war.

The first sentence is true.
But the latter half is not true.

Your insistence that Japanese recognition of the war is not correct, because of the education of history, is not correct.
This logic makes rapid progress.

Japanese mass media and many books and Todai’s professors almost always say that Japanese were wrong.

Most Japanese believed these messages.
And we said “We are sorry” many time and supported many countries for many years.

Korea criticizes again and again Japan.

We Japanese were silent.
But many Japanese recently has begun to doubt it.

Although many Asian countries like Japan,
Why do only Koreans and Chinese criticize Japan?

http://www.japanprobe.com/2012/05/16/bbc-global-poll-japan-has-most-positive-influence-in-the-world/

クリックして2013%20Country%20Rating%20Poll.pdfにアクセス

(It is said that Japanese order declined in 2013, as Korea and China did a bad evaluation in Japan.)

Now many Japanese are learning and thinking what is true.
Many Japanese begin to say more now.

I read more than 40 books about Korea this year, including the preface of “Histoire l’Eglise de Coree, 1886” by Charles Dallet.

Two books, “Korea and Her Neighbours” and “The New Korea”, are the most important.
Because they were written in that time when the world was moving.
They are documentaries.

We have to start the discussion from facts described by these books, for example.

Now I will show you three URLs.

http://www.youtube.com/watch?v=yUelX8kBThk
http://www.youtube.com/watch?v=5q-8FC1fjoA
http://www.youtube.com/watch?v=FXIYFvyVKBo

There may be some mistakes but I agree almost her insistence.

I doubt that Japanese government (army) managed directly comfort women with force.
Because Koreans have never shown any evidence about it.

They say there were 200,000 comfort women.
Can you imagine that 200,000 women disappeared?

Why didn’t any riot happen?
Didn’t Korean men have any pride?
(Korean people are very self-respecting.)

I was a child in Korea.
I don’t know the world around me, but I only remember Japanese and Korean worked friendly together.
I don’t remember any terrible atmosphere.

Your opinion is based on Korean people and some Japanese.
Many Japanese people don’t agree Korean’s insistence now.
I think your judgment is not right.

If you will announce your opinion to international world, you have to study more both side insistences.

3. Your insistence is not fair.

In the past, many countries did many terrible things.
The imperialism ruled many countries.
UK, France, Spain, Portugal, America and almost all European countries ruled many countries of Africa and Asia.
European counties and America traded African people as slaves.

I have a question.
How did Europe apologize to them?
What kind of compensation did they do?

Japan ruled Korea too.

I think there were many terrible things in those days.

We never say that it was good.
However, we don’t say that we Japanese were all wrong.

America dropped two atom bombs over Japanese cities.
Many people were died.

Americans say that they used the bombs for finishing the war.
However, we Japanese never accept that the atomic bombs were used from justice.
That is not true.
Why they dropped two bombs if their insistence is true?

America bombed over Tokyo and many cities of Japan.
More than 800,000 people, not solders, were died.
Number of these people is reliable, because we have lists.

What do you think there is any fair reason any more.
War is a duel between countries.
In any time, there is no right that a country kills people.

China insists that Japan killed more than 300,000 in Nanjing.
But, there is no evidence of the number.

I never say that the number is important.
I suppose many people were killed there.

I am saying that your insistence is unfair from two reasons.

If you criticize Japan, you should criticize UK, France, US and so on.
Next you criticize Japan from the one side without significant evidence.

You should read “Korea and Her Neighbours ” and “The New Korea”, for example.
There are some believable descriptions in these books.

You should know their behaviors in Korean War and Vietnam War.
You should know Chinese behaviors to Tibet or Uighur.

Again I never say that we are right like them.
I say that we are not right like them.

I say that not only Japan but also many countries, including European counties, America, Korea and China did wrong in the past and today.

4. Korea’s insistence is not future intention.

Every conquered or damaged people never forget it.
Korea, India, African and even though Japan don’t.

It’s OK, I think.

The important thing is the future of ours and next generation.
The important thing is that we know the truth, because we do not repeat the same mistake.

We have to permit each other even though with disagreement.

Adversely, we never permit Korean.

They are unfair.
They shout “We are right” with no evidence.

Why do they make statues of comfort women in America?
Why do they cry that there were too many women forced by Japanese government without any evidence in European countries?

Korea does only political propaganda forever.

We have never to be confused by political expectations.

国際社会に発信する

丁度一年位前位から、近現代の日本や韓国を勉強して、
韓国に対しては自分なりの考えを持つことができました。

今年韓国で朴大統領が誕生し、
盛んに「日本の歴史認識が間違っている」と世界中で言いふらしています。
しかし、私が勉強したことに照らして、「それは違うだろう」という思いが強くあります。

YouTubeに[テキサス親父]という親日アメリカ人の動画がたくさんアップされています。
[テキサス親父]日本事務局というのがあって、
そのホームページにエビアンという会社のメンバーが、
韓国に同調して日本を批判しているのを知りました(クリックしてください)。

英国 フィナンシャル・タイムズに2013年12月9日付けで発表した記事で、
日本が第二次世界大戦中に朝鮮の女性を慰安婦にした。
天皇は韓国にいって謝罪すべきだという内容です。

このような発言を韓国が言っている間は、「また馬鹿をいっている」で済まされますが、
西欧人がこのように言っているのを、黙っているわけにはいきません。

私はこの記事を書いた人(Lehman)にメールしました。
「よく知りもしないで、断定するのは問題ではないか」のような内容です。

思いがけず、回答のメールが来ました。

それには3っつファイルが添付されていました。

一つはBBCの若い日本人記者が書いてもので、日本人が現代の歴史教育をあまり受けていない。
30万人の南京虐殺があってという中国の主張に対して、異なる見解があるという内容です。

二つ目は、ニューヨークタイムスの第一次大戦に至ったことおよびその後についての投稿です。

もう一つは韓国人女性の写真と1926年生まれで南京で性奴隷だったというメモ。

私はこれらのメールで何を主張したいの分かりません。

一方、メールの中身はざっといえば、

自分は歴史を研究している。日本では歴史教育は不十分である。
自分は東北大学や東大に知り合いがいる。
韓国の日本統治博物館(正式名称不明)に行った。

日本もドイツに見習うべきである。

のような内容です。

 

こちらは「証拠も示さず、このような決め付けをするのはおかしいだろう」と言っているのに、
まともな回答とも思えません。

これに対して私は再度16日(火)メールを送りました。

氏のメールに反論・疑問を書き、
「個人的な議論でなく、みんなで議論した方がいいので、そのような場をつくってもいいか、
それについて回答をください」というものです。

未だに回答がありません。
まともな議論ができないで、国際ジャーナルに一方的に発表するのは犯罪だと思います。

この私のメールは次回アップします。

 

ところで、韓国慰安婦像がアメリカ・カリフォルニア州の公園に建設さています。
ワシントン州には韓国慰安婦に関する記念碑が建設されています。

今、これらの撤去を求める署名を集めています。
私は署名しました。

慰安婦問題(日本の一部は単に売春婦といっています) の議論の前に、
そもそもこの問題を、関係のないアメリカに持っていく汚いやり方に憤りをおぼえます。
よろしければ、みなさんも撤去に署名しましょう。

よくわからなければ、[テキサス親父]のページを参照してください(クリックしてください)。

 

カルフォルニア州グレンデールの慰安婦像撤去を求める請願サイト

http://goo.gl/mnXO3Y

2014年1月10日までに10万名署名必要

 

二ユーヨーク州ナッソー郡アイゼンハワー公園の慰安婦記念碑撤去を求める請願サイト

https://petitions.whitehouse.gov/petition/please-remove-offensive-state-nassau-county-new-york-eisenhower-park/RB7kC1hD

2014年1月12日までに10万名署名必要

河口慧海「チベット旅行記」4

慧海がラサに来てから1年以上経ちますと、身の危険を感じるようになります。
インド滞在中あるいはラサへの旅で、多くの人にめぐり合いましたが、鎖国のチベットで自分が日本人だと名乗ることはできません。

チベットに入った直後は自分は中国人だといい、ラサでは都合が悪くなるとチベット人だといったりしました。

しかし、「どうやら慧海はチベット人ではないようだ」といぶかる人が出てきました。

近年、日本が日清戦争でシナに勝ちましたので、チベットやインドあたりで日本の評価が高まっていました。

法王の商隊長は「慧海は日本人」だと確信し、法王の兄に「チベット中で評判のあの医者は、実は日本人です」と告げます。

商隊長は、高名な日本人の情報を報告すれば賞されると思ったのですが、逆に法王の兄は、慧海がスパイではないかと疑い困惑します。

その話を聞いた慧海は、一刻も早く行動を起こさなければなりません。

慧海は、「自分はスパイではなく、一途に仏教を学ぶためにきた」という上申書をしたため、法王に差し出そうと考えます。

世話になった前大蔵大臣に、自分が日本人であることを告白し、「私を見逃すとあなたに害がおよぶので、私を役人に突き出してください」と頼みますが、前大蔵大臣は、「もし自分に害が及べばそれは私の宿命だ」といって、慧海の申し出を断ります。

慧海はチベット脱出に舵をきります。

懇意にしていたシナ人の薬家にも身分を打ち明け、協力してもらって、これまで集めていた経典をまとめて、廻りの人には、カルカッタの聖地に巡礼に行くと嘘をいいラサを去ります。

時あたかも大きなイベントがあって、役人もあるいは沢山の僧侶も、慧海の動きに気がつきません。

ネパールからラサに入るのに半年以上かかりましたが、脱出となると一刻も早く、チベットを離れなければなりません。
1902年(明治35年)5月29日、ほぼまっすぐに南下しインドのダージリンを目指します。

一人の人夫を雇い、二人での逃避行です(人夫にはあくまでも巡礼の旅だといってあります)。

チベットからインドへの脱出は3つの方法しかありません。
ブータンを抜ける間道を通るか、ネパールに入る間道を通るか、さもなければチベットからインドにいたる公道を通るかです。

ブータンに進めば強盗に会う可能性が高い、
ネパールに進めば猛獣に会う可能性が高い、
公道を通れば厳重な関所がある。
さあどうするとなったとき、慧海はあえて公道を通ることにします。

チベットとインドの国境の関所は厳重に警備されていて、5つの門を通過しなければいけません。
この関所を通るだけで、通常7日から10日かかります。

ラサで慧海の逃亡が判明すれば、直ちに追っ手が来るでしょう。
関所に7日も10日もとどまることはできません。

慧海は腹をきめます。関所の役人が規則を持ち出したとき、国の隅々まで知れ渡った慧海の名声を利用します。

「私は法王から秘密の命を受けて、急いでカルカッタに行く」。
「ここで、お調べに時間がかかるのは仕方がない」。
「ただし、これこれの理由で時間がかかるという理由を文書で書いてもらいたい」。
関所の役人は恐れをなし、追い払うように関所を通してくれます。

7日はかかる関所を3日で越え、無事にインド・ダージリンに着きます。
1902年(明治35年)6月15日のことです。

 

この話には続きがあります。

その年の10月頃、インドに留まっていた慧海は、チベットから来た商人に、慧海と関係があった人々が投獄され、拷問を受けていると聞きます。

慧海が英国のスパイだと考えらたようです。

慧海は彼らをなんとか救出しなければいけないと考えます。
カルカッタには数人の日本人がいましたので、相談すると、彼らは「これ以上チベットにかかわるな」と忠告します。

しかし、慧海はどうしてもチベットでよくしてくれた人を見殺しにすることはできません。

ネパールに頼むのが一番いいと考えます。
ネパールとチベットは特別いい関係ではないのですが、チベットはネパールに一目置いているので、ネパールから頼めば何とかなるだろうと考えたのです。

慧海はチベット法王に上申書を書き、それをネパール国王からチベット法王に渡してもらおうという考えです。
しかし勿論ネパール国王につてがあるわけではありません。

丁度インド皇帝の戴冠式があって、英国と同盟を結んでいた日本から戴冠式列席のため、奥中将がインドにきていました。

奥中将からネパール国王に取り次いでもらおうとしますが、奥中将からは次のようにいって断られます。

「自分は英国から招かれてインドに来ている。日本人がインドあるいは英国を差し置いて、直接ネパール王に書状を出すのは国際儀礼として許されない」。
「よしんばその件を英国に頼んでも、英国がその労をとってくれるとは思われない」というものです。

慧海はチベットの恩人を助けたい一心で、直接ネパール国王にお願いすることにします。

つてを辿って総理大臣に接近しますが、大変難しいことの連続です。ここでも慧海がスパイと疑われますが、彼の熱意は伝わり、慧海の書いた上申書をチベット法皇に届ける約束をしてくれます。

と同時に、ネパールにある経典を譲ってもらう約束をし、ネパールからも大量の経典を得ます。

後日逆に、日本にある経典をネパールに送っています。
慧海の持ち帰った経典は東北大学に保管されているということです。

その後チベットは鎖国を解き、何人かの日本人もチベットに入っています。
慧海自身1913年(大正2年)再度チベットに入り、第一回チベット滞在で迷惑をかけた人々に謝罪しています。
慧海がネパールから送った上申書がチベット法王に届き、その効果もあって前大蔵大臣等放免されたということです。(「第二回チベット旅行記」より)

 

僅か30歳そこそこの青年の大冒険旅行です。慧海の人間としての成熟度、誠実度=人間力に感服します。
誠実さ一途さが大きな困難を乗り越えています。人間の可能性を感じます。

 

今回私は、随分すっ飛ばして読みましたが、チベットを研究する人は、熟読する価値が十分あります。

河口慧海「チベット旅行記」3

そもそも慧海は仏教を勉強するために来たのです。

もし「政治に関心がある」とチベット人に疑われると、国際探偵(スパイ)だと間違われる恐れがあるので、チベットの政治を表立って調べることはしませんでした。

それでも、身近に接した範囲で政治体制について述べていて、十分に貴重なレポートになっています。

チベット旅行記は1904年(明治37年)に出版されますが、慧海自身による英語版が5年後の1909年に出版されています。恐らく、西欧列強特にイギリスは慧海の報告に強い関心があったと思われます。

慧海がチベットに滞在した時期は、世界的にみれば、帝国主義の嵐が吹き荒れる真っ只中で、シナは日清戦争で破れ国力を落としていました。

その後極東では、ロシアは朝鮮半島への南下を試み日本と激突しますが、当時チベットへの南下も試みていて、インドを植民地にしていたイギリスとの軋轢を生じ、イギリスはロシアの動向に神経を尖らせていました。

最初、チベットの鎖国はさほどを厳しくありませんでしたので、イギリスはキリスト教をチベットに布教しようとしました。

しかし、インドをはじめ東南アジアの国々が植民地化されていくのをみて、チベットは「キリスト教の布教に続いて軍事介入をする」帝国主義の常套手段を警戒します。

チベットとインドとの国境にシッキムという地方があります。慧海滞在の20年前、この領有権をめぐって、チベットとイギリスが衝突し、いっきにチベットはイギリスに対する態度を硬化させ、鎖国を強化します。

ただし、政治的な鎖国は厳しかったですが、経済的な交流は結構緩く、インド、ネパール、ブータンそしてシナ等と貿易をしていました。

さて、法王は世襲ではありません。長老や占い師が、全国から原石の少年を探し出し、時間をかけて法王に育てます。

従って、法王は絶対的安定的権力をもっていなかったのです。

法王庁は権力争いの場であり、法王は常に命の危険に曝されています。当時のダライ・ラマ13世の前、8代から12代の法王はすべて毒殺されています。そのため13世は用心深く鋭い政治感覚をもっていたと、慧海は述べています。

チベットは封建制であり、同時に郡県制の側面もありました。

国に功績のあった華族が、領土をもらって領主になっていますが、同時に知事が任命されて、知事も租税の徴収をしたので、平民は二重の搾取をうけていることになります。

チベットの国境はどこにあったのかよく分かりませんが、アムドやカムはチベットの一地方だったようです。アムドからは新仏教を興した教祖が生まれていますし、一方のカムは強盗の国だと慧海はいっています。

現在アムドは中国領青海省、カムは同じく四川省の一部になっています。

当時のチベットは、シナやモンゴルと深い関係にあったようですが、どのようなものであったか詳細には分かりません。恐らく、バチカンとイタリアの関係に似ていたと思われます。

慧海は、モンゴルとの関係は殆ど書いていませんが、シナとの関係について次のように書いています。

チベットはシナの属国であった。すなわち、チベットはシナに税金を納め、シナはチベットを保護する関係にあった。

但し、チベットは毎年シナの皇帝のために大祈祷会を開いていて、この費用が莫大で、税金に相当するとして、実際には納税しなかった、

しかも、日清戦争でシナの弱体が露見すると、シナの皇帝からきたお触れもチベットの人々は無視する状況になっていた。と慧海は述べています。

シナが弱体化し、チベットへの影響力が弱くなったことにつけ入り、ロシアが工作します。「チベットはロシアと密約を結び、ロシアから大量の鉄砲を譲り受けた」
という噂を聞きます。

ロシアはキリスト教の一派=ロシア正教の国ですが、うまくごまかして、イスラムの亜流だと思わせていたようです。

当時チベットの人口は600万人で、兵士の数は5000人ということです。兵士の数が少ないですが、仏教という価値観がそれを補っていたので、国内治安の観点からは、それで十分だったのでしょう。

しかし、対外的にみればチベットの武力は脆弱で、ネパールとはたびたび武力衝突を起こしたが、勇壮なネパール人部隊に太刀打ちできず、この意味からも、ロシアから武器の供与を受けたのだろう、と慧海は見ています。

いずれにしても、弱小チベットはロシアとイギリスの狙うところでした。

一方で、現在の「チベット問題」の主役のシナの影は、この時期相当に薄れていました。

河口慧海「チベット旅行記」2

慧海は1900年(明治33年)7月にネパールからチベットに入り、翌年3月チベット法王庁の首都ラサに到着します。

チベットといえば崖の上にそそり立つ宮殿の写真をよくみます。慧海も法王の宮殿をみて感激しています。

ラサは流石に仏教国の首都らしく、沢山の寺院や学校、沢山の僧侶がいます。

慧海は多くのページを使ってチベット人とりわけ僧侶達の生活や、チベット人気質、結婚式や葬式の習慣、刑罰や出会った出来事について書いています。

さて、慧海は旅の途中で強盗にあい、一時無一文になりましたが、頼まれるともなく人々に説教をしますと、多くの人が感じ入って沢山のお布施をくれます。結局ラサについたときには、相当のお金を所持していました。

慧海は大学に入りますが、ここで問題が起こります。

彼はインドにいたときは日本人として生活し、チベットに侵入しようと、ネパールに入ったときからシナ人で通してきました。

ラサでは日本人としても、またシナ人としても都合が悪いことになります。

ラサの大学ではシナ人はシナ人専用の僧舎に入らなければいけません。
しかし慧海はシナ語が達者でなく、シナ人の僧舎に入れば、自分がシナ人でないことがばれてしまいます。

結局ラサでは、チベット人として通しますが、これも大変に緊張した生活になります。

大学に入ろうとしたとき、旅の途中で知り合ったチベット人の縁者に遭遇します。
そこで「あなたはシナ人だときいているが、もしそうならシナ人の僧舎にはいらなければいけない」といわれます。
慧海は「確かにシナ人だが、シナ人の僧舎に入れば費用がかかって、それが払えない」のようの理屈をこねてなんとか言い逃れます。

さて、 チベットには大きくわけて二種類の僧侶がいます。
一つは修学僧侶ともう一つは壮士僧侶です。

修学僧侶は仏教を勉強しているのですが、一方の壮士坊主は僧侶とは名ばかりで、ようは寺の雑役夫です。

壮士坊主は教養もなく、乱暴ものです。
頻繁に喧嘩をし、決闘をします。
しかし性格的には慧海は壮士坊主に親近感をもっていたようです。

あるとき子供が喧嘩して、一人が腕を脱臼します。チベットでは脱臼の治療法がなく、脱臼すると一生障害者になります。

たまたまその現場に通りかかり慧海は、泣き悲しんでいる親子(小僧と師匠)から事情を聞き、外れた骨を元にもどしてやります。チベット人はとても驚き、慧海はただものではないことになります。

それを機に沢山の人、喧嘩した壮士坊主等もやってきます。
断っても、次々にどうしても診てくれと病人がやってきますすので、やむをえず、漢方の知識が多少あったので、シナ人の薬局に行ってそれらしい薬草を買って病人に与えたりします。チベット人は慧海のことを、すごい医者だと信じていますから、病が次々に治ります。

慧海には仏教を勉強する時間もいるし、第一医者としての自信もないので、断りますが、断れば断るほど、患者がやってきます。それにこれで金をもうけるつもりはないので、貧乏人からは金をとりません。これもまた、評判になり地方にまで名声が広がり、何日もかけて病人がやってきます。

ついには法王に召されることになります。法王からは「ラサにとどまって、医者として人々を治療してくれ」と声をかけられます。

法王はダライ・ラマ13世で当時およそ30歳程度だったようです。慧海は法王は鋭い政治感覚を持っている人だと判断しています。

侍従長から侍従医になるように勧められますが、「自分は仏教の道を進む身だ」と固辞します。

あるとき高貴な尼僧に頼まれ病気の診断をします。リュウマチと胃病を抱えていましたので、薬を処方しましたとこら、病気が改善しました。

この人は実は前大蔵大臣の妻でした。それがきっかけで、慧海は前大蔵大臣の屋敷で生活するようになります。

当時のチベットは日本の風習とは相当に異なります。僧侶が結婚することも珍しくないのです。

当時のチベットの婚姻は多夫一妻制です。
結婚は親が決め、長男が嫁をもらいますが、
長男に兄弟があればその弟達とも結婚します。

前大蔵大臣も僧侶であり妻も尼僧で、当時の日本の僧侶からすれば考えられない話です。

昔々、チベットは人肉を食べる国でした。およそ1300年も前に王様がシナの姫を迎えるとき、シナの皇帝が「チベットが仏教を取り入れ、これまでの習慣を改める」ことを条件にしたことから、インド仏教がシナを通してチベットに伝わったということです。

最初にチベットで信仰されたのは、旧教といわれています。それによると「酒を飲み肉を喰い、女色を愛しつつ禅定(ぜんじょう)を修めれば、直ちに即身成仏(じょうぶつ)することが出来る」と説くものです。

あまりの仏教の腐敗に対して、戒律こそ重要であると説く新教が勢力を持ちますが、慧海からすれば、チベット仏教は堕落しています。