九州の歴史

これまで九州について、特に歴史についてはほんの一握りのエピソードしか知りませんでした。

太平記で、後醍醐に京を追われた尊氏が九州に上陸、太宰府に本拠を置く少弐を頼りますが、尊氏が太宰府に到着する前、迎え撃つ宮方の菊池によって太宰府が陥落、尊氏は宗像大社に戦勝を祈願し、 僅か2千の兵を率いて、太宰府に向けて北から進撃、多々良浜で宮方の兵2万と激闘。これに勝利した尊氏は太宰府で兵を整える間もなく、再度京に上ります。

歴史に「もし」はない、といいますが、もし尊氏が九州で勝利しなければ、室町時代はなかったのでしょう。

私の記憶に残るもう一つのエピソードは、以前このブログで紹介しました秦新二著[文政11年のスパイ合戦]で展開したシーボルト事件の顛末です。

徳川第11代将軍家斉は義父の島津重豪(しげひで)に日頃からの憤懣が鬱積していて、シーボルトと重豪との怪しい行動を利用して、「事件」に仕立て上げたというとても面白い話です。

九州に住むことになったのだから、これを機会に少し九州の歴史を勉強しようと、アマゾンで「九州の歴史」を検索しましたら、戦国時代の戦闘の歴史本ばかりで、それ以前の鎌倉、平安あたりのまとまった本は見つかりませんでした。将門等「歴史のビッグネームがいた」のように特別なことがない限り、他の地方でもあまり歴史は残っていないのでしょうか。

今回数冊読みました。主なところはムック「戦国 九州軍記」(学研)、「歴史街道 戦国九州三国志」(2018、PHP)、吉永正春「九州戦国の武将たち」(2000、海鳥社 )、吉永正春「筑前戦国史」(2009、海鳥社)、山本博文「江戸300藩物語藩史」(2015、洋泉社)、童門冬二「立花宗茂」(2006、集英社)です。

これらの本は基本チャンチャンバラバラ で、それ以前の歴史がどうだったのかはつぶさにはわかりませんが、中世の歴史は次のように概観できます。

西暦930年代、東では平将門、西では藤原純友が騒乱(承平・天慶の乱)を起こし、これを討伐したのが武士団の発生で、これらの武士団の多くは、国・郡の官人あるいは荘園の名主・荘官が組織したものと言われています。
但し、九州では太宰府が古代から地域を管轄していて、その退官者が武士団を形成した例も多々見られるといいます。
これに属するのは、秋月・原田・高橋・江上、菊池、松浦党、宗像大宮司家、阿蘇大宮司家等です。

平家の時代には、平家一門が皇室領大荘園の管理を担当し、一定の力を持ちますが、鎌倉時代にはこれらの土地は没収され、鎌倉幕府の武将が地頭職をもらい、次々に鎮西の荘園に下ってきます。この中で、九州三人衆と呼ばれる筑前の武藤(小弐)、豊後の大友、薩摩の島津が最も有力な守護職になります。

鎌倉前期、小弐は太宰府に居し、古代からの太宰府の権限を掌握すると同時に、承久の乱で公家に対して武家が圧倒的に優位な立場になると、当地での公家の権限もすべて掌握し、そのほかに三前二島(筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬)を差配します。
大友は豊後・筑後・肥後の三国を、島津は薩摩・大隅・日向の奥三国を支配下におきます。

鎌倉時代中期(1274年、1281年)降ってわいた元寇に死闘を繰り広げたのは、少弐・大友を中心とする九州武士団でしたが、終わってみればその恩賞はなく、それのみか鎌倉・北条は一門の多くを守護職として九州に送り込み、裁判の強化の名目で設置した博多・鎮西探題が太宰府の権限を奪っていきます。

当然の結果として、中央の武官官僚である探題と九州三人衆の守護職・特に少弐との対立は深まります。

鎌倉幕府に対する不満を背景に、1333年後醍醐天皇は各地の武将に号令。足利尊氏、新田義貞、楠正成等は結束して鎌倉幕府を倒します。 後醍醐は建武の新政を開始しますが、矛盾や不満が噴出、尊氏は後醍醐から離反します。 対して後醍醐は義貞や正成に命じて尊氏を排斥、尊氏は少弐を頼りに九州に逃れます。

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