大友宗麟

戦国時代の一時期、九州に覇権を誇ったキリスタン大名大友義鎮(よししげ、後宗麟ーそうりん)はいったいどういう人物だったか。

評価は真っ二つに分かれるようです。
才気煥発、正義感にあふれ、宗教に深い関心を持つ等々の評価を受ける反面、行動粗暴、実父に嫌われ、策略を弄し、好色家で多くの妾を蓄え、冷酷で優柔不断だというものです。

私は彼と会ったことは勿論ありません。が、私の独断と偏見によると、後者の評が正しいと思います。私には義鎮(宗麟)が賢君だったとはとても思えません。

 

大友家
出自は藤原氏を祖先にする説と頼朝落胤説があるようですが、はっきりしているのは初代大友家当主能直(よしなお)は鎌倉幕府、頼朝に豊後・筑後守護職と鎮西奉行職に輔任され、九州に下向したということです。鎌倉幕府からの命令で九州に下向したのは少弐、島津と同じです。
それから戦国時代までの300年あまりの間、大友家は多くの庶流=分家(吉弘、戸次、立花、臼杵、田原、一万田等)を輩出しながら、府内(大分)を中心に勢力を固めていきます。

義鎮(宗麟):1530年~1587年。父大友義鑑(よしあき)は嫡男義鎮を嫌い、家督を義鎮の異母弟である塩市丸に譲ろうと画策しますが、義鎮を推す一派が反義鎮一派を襲撃(「二階崩れの変」といわれています)、義鎮は重症を負った義鑑から家督を強奪します(1550年、義鎮21歳。以下宗麟といいます)。

宗麟が生きた時代背景をおさらいしておきましょう。
室町幕府は15世紀中葉には弱体化し、将軍足利義教(あしかが よしのり)が赤松満裕(あかまつ みつすけ)に殺される(1441年)始末で、日本中混乱を極めていき、1467年から約10年間に亘って応仁の乱が勃発し、下剋上=力の論理が幅を利かしていきます。15世紀末から16世紀末まで戦国時代といわれ、宗麟は戦国時代末期、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉とほぼ同時期に活躍しました。

宗麟が家督を継いでからの20年間大友家は順調に勢力をのばし、1570年頃には南の島津を除く九州全土を勢力下に置きます。
宗麟がこの時期順調に勢力をのばした外的要因は、一つには北部九州では室町幕府の力が落ちて、残ったのが比較的弱小の武将であったこと、大内は毛利に後ろをつかれる恐れで全力をこの地に傾注できなかったこと、等時の運があったと思います。
宗麟は戦争の最前線で指揮を執るのではなく、先に記したような頼りになる多くの武将がこれらの戦いでは十分な働きをしてくれます。宗麟自身はもっぱら在地武将の凋落や室町幕府に多額の献金をしたりの裏工作で成果を上げます。室町幕府からは九州各国の守護職を獲得、さらに九州探題の地位まで獲得します。

 

北部九州には、他の地域とは異なる戦乱の火種があったと思います。
第一に博多は明との貿易で莫大な富を生みだしていましたので、室町幕府はじめこの地を支配しようという勢力が絶えません。
室町幕府が弱体化すると、山口の大内が触手を伸ばし、そうはさせじと九州の豪族、少弐や菊池や大友が反抗しますが、力に勝る大内は1530年ころには博多を手中にいれます。ところが領主大内義隆が奢侈に走ると、武闘派の陶隆房は義隆を殺害(1551年)、大内家は混乱に陥ります。これを逃さず毛利元就が大内を攻め、今度は毛利が博多を狙ってきます。

このように、この時代筑前(福岡)では博多が常に火種になり、大友、大内、毛利、竜造寺等々が敵になり味方になり強奪戦を繰り広げます。

この地のもう一つの不安定要因としては、在地の武将の存在です。

日本中に在地の武士団はいたのでしょうが、他所と少し違うのはこの地には太宰府があり、その退役官人が武士団を作っていましたし、平安時代藤原純友の乱の鎮圧に力があった荘園出の武士団がいたことです。彼らからすれば、鎌倉、室町時代より古い名家で、幕府が送り込む守護大名とくらべ、家柄としての誇りがあったでしょう。新参者に対してそれなりの反発心があったと思います。秋月家や菊池家等が該当します。

最後にこの地の紛争のタネは領主自らが作ります。

一つは宗麟のキリスト教への傾斜です。
宗麟としてはキリスト教がもたらす経済効果も期待したのでしょうが、説得力に欠け多くの家臣は反対し、大内家の不安定要因になります。

そして、決め手は宗麟の女癖の悪さです。手当たり次第に妾を作り、あろうことか家臣を殺害してその妻を妾にします。
この殿様についてくる家臣はいないでしょう。

 

宗麟絶頂期1578年、宗麟は大軍を日向に送り島津と戦争を始めますが、耳川の戦いで大敗し、衰退の道をまっしぐらに転げ落ちます。
勢いづいた島津軍は北上し、大友軍を府内(大分)に追い詰め、大友家を守ってきた立花道雪高橋紹運等の猛将も倒れていきます。

後は大阪に上って、秀吉の配下になることを条件に、秀吉を九州征伐に仕向けるのが残された方策でした。秀吉が大軍を引き連れて久留米に到達したとき島津は降伏、しかし宗麟はことの決着を見る前に死去します。近親者による毒殺とも病死ともいわれています。

 

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いつの間にか雛が2匹かえっていました(5/25)。そして26日には巣立ちしました
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